かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

野原のすすき

2015-11-13 | 気ままなる日々の記録

   数日前、中日新聞の一面にススキの野原と夕日を眺める人々の写真が載り、良い写真であると思った。何処で撮られたれたかは見落とした。

   ススキの野原を見るとすぐおもいだすことがある。以前、兄弟夫婦3組で数年に1回ずつ旅行することになった。理由や誰が云い出したかは忘れてしまった。蓼科高原、箱根、奥湯河原 蒲郡などへ行った。

   箱根の時は、妹夫婦が計画し芦ノ湖湖畔の有名なホテルに宿泊した。この系列のホテルは4か所ぐらいしか泊まったことがないが、その中でもとくに有名なホテルと云うことで期待していた。外観のデザインは確かにモダンで人目を引くが内部はそれほどでもなく落ち着きがあり、歴史を感じさせる雰囲気が漂っていた。一番期待した野天風呂は全然風情がなく惜しい気がした。 北海道の超有名なホテルでも同じような感想を持ったので、ホテルの野天風呂に風情をという私の方が間違っているのかもしれない。意外であったのは紅葉シーズンであったにもかかわらず観光客が少ないことであった。おかげでのんびりと過ごすことができたが。

  兄夫婦は用事があるとかで早めに帰った。残りは確か大涌谷へ行って景色を眺めながら温泉卵を食べたと思う。

  我々夫婦はこの計画に仙石原でもう1泊追加しススキの野原を散策したのだ。紅葉と広いススキ野、大好きな硫黄泉申し分のない旅のように思えるがその時1泊追加したのは理由がある。私が50代にも関わらず腰痛で悩んでいたからだ。その後、旅行は自然消滅し15年たった。私の腰痛は治ったが、義妹はその後60代で世を去り我々は予想外の病気にかかり旅行にはとてもいけそうにない身になってしまった。代わりにテレビの旅番組を楽しんでいる。(E)

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木曽川河川敷のススキ。


羊蹄山は一名蝦夷富士とも言って北海道でした。謹んで訂正。

2015-11-13 | 気ままなる日々の記録

メールで娘が知らせてくれました。此処では山形と新潟の境界線に近い山の名は不明。北海道の羊蹄山もいい山で、山容は本文の山とそっくりです。蛇足ですが、原野商法と云う言葉をご存じだろうか。その商法を百も知りつつオソマツ君はそういう話に乗って北海道の羊蹄山の山麓に500坪ほどの土地を持っています。登記簿もチャントありますぞ。山小屋でも建て一夏羊でも放牧して太った羊を売れば、小遣いくらいは稼げます。シツレイシマシタ。(T)


今日、高校時代の友人から合同クラス会と云う名目の忘年会の案内を受け取りました。

2015-11-12 | 気ままなる日々の記録

発病前なら即出席で、会場へは一番乗りして、最後までいて大いにお酒を頂き、10年分ぐらい忘年をするところですが、今では体が思うように動きません。この上少しでも酩酊したら何を起こすか予測不可能、かくして、残念ながら欠席の返事を書きました。

僕は確かに「三途の川」の途中まで行って、引き返してきました。

  救急車の中でのことは記憶もマダラですし、付き添ってくれた家内の話してくれる経緯と僕の記憶が一致しません。これは貴重な体験です。

 はっきりしていることは、少しも痛くなく、苦しくもなかったことです。ですから、クラス会で皆に伝えたいことは「我々の年齢になれば、三途の川を渡るのは少しも苦しくないぞ」ということです。

 体全体がもうそろそろ休みたいと思っている訳で、無駄な抵抗はしないのでしょう。ありがたいことです。

 年を取ると大切な宝ものは「想い出」です。

 若かった頃の自分を赤裸々に思い出し慈しむのも楽しいことでこの楽しさは年配者の特権でしょう。

 欲を言えば僕の場合

 ①羊蹄山を登りたかった(後日「鳥海山」に訂正)

