かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

今日、高校時代の友人から合同クラス会と云う名目の忘年会の案内を受け取りました。

2015-11-12 | 気ままなる日々の記録

発病前なら即出席で、会場へは一番乗りして、最後までいて大いにお酒を頂き、10年分ぐらい忘年をするところですが、今では体が思うように動きません。この上少しでも酩酊したら何を起こすか予測不可能、かくして、残念ながら欠席の返事を書きました。

僕は確かに「三途の川」の途中まで行って、引き返してきました。

  救急車の中でのことは記憶もマダラですし、付き添ってくれた家内の話してくれる経緯と僕の記憶が一致しません。これは貴重な体験です。

 はっきりしていることは、少しも痛くなく、苦しくもなかったことです。ですから、クラス会で皆に伝えたいことは「我々の年齢になれば、三途の川を渡るのは少しも苦しくないぞ」ということです。

 体全体がもうそろそろ休みたいと思っている訳で、無駄な抵抗はしないのでしょう。ありがたいことです。

 年を取ると大切な宝ものは「想い出」です。

 若かった頃の自分を赤裸々に思い出し慈しむのも楽しいことでこの楽しさは年配者の特権でしょう。

 欲を言えば僕の場合

 ①羊蹄山を登りたかった(後日「鳥海山」に訂正)

 ②冬にスエーデンあたりに行って白夜とスターダストを見てみたかった。

 ③那須高原で夏を過ごしてみたかった。

 ④フェリーで車・家内と一緒に北海道へ渡り、一夏北海道をふらふらするという計画は真剣に考えていました。

 発病がもう1年遅かったら多分これは実現していたと思います。

 昨今は、一億総活躍とか消費拡大とかです。安部さんから表彰状が来そうな話で、赤面・汗顔の思いです。当時は年金を貰いながら私立大学のお手伝いをし、子どもたちも職についていましたので、つかの間、少し豊かでした。

《補足)羊蹄山について少し説明します。この山は山形県と新潟県の境界ぐらいにあって、標高は1300mぐらいで、いわゆる岳人が好む山ではありません。この山の魅力は

 ①登山道のあたりを流れる清水のせせらぎと

 ②山から日本海方面を見たときの眺望です。冬の間に吹き付けた雪や霰が岩陰に溜まり、それが夏になって溶けだしてせせらぎを造っているのです。この山にいわゆる土はありません。全部風で吹き飛ばされてしまうからです。だから水は清く飲用可能です。登りで缶ビールを此処へ埋め込み帰りに掘り出せば適温に冷えたビールを楽しむことができます。

また、この山から見る真っ赤な夕焼は格別だそうです。夕焼雲が日本海に映り、思わず目を水平線の方に走らせると、日本人は、そこに、極楽浄土を見るといいます。これはある仏教学者の本に出ていました。(T)


約年前のブログがとどきました。「貧乏が厭なら勉強をおし。」

2015-11-12 | 気ままなる日々の記録

このタイトルは司馬遼太郎の「坂の上の雲」に出てくる四国伊予藩の下級武士秋山家で父が息子たちに云った言葉だそうだ。息子たちは以下(ヤフーのネット検索べ見つけた「坂の上の雲」のあらすじと紹介より)のように勉強した。
 日本騎兵を育成し、中国大陸でロシアのコサック騎兵と死闘をくりひろげた秋山好古。東郷平八郎の参謀として作戦を立案し、日本海海戦でバルチック艦隊を破った秋山真之。病床で筆をとり続け、近代俳諧の基礎を築いた正岡子規。この三人を中心に、維新を経て近代国家の仲間入りをしたばかりの「明治日本」と、その明治という時代を生きた「楽天家達」の生涯を描いた司馬遼太郎の歴史小説。1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)までの 約4年間、産経新聞夕刊に連載された。また、2009年から3年間、NHKでスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放映される。この「ブログ」では、昔読んで身震いした203高地の戦いにふれ、日本と云う国がよきリーダーを育てるのに如何にダメな国であるかを述べたいと思っています

次に明治37~38年に戦われた日露戦争に目を向けます。激戦地の一つが203高地。この高台は遼東半島内にある天然の良港旅順港を見下ろす標高203mの高台の名前で、日ロ双方にとって戦略上の重要地点で、開戦当初はロシア軍基地があり、それを奪還しようと日本軍が戦いを挑んだ攻防戦です。ロシアのバルチック艦隊がこの港に入ったら日本海の制海権はロシアに奪われてしまうと思われ、何としてでも203高地を奪還してそこに大砲等の基地を建設して、旅順港を日本側の管理下に置きたいという作戦上の最重要戦でした。「坂の上の雲」を初めて読んだ時身震いが止まらない個所があった。それは、乃木将軍が突撃を繰り返し戦死者の山を築いたところだ。これに関して今ネットで調べてみると最近モスクワで日露戦争時代の旅順港の写真が見つかったということで、これをもとに戦死者の山はどうしてできたかをNHKが調べて番組を創り放送したようです。それが、「そのとき歴史が動いた-203高地の攻防」でその映像がネット上で公開されていました。ここでは、この番組にもたれて戦死者の山のことを書きます。先ず203高地の場所です。日清戦争で日本が中国から賠償として取った遼東半島の一角。ここは「三国干渉」で中国へ返したが、そこを、ロシアが中国(清国)から租借し、ロシア極東海軍の軍港にしていた旅順港があるところ。天然の良港旅順港を取り巻くように旅順市街地があり、この市街地には病院を始めロシア極東海軍を支えるのに必要な倉庫や商店街がありその商店街を取り囲むようにロシア陸軍の要塞が築かれていた。

(1年前のコピーはこの辺で止めます)

 

(「坂の上の雲」は文庫本で10冊近くあったと思います。それをここに持ち込んでいたようです。

息子がここに来てくれたとき本を自宅に運んでもらいましたので今は此処にありません。1年前の方が集中力があったなあ、と思っています。失礼シマシタ。(T)