峰猫屋敷

覚え書と自己満足の場所

難しい質問

2006年09月07日 17時34分54秒 | 妄想
誰もが幼いときからポツポツと聞かれる質問に、「食べ物はなにが好き?」 というのがあります。
これを聞かれると、私はいつも答えに迷いました。

「お寿司も鰻も好き。チョコレートもケーキもバナナも桃もミカンも好き。
 でも待てよ。 寿司といっても、全てのネタが好きとも言えない。
 また、お腹が空いているときなら、なんでも好きといえる。
 だいたい、色々なものを次々と羅列するのは、
 この場合の答えとしては不適切なのではなかろうか」
そんな思いが脳裏に去来して、いつも返事に詰まっていました。

幼いときは母親が近くにいて、
「果物が好きよね」 などと助け船を出してくれました。
私は心の中で 「全部の果物が好きってわけでは…」 と思うのですが、
質問した相手 (たいていは法事などで会った親戚のおばさんだったりする) が
それで納得してくれるので、まあ、いいや…と黙りました。

大きくなると助けてくれる人はいません。
自分でも何度も聞かれるうちに、
「果たして自分が一番好きな食べ物は何だろう?」 と考えます。

口にしたとき、味が一番美味しく思えるもの。
空腹のときはもちろん、満腹でも食べられるもの。
条件抜きで、それが好きと言えるもの。
このように考えると、ある1つの食べ物に行きつきました。

そこで、ある時期からは
「食べ物は何が好き?」 と聞かれると、こう答えるようになりました。
「パセリ」。

しかし未だに たくさんのパセリをご馳走してくださる方はいません。
それはそれで、内心ホッとしています。


         

なお、トップ画像は本文とは関係ありません。
先日買ったシイタケのパックに、変わったのが1つ入っていたから写真に撮っただけ。
シイタケはシイタケ。
何かに見立てたりなぞ、していません。


高校時代のちょっと不思議な話

2006年09月06日 15時56分17秒 | 不思議だったり、そうでもなかったりの話
稲川淳二風・トトのアップの顔で話を始めます。

私の通っていた高校は都心にある女子高ですが、当時の校舎はかなり古くなっていました。
教室の廊下側には、前と後ろにドアがあり、
ドアの上の方、ちょうど人の顔が来るあたりにガラスが入っていました。

いつの頃からか、そのドアが風もないのに、急に開くようになりました。
授業中も休み時間も、急に開くのです。
自称 「私、霊感が強いのよ」 というクラスメートは、
「時々、マッシュルームカットの女の子が覗いてる」 と言いました。
私たちの何年か先輩が授業中に急に亡くなったという噂があり、その子じゃないかと話していました。

ある、定期試験のときのこと。
全員テスト用紙に向かって、答案を書いている静寂のとき。

突然、廊下の端のクラスの、前のドア・後ろのドア、
次のクラスの前のドア・後ろのドア、
また次のクラスの前のドア・後ろのドア…
順番にバタン、バタン、バタンと風が駆け抜けるように開いていきました。

廊下をはさんで教室の反対側には、窓や手洗いするための蛇口がいくつか並んだ流しがあり、鏡がありましたが、
最後のクラスの戸が開いたあと、そのクラスの前にあった流しから、
ガシャーン! と音がしました。

悲鳴があがり、どこのクラスからもザワザワした話声が起こりました。

監督の先生が音のした方を見にいって、戻ってきて言いました。
「流しの上の鏡が落ちて割れただけだから、みんな静かにしてテストやって」

しかし、おかしいでしょう?
風が吹いたとしても、カチャリと閉まる戸が、端から順番に開くなんて。
しかも、しっかり止めてあるはずの鏡が、そんな簡単に落ちるはずもないのに。
それに、タイミングが良すぎました。

話はこれだけでオチも何もないのですけど、リアルな話なんて そんなもんです。


最後にトトの顔でシメ。

   うらめしや~

昔、風だった

2006年09月05日 16時23分37秒 | 自作品
最近…いえ、前からあったのかもしれませんが、よくシンクロニシティに出遭います。

シンクロニシティとは、ヤフートップページから調べた大辞泉の辞書によると、
「虫の知らせのような、意味のある偶然の一致。心理学者ユングが提唱した概念。共時性。同時性。同時発生。」 のこと。

いったい、この数十年の人生のうち、「岸洋子」さんのシャンソンCDを聴いたり名前を聞いたりすることが、どれほどの頻度であったというのでしょう。(ほとんどない)

以前から持っていた岸洋子さんのCD、さらっと1~2度聴いただけで仕舞い込んでいました。
つい、数日前それが出てきたので、じっくり聴いたらとても良い。
とくに、『黒いワシ』 という曲に感激していたら、前からネットで接点があり、このブログも見てくださっている美しい女性 (見たことないので想像) からメールを戴きました。
その中に岸洋子さんに会ったことがあるという話が出てきて、不思議な思いをしました。

