先日、お向かいさんが台湾に行ってこられた。
日本の新幹線技術が海外で初めて採用された台湾新幹線。
その台湾新幹線にも乗って、台湾を1周されてきたようだ。
頂いた台湾みやげの数々。
行きは台北から高雄まで1時間45分、新幹線での鉄道の旅。
帰りは高雄から台北まで、バスで各地を廻っての旅だったらしい。
台北101(世界一高い建造物・508m)からのすばらしい夜景の話や
肉汁たっぷりおいしかった小籠包の話などを聞いて、
私は2年ほど前に行った台北への旅をふと思い出した。
63年ぶり故郷訪ねた台北旅行(2005.2月)
2年前の冬、母の80歳の誕生日を祝って、
私達と弟達とで母に台湾旅行をプレゼントした。
母に同行したのは、主人、私、弟。
これは、母のルーツを辿る旅だった。
母は80年前、当時日本の占領下にあった台湾で、
日本人同士の国鉄マンと女教師の間に3女として生まれた。
日本が戦争の真っ只中にあった17歳の時、
母は、軍のタイピストとして働く為、志願してシンガポールに渡った。
戦争が終ったら、もちろん台湾に戻るつもりで。。
しかし、戦争は日本が負け、台湾も日本の占領地ではなくなった。
母は、台湾に戻ることなく、
若い頃の写真や思い出の品をほとんど台湾に残したままで、
シンガポールから日本へ直接引き上げざるをえなかった。
あれから、63年。
それ以後、母は一度も台湾を訪ねたことがない。
もう一度台湾を訪れてみたいという母の願いを叶える為に
企画したのが、その時の台北旅行だった。
目的は二つ。まずは母の出た第一高女(高校)を探す事、
そこには母の青春の思い出がいっぱいに詰まっているのだろう。
そして、二つ目は当時住んでいた家、もしくは地域を探す事。
私達は、ツアー旅行のフリーの日を利用して探し始めた。
一つ目の第一高女は簡単に見つかった。
母が総統府の近くだったということを覚えていたからだ。
総統府 このルネッサンス様式の建物を母は覚えていた。
そして、63年ぶり。
総統府の斜め向いに、母の卒業した高校が。。
「ああ、ここや。。ここや。。」と
ゆっくしか歩けないはずの母が少し小走りになる。
懐かしそうに見あげる学校。
「ああ、この校舎覚えている。。この木も覚えている。。」
私も弟も見たことのない風景。
でも、高校生の母は、この学校に毎日通っていたのだ。
母の記憶によると、学校前の公園を斜めに抜けて通り、
早足で家まで20分くらいだったらしい。
高校生の足で20分ということは、80歳の足では1時間以上。。
母が横切ったという公園も見つかった。
母の記憶を頼りに、63年前の家探しが始まった。
もちろん63年も経っているわけで、
家は残っていない確立の方が圧倒的に高い。
でも、そばまで行ってみようと歩き始めた。
病院の前を通った記憶があるらしいが、
それらしい台大医院復建部と書かれた古びた病院前を通る。
しかし、この地点で足が痛くて母が歩けなくなり、
弟がおんぶするよと言ったけれど、
「もう、ここで充分。ここまで来れたらもういいよ。」と言い出した。
それで、この先はタクシーで周る事にした。
タクシーの運転手さんと、お互い上手とはいえない英語で話し、
事情を分かってもらい、とにかくゆっくりと走ってもらう。
母の記憶を辿って、右へ、左へ。。ぐるぐると色々な所をまわり、
タクシーの運転手さんも、昔日本人の家がたくさんあった辺りに
連れて行って下さったが、はっきりとここだ!という所までは
行き着かなかった。
台北、今の街並み。63年前との余りもの違いに、
見つけられなくても仕方ないかも。。
結局家は見つからなかったが、
「もう、第一高女も見れたし充分。ありがとう、ありがとう。」と、
母はこの日の結果に充分満足してくれた。
そして、その夜、ちょっと豪華な台湾料理を食べながら、
母の青春時代の思い出話を私達は色々と聞いたのだった。
。。これが2年前、母のルーツを辿った旅の台北旅行。
この旅行も私にとって、忘れがたい思い出の旅行なのです。
ということで、お向かいさんのお土産から始まって、
長話になってしまいましたが最後まで読んで下さった方、
