峰猫屋敷

覚え書と自己満足の場所

昔、風だった

2006年09月05日 16時23分37秒 | 自作品
最近…いえ、前からあったのかもしれませんが、よくシンクロニシティに出遭います。

シンクロニシティとは、ヤフートップページから調べた大辞泉の辞書によると、
「虫の知らせのような、意味のある偶然の一致。心理学者ユングが提唱した概念。共時性。同時性。同時発生。」 のこと。

いったい、この数十年の人生のうち、「岸洋子」さんのシャンソンCDを聴いたり名前を聞いたりすることが、どれほどの頻度であったというのでしょう。(ほとんどない)

以前から持っていた岸洋子さんのCD、さらっと1~2度聴いただけで仕舞い込んでいました。
つい、数日前それが出てきたので、じっくり聴いたらとても良い。
とくに、『黒いワシ』 という曲に感激していたら、前からネットで接点があり、このブログも見てくださっている美しい女性 (見たことないので想像) からメールを戴きました。
その中に岸洋子さんに会ったことがあるという話が出てきて、不思議な思いをしました。

「これもひとつの御縁」 と思いながら、昨夜 『黒いワシ』 を繰り返し聴いていると、ひとつのイメージ的物語が浮かびました。
『黒いワシ』 に歌われている主題とは違う、風の話。

今日、早速 『創作楽市』 に、『昔、風だった』 というタイトルでアップしました。

『創作楽市』は会員登録しないと読めないし、これは詩のような短い小説なので、こちらにも掲載します。

このところ複数のHP・ブログで 『千の風になって』 を取り上げていましたが、
これは、『千の風になって』 と、逆(?)といってもいいような話になりました。



                     


昔、風だった

      1

高い山を越え、低い谷を吹き抜け
人里をはるか下に見下ろして 俺は飛んだ。
時には優しく そよそよと。
時には激しく どうどうと。

俺に身体はなく、思いもない。
長い意識が西に東に 北に南に 上に下に流れるように飛ぶ。
時には微笑み 創造し
時には厳しく 破壊した。

命あるものは醜く悲しい。
愛らしい姿をしたものよ、その表皮の下には臓物。

俺は何度も見てきた。
戦の上、災害の後。

命の喜びの下には、深い悲しみ。

俺は何も感じない。
感じないからどこでも吹き抜ける。
美しい緑の丘も、非情の現場も
すべて平等に吹き過ぎる。



       2

俺はそうして いつまでも風のはずだった。
あのとき、あの娘の凛とした姿を見るまでは。

娘は多くの死体と、終わらない嘆きの上に立っていた。
蒼ざめた頬は、白い焔を噴いていた。

何に向かって怒り、祈り、慟哭していたのか。
心のない俺にはわからなかった。
しかし娘の姿は、なぜか美しかった。

どろりとしたものを内臓しているはずの命が、
美しく立ち尽くしていた。

俺は娘の頬を撫で、涙をぬぐってやった。
娘は見えるはずのない俺を見て、神々しく笑うと、
崩れるように落命した。

そのとき俺は、その娘に憧れてしまったのかもしれない。
気がついたときには俺は、人間の女として生まれていた。



       3

女に生まれた俺は、風であったことを忘れた。
生きるものの汚さに嫌悪しながら生き、
人間の心を模倣しながら、年を重ねた。

自分が少し違っていることを感じながらも
俺は人間の女であることを疑いもせず、
時間の流れに乗って結婚し子供を産んだ。

産まれた娘の顔を見て、俺は全てを思い出した。
あのとき、悲惨な悲しみの上に立ち、
白い焔をあげていた、あの娘。
そして風だった自分。

俺は彼女を産むために、人の女として生まれたのか。
俺は娘に頬ずりした。
「おいで。 今度は幸せに生きよう」



       4

娘は美しく成長し、あのときの娘くらいの年になった。
ある日、俺は冗談のように娘に言った。
「あなたのために私は人間として生まれたのよ。
 結構、大変なんだから。 人間て」

すると娘は、いたずらっぽい眼をして言った。
「私はあの瞬間、お母さんのために祈り、人間になってもらったんだわ。
 人の思いや身体って、味わってみるとなかなか素敵でしょう」

俺は遠い昔のあの時から、
娘に完全にしてやられていたのか。
心地よい敗北感だ。

俺がこの身体を失ったとき、もしまた風に戻ったとしても
俺は前とは違うだろう。

笑いながら 怒りながら 泣きながら 楽しみながら
吹き渡る風になるだろう。

命を丸ごとすべて愛せる
風になるだろう。