 ②冬にスエーデンあたりに行って白夜とスターダストを見てみたかった。

 ③那須高原で夏を過ごしてみたかった。

 ④フェリーで車・家内と一緒に北海道へ渡り、一夏北海道をふらふらするという計画は真剣に考えていました。

 発病がもう1年遅かったら多分これは実現していたと思います。

 昨今は、一億総活躍とか消費拡大とかです。安部さんから表彰状が来そうな話で、赤面・汗顔の思いです。当時は年金を貰いながら私立大学のお手伝いをし、子どもたちも職についていましたので、つかの間、少し豊かでした。

《補足)羊蹄山について少し説明します。この山は山形県と新潟県の境界ぐらいにあって、標高は1300mぐらいで、いわゆる岳人が好む山ではありません。この山の魅力は

 ①登山道のあたりを流れる清水のせせらぎと

 ②山から日本海方面を見たときの眺望です。冬の間に吹き付けた雪や霰が岩陰に溜まり、それが夏になって溶けだしてせせらぎを造っているのです。この山にいわゆる土はありません。全部風で吹き飛ばされてしまうからです。だから水は清く飲用可能です。登りで缶ビールを此処へ埋め込み帰りに掘り出せば適温に冷えたビールを楽しむことができます。

また、この山から見る真っ赤な夕焼は格別だそうです。夕焼雲が日本海に映り、思わず目を水平線の方に走らせると、日本人は、そこに、極楽浄土を見るといいます。これはある仏教学者の本に出ていました。(T)


約年前のブログがとどきました。「貧乏が厭なら勉強をおし。」

2015-11-12 | 気ままなる日々の記録

このタイトルは司馬遼太郎の「坂の上の雲」に出てくる四国伊予藩の下級武士秋山家で父が息子たちに云った言葉だそうだ。息子たちは以下(ヤフーのネット検索べ見つけた「坂の上の雲」のあらすじと紹介より)のように勉強した。
 日本騎兵を育成し、中国大陸でロシアのコサック騎兵と死闘をくりひろげた秋山好古。東郷平八郎の参謀として作戦を立案し、日本海海戦でバルチック艦隊を破った秋山真之。病床で筆をとり続け、近代俳諧の基礎を築いた正岡子規。この三人を中心に、維新を経て近代国家の仲間入りをしたばかりの「明治日本」と、その明治という時代を生きた「楽天家達」の生涯を描いた司馬遼太郎の歴史小説。1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)までの 約4年間、産経新聞夕刊に連載された。また、2009年から3年間、NHKでスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放映される。この「ブログ」では、昔読んで身震いした203高地の戦いにふれ、日本と云う国がよきリーダーを育てるのに如何にダメな国であるかを述べたいと思っています

次に明治37~38年に戦われた日露戦争に目を向けます。激戦地の一つが203高地。この高台は遼東半島内にある天然の良港旅順港を見下ろす標高203mの高台の名前で、日ロ双方にとって戦略上の重要地点で、開戦当初はロシア軍基地があり、それを奪還しようと日本軍が戦いを挑んだ攻防戦です。ロシアのバルチック艦隊がこの港に入ったら日本海の制海権はロシアに奪われてしまうと思われ、何としてでも203高地を奪還してそこに大砲等の基地を建設して、旅順港を日本側の管理下に置きたいという作戦上の最重要戦でした。「坂の上の雲」を初めて読んだ時身震いが止まらない個所があった。それは、乃木将軍が突撃を繰り返し戦死者の山を築いたところだ。これに関して今ネットで調べてみると最近モスクワで日露戦争時代の旅順港の写真が見つかったということで、これをもとに戦死者の山はどうしてできたかをNHKが調べて番組を創り放送したようです。それが、「そのとき歴史が動いた-203高地の攻防」でその映像がネット上で公開されていました。ここでは、この番組にもたれて戦死者の山のことを書きます。先ず203高地の場所です。日清戦争で日本が中国から賠償として取った遼東半島の一角。ここは「三国干渉」で中国へ返したが、そこを、ロシアが中国(清国)から租借し、ロシア極東海軍の軍港にしていた旅順港があるところ。天然の良港旅順港を取り巻くように旅順市街地があり、この市街地には病院を始めロシア極東海軍を支えるのに必要な倉庫や商店街がありその商店街を取り囲むようにロシア陸軍の要塞が築かれていた。