本当にありがとうございました。
日本の新幹線技術が海外で初めて採用された台湾新幹線。
その台湾新幹線にも乗って、台湾を1周されてきたようだ。
頂いた台湾みやげの数々。
行きは台北から高雄まで1時間45分、新幹線での鉄道の旅。
帰りは高雄から台北まで、バスで各地を廻っての旅だったらしい。
台北101(世界一高い建造物・508m)からのすばらしい夜景の話や
肉汁たっぷりおいしかった小籠包の話などを聞いて、
私は2年ほど前に行った台北への旅をふと思い出した。
63年ぶり故郷訪ねた台北旅行(2005.2月)
2年前の冬、母の80歳の誕生日を祝って、
私達と弟達とで母に台湾旅行をプレゼントした。
母に同行したのは、主人、私、弟。
これは、母のルーツを辿る旅だった。
母は80年前、当時日本の占領下にあった台湾で、
日本人同士の国鉄マンと女教師の間に3女として生まれた。
日本が戦争の真っ只中にあった17歳の時、
母は、軍のタイピストとして働く為、志願してシンガポールに渡った。
戦争が終ったら、もちろん台湾に戻るつもりで。。
しかし、戦争は日本が負け、台湾も日本の占領地ではなくなった。
母は、台湾に戻ることなく、
若い頃の写真や思い出の品をほとんど台湾に残したままで、
シンガポールから日本へ直接引き上げざるをえなかった。
あれから、63年。
それ以後、母は一度も台湾を訪ねたことがない。
もう一度台湾を訪れてみたいという母の願いを叶える為に
企画したのが、その時の台北旅行だった。
目的は二つ。まずは母の出た第一高女(高校)を探す事、
そこには母の青春の思い出がいっぱいに詰まっているのだろう。
そして、二つ目は当時住んでいた家、もしくは地域を探す事。
私達は、ツアー旅行のフリーの日を利用して探し始めた。
一つ目の第一高女は簡単に見つかった。
母が総統府の近くだったということを覚えていたからだ。
総統府 このルネッサンス様式の建物を母は覚えていた。
そして、63年ぶり。
総統府の斜め向いに、母の卒業した高校が。。
「ああ、ここや。。ここや。。」と
ゆっくしか歩けないはずの母が少し小走りになる。
懐かしそうに見あげる学校。
「ああ、この校舎覚えている。。この木も覚えている。。」
私も弟も見たことのない風景。
でも、高校生の母は、この学校に毎日通っていたのだ。
母の記憶によると、学校前の公園を斜めに抜けて通り、
早足で家まで20分くらいだったらしい。
高校生の足で20分ということは、80歳の足では1時間以上。。
母が横切ったという公園も見つかった。
母の記憶を頼りに、63年前の家探しが始まった。
もちろん63年も経っているわけで、
家は残っていない確立の方が圧倒的に高い。
でも、そばまで行ってみようと歩き始めた。
病院の前を通った記憶があるらしいが、
それらしい台大医院復建部と書かれた古びた病院前を通る。
しかし、この地点で足が痛くて母が歩けなくなり、
弟がおんぶするよと言ったけれど、
「もう、ここで充分。ここまで来れたらもういいよ。」と言い出した。
それで、この先はタクシーで周る事にした。
タクシーの運転手さんと、お互い上手とはいえない英語で話し、
事情を分かってもらい、とにかくゆっくりと走ってもらう。
母の記憶を辿って、右へ、左へ。。ぐるぐると色々な所をまわり、
タクシーの運転手さんも、昔日本人の家がたくさんあった辺りに
連れて行って下さったが、はっきりとここだ!という所までは
行き着かなかった。
台北、今の街並み。63年前との余りもの違いに、
見つけられなくても仕方ないかも。。
結局家は見つからなかったが、
「もう、第一高女も見れたし充分。ありがとう、ありがとう。」と、
母はこの日の結果に充分満足してくれた。
そして、その夜、ちょっと豪華な台湾料理を食べながら、
母の青春時代の思い出話を私達は色々と聞いたのだった。
。。これが2年前、母のルーツを辿った旅の台北旅行。
この旅行も私にとって、忘れがたい思い出の旅行なのです。
ということで、お向かいさんのお土産から始まって、
長話になってしまいましたが最後まで読んで下さった方、
本当にありがとうございました。