(1年前のコピーはこの辺で止めます)

 

(「坂の上の雲」は文庫本で10冊近くあったと思います。それをここに持ち込んでいたようです。

息子がここに来てくれたとき本を自宅に運んでもらいましたので今は此処にありません。1年前の方が集中力があったなあ、と思っています。失礼シマシタ。(T)

 

 


カメラの旅

2015-11-10 | 気ままなる日々の記録

 此処の夕食は早いときは5時30分ごろから配膳され、家にいたときより1時間くらいはやい。

従って、夜の時間が、長くなるわけで私はそれをテレビ視聴の時間と決めている。昼間はテレビを殆ど見ない。昨日は北朝鮮についての真面目な番組を見ていたので、今夜はもう少し柔らかい番組を見ようとリモコンでパチパチやっていた。

  「気ままに趣味旅」と云う番組に行き当たった。しばらくすると、前に一度この番組を見たことを思い出した。先回は「北海道への旅」であったが、今回は「秋の日光」ということであった。

  最初の被写体は、「華厳の滝」

  プロの先生の作品は右側に紅葉や黄葉をとりいれ、中心に瀧を配置するという縦長の構図であった。生徒である二人の作品は縦長と横長に分かれたがビギナーの私が見ても断然縦長が良かった。

  三人連れは瀧から10分くらいの中禅寺湖に移りボートの上から紅葉と湖を寫すことに挑戦する。水面の反射を取り入れると面白い写真が撮れるという。確かに個性的な作品の仕上がりになっていた。

  最期は、二荒山神社《ふたあらやま神社》の紅葉の撮影。

  紅葉の景色の中に建物を取り込むというアドバイスがあった。景色を中心にして、人物を取り込んだ写真も人気があったが、個人的な感じとしては、異質のものを二つ並べるのはとても難しいと思われた

  30年も昔京都へ庭園を見によく出かけた。勿論紅葉の時期は毎年出かけていた。あるとき紅葉をバックにシャッターをお願いしたことがある。後で分かったことだがこの方はプロの写真家で私が持っている安物のカメラでシャッターをお願いするのは図々しいことだったと大いに恥じた。しかし何と親切に自分のカメラに撮った写真を数枚後程郵送して下さった。

  その時紅葉は光が当たっている裏側から陽が出ているときに撮るとよいと教わった。あれからカメラの性能も取り方もいろいろなことが変わり、今その方法が良いかどうかも定かでない。(E)


「春日大社秋の例祭への誘い!

2015-11-09 | 気ままなる日々の記録

     私の師匠のブログ「私の70代」を訪れてみてください。見出しの例祭がスライドショウで紹介されています。春日大社と云えば平安時代天皇家と外戚関係を築き権勢を謳歌した藤原氏の氏神とされた歴史と伝統を誇る国営大社であった。蛇足ながら「源氏物語」の筆者紫式部も藤原道長の保護を受けていたということである。

 11月民間でいう「七・五・三」に合わせて例祭が奉納されていたようである。

 その舞楽がスライドショウで紹介されています。

奉納されていた舞楽が千年以上前の衣装と舞楽がそのまま再現されているようである。

  中国から持ち込まれた様式なのか韓国からの様式なのか定かでありませんが、こうしたものが守り残されている我が国の伝統文化に深い敬意と愛着を感じます。

  前出の藤原氏であるが、かの有名な大化の改新を中大兄皇子『(後の天智天皇》と協力して大化の改新を断行した名門公家で天智天皇から藤原の姓を賜ったりした。以後いよいよ力を得た名門で平安時代に入ると不比等の時代から自分の娘を天皇家に嫁がせ男の子が生まれると天皇の祖父と云う立場を得ていよいよ力をつけ天皇を補佐するという意味で摂政や関白と云う職を造り自分がその職につき、平安時代の「摂関政治」を確立した家柄である。だから、春日大社や大仏殿の倉庫には国宝級の古文書が山ほど残されてていることでしょう。蛇足ながら、源氏物語の作者紫式部も藤原道長の庇護をうけていたようである。

  自宅へ帰るとそれなりの資料がありますが、此処では高校時代の記憶に頼って書いていますので少し彩重(あやしげ)ですが。それらを思い興しながら春日大社のスライドショウをご覧になると感慨も一入(ひとしお)です。シツレイシマシタ。(T)


最近の新聞の見出しに異議あり!

2015-11-07 | 気ままなる日々の記録

   今日は土曜日で予定は、午前10時からのお風呂だけ。明日は何の予定もない日曜日だと思っただけでウキウキして、ゆっくり新聞を読みに行きました。愛読紙は読売・朝日・毎日・日経時々中日です。

  最初にアレ?と思ったのは「BPD政府与党に圧力」と云う毎日の見出しでした(2015・11・7(土)の毎日でした。何のことだかさっぱりわかりません。そういえば、カネがねこのローマ字の大文字活字体を並べた新聞の表記の疑問を感じていました。例えば最近とみに多いTPP,やらIS、さらに、真央SP,GP首位とあったりします。短く力のある見出しにしたいという新聞の苦労は分かりますが、少しやりすぎといいますか、日本語を乱す恐れがある大罪ではないかという気さえしてきます。まあ、国際連盟を国連と短縮することは認められると思いますが、アルファベットの大文字を並べるのは逸脱も甚だしいと思われます。ちなみに、帰ってパソコンで調べて見ると

BDP:「放送倫理愛用向上機構」

TPP:「環太平洋戦略的軽罪協定」で加盟国は、米国、オーストラリア、ニュージーランド、ペルー、ベトナム、マレーシア、シンガポール、チリ、ブルネイの9か国だそうである。

もう許せないのは「首相法人税減税方針をYIESで講演」とあったことである。

  YIESは「読売経済懇話会」だそうである。この見出しを書いていたのは読売新聞であった。こんな懇話会のの名前を一般読者が知る由もない。読売新聞の関係者はにとっては使い慣れた言葉か知らないが校正係も編集部も怠慢の誹りは免れない。他紙は都内の講演会でと書いていた。

  こうして見てみると明治時代の関係者は大変な努力をして、日本の国際化や学問レベルの向上に努めてきた。何しろ「自然」という概念は江戸時代にはなかったそうである。各学問分野では新しい概念と言葉にあふれていた。それを丁寧に調べ理解したうえで、その概念が伝え易い漢字を当てて日本語を創っていった。

  数学について言えば微分も積分も函数=関数三角関数もそうして造られた日本語であった。国際化が進む今日もう一度あの時のような努力をして日本語を護らないと民族の精神が壊れてしまうと思われます。

明治時代西洋の学問を日本に導入しようと努力した学者は先ず自分が西洋の最先端の学問を勉強し十分にりかいしてその内容を漢字で表そうと努力された、。其れだけに漢文や漢字の変遷にも精通されていた。数学に関する専門用語を御造りにになった明治の諸先輩の深い洞察力には全く頭が下がる。英単語を省略して短くしてそのまま日本語にしようというようなオソマツな態度はみじんもない。アルファベットの大文字を数字並べて新聞の見出しにするような事態は新聞業界の劣化以外の何物でもない。(T)


「女心」について、ケアーさんから学ぶ。

2015-11-07 | 気ままなる日々の記録

 

エレベーターの中での話、以下Cはケアーさん、Oが私です。

O「寒くなりました。今朝のさむかったこと。ほんとに震えていました。」

C「ほんと、今朝はよく冷えました」

O「それでも両腕とも半袖で、お若いですね!」

C「若ぶってるだけで、全然若くないですよ。私が使わせて貰っている控室に二十数名の女の子がいるけど、私が最年長で、まだ全員が半袖よ。だから私も誰かが長そでを着だすまで絶対私が最初に長そでになることだけは避けようと思って頑張っているの」

 

O「他の子が最年長の人が半袖なのに自分が最初に長そでになることだけはイヤと思っていたら、全員が風邪をひくまで半袖ですねえ」

C「そうなるかもしれないね。そうなっても私が最初に風邪で休むのだけはイヤ!よ」

O「皆が風邪をひいても休まないという競争になってしまったら、命がけの競争になるね。

O「最初に死ぬのはイヤと思っていても死ぬときは、死にますから、そこでやっと勝負がつくわけだけど」

C「女ごころはいつも、命がけよ。Oさんは、女心の分からない人だね。イジワルナ考え方ばかりして。!」

O「ギャフン!」気持ちの世界に、論理的推論を持ち込んではいけないということらしい。失礼しました。(T)

 

 

 
祖父と薪取りの思い出
 昭和20年は約明治80年ですから、私の祖父は明治12年の生まれだと思います。晩秋のぽかぽか日和の日には必ず祖父と林へ薪取りに出かけたことを思い出します。私の子ども時代は...
 

 


1年前の僕のブログがグーブログから届きました。それを紹介します。

2015-11-04 | 気ままなる日々の記録

私のブログでチョット触れたカナダのイエローナイフとアメリカのナパ・バレーについて偶然とはいえ最近新聞で話題になっているので少し触れます。

イエローナイフでは、日本人の女性が一人行方不明になっていて,カナダの警察がヘリコブターを出して捜索にあたっているというニュースです。今の時期、当地は激寒でとても外で一夜を過ごせるはずもなく、何処かのホテルにパスポートを提示して泊まって居たらすぐにわかると思われ、チョット不吉な感じです。無事を祈らずにおれません。ナパ・バレーについては、毎日新聞11月1日号6面の人欄で詳しくワイン栽培に関して述べていました。ここでワイン栽培を始めたのは日本人の実業家辻本憲三さんで、今では世界でも有名な美味しいワインを製造しておられるとか。私と友人があの頃バンクーバーにいたら必ずナパバレーに行って日本人経営のワイナリーにたどり着き,秘蔵ワインを大量に買い込み今頃大儲けしていたかもしれないと思うと急逝した友人が惜しまれます。大儲けというのは、秘蔵の古ワインはオークション市場があって、人気のある年代物ワインには驚くほど高い値段がついて取引されているからです。お金持ちの息子が父の米寿祝いをするのに、父が好きだった○○ワインの××年ものを探しているという注文が入ると個人秘蔵の該当ワインが1本200万円で取引されることも稀ではないからです。急逝した友人について無常にして無情と書きましたが、もう一つ無念を加えたいと思います。


今日は「文化の日」

2015-11-03 | 気ままなる日々の記録

   ここ数日朝晩の冷え込みが厳しく、午後の陽だまりが恋しい日々となりました。その陽だまりの中

家内に車椅子を押してもらって散歩に出ました。コースは刈取りの終わった田圃のあぜ道と田圃の中に造られた稲架(はざ)に稲が掛けられた田圃の中のメインストリート。背中一杯に太陽の光を浴びて頭の中を解放してひたすら歩きまわってきました。

   子どもの頃我が家でも稲架を造っていてリヤカー一杯に積んだ稲を夕方稲架にかけていました。稲架に掛けたお米は美味しくなるからと母が云い、疲れ切った体に鞭を打って稲架の上の方に稲を放り投げて稲架かけをしていました。

   そういえば秋の楽しみはスーパーに「新米」が出ることでした。「今日は新米だよ」と聞いて戴くご飯の美味しかったこと、この施設の給食ではこういう季節感がゼロで残念至極。噂では「何とか・食品」とかいう社員食堂などを受託運営している名古屋の調理会社が入っているとかいう話だが、季節感もなければ、味付けもイマイチ。

   「今日は新米だよ」と云う母の言葉が懐かしい!」。

 確か9月初旬には三重県産の新米がスーパーに出ていたと思うが今もそうだろうか?

(T)

稲を刈り取った田の中に造られた稲架(はざ)。

空気が乾燥しているため蔭の線がクッキリしている。

写真中央の高い山は御嶽山、雪化粧も見える。