「これもひとつの御縁」 と思いながら、昨夜 『黒いワシ』 を繰り返し聴いていると、ひとつのイメージ的物語が浮かびました。
『黒いワシ』 に歌われている主題とは違う、風の話。

今日、早速 『創作楽市』 に、『昔、風だった』 というタイトルでアップしました。

『創作楽市』は会員登録しないと読めないし、これは詩のような短い小説なので、こちらにも掲載します。

このところ複数のHP・ブログで 『千の風になって』 を取り上げていましたが、
これは、『千の風になって』 と、逆(?)といってもいいような話になりました。



                     


昔、風だった

      1

高い山を越え、低い谷を吹き抜け
人里をはるか下に見下ろして 俺は飛んだ。
時には優しく そよそよと。
時には激しく どうどうと。

俺に身体はなく、思いもない。
長い意識が西に東に 北に南に 上に下に流れるように飛ぶ。
時には微笑み 創造し
時には厳しく 破壊した。

命あるものは醜く悲しい。
愛らしい姿をしたものよ、その表皮の下には臓物。

俺は何度も見てきた。
戦の上、災害の後。

命の喜びの下には、深い悲しみ。

俺は何も感じない。
感じないからどこでも吹き抜ける。
美しい緑の丘も、非情の現場も
すべて平等に吹き過ぎる。



       2

俺はそうして いつまでも風のはずだった。
あのとき、あの娘の凛とした姿を見るまでは。

娘は多くの死体と、終わらない嘆きの上に立っていた。
蒼ざめた頬は、白い焔を噴いていた。

何に向かって怒り、祈り、慟哭していたのか。
心のない俺にはわからなかった。
しかし娘の姿は、なぜか美しかった。

どろりとしたものを内臓しているはずの命が、
美しく立ち尽くしていた。

俺は娘の頬を撫で、涙をぬぐってやった。
娘は見えるはずのない俺を見て、神々しく笑うと、
崩れるように落命した。

そのとき俺は、その娘に憧れてしまったのかもしれない。
気がついたときには俺は、人間の女として生まれていた。



       3

女に生まれた俺は、風であったことを忘れた。
生きるものの汚さに嫌悪しながら生き、
人間の心を模倣しながら、年を重ねた。

自分が少し違っていることを感じながらも
俺は人間の女であることを疑いもせず、
時間の流れに乗って結婚し子供を産んだ。

産まれた娘の顔を見て、俺は全てを思い出した。
あのとき、悲惨な悲しみの上に立ち、
白い焔をあげていた、あの娘。
そして風だった自分。

俺は彼女を産むために、人の女として生まれたのか。
俺は娘に頬ずりした。
「おいで。 今度は幸せに生きよう」



       4

娘は美しく成長し、あのときの娘くらいの年になった。
ある日、俺は冗談のように娘に言った。
「あなたのために私は人間として生まれたのよ。
 結構、大変なんだから。 人間て」

すると娘は、いたずらっぽい眼をして言った。
「私はあの瞬間、お母さんのために祈り、人間になってもらったんだわ。
 人の思いや身体って、味わってみるとなかなか素敵でしょう」

俺は遠い昔のあの時から、
娘に完全にしてやられていたのか。
心地よい敗北感だ。

俺がこの身体を失ったとき、もしまた風に戻ったとしても
俺は前とは違うだろう。

笑いながら 怒りながら 泣きながら 楽しみながら
吹き渡る風になるだろう。

命を丸ごとすべて愛せる
風になるだろう。


                   

4度目の危機

2006年09月03日 14時31分13秒 | 動物や昆虫など生き物の話
我家では、2階に上がる階段の途中に北向きの出窓があり、そこに水槽を置いています。
この水槽、今年の5月1日に、近所のお祭りでもらってきた金魚とドジョウ、それぞれ3~4匹ずつを入れたときは次男の部屋の南向き出窓に置いていました。
南向き出窓は水棲生物の飼育には不向きでした。
過去にもイモリとクサガメがここで死亡しましたが、原因がよくわかりませんでした。
しかし、このときわかりました。
日当たりが良くて、水がお湯になっちゃってた。

金魚は全滅 (したかのように見えた)。
ドジョウはそのときは何とか全員生きていました。
仕方ない、金魚を埋めよう…としたそのとき、子供が言いました。
「この金魚、まだ動いてる」
赤いのが一匹、横になりながらも少しだけ動いていました。
「たぶん無理だけど、念のため塩水に入れてみようか」
冷たい水に、ちょっぴり塩をいれてその中に入れると、しばらくして金魚リバース
しかし、ドジョウたちは翌日から次々と命を落とし、最後の一匹となりました。

これが 「第1次ドジョウ危機」 でした。
残った金魚一匹、ドジョウ一匹の姿が、トップ画像です。
彼らは危機を脱したもの同志、仲が良かった。

その後、多摩川で取ってきたドジョウ1匹を仲間に加え、彼らはそれなりに調和を保って生きていました。

そして、やがて訪れる 「第2次ドジョウ危機」。
このことは以前ブログに書きました。(『奇蹟の人』)

さらにその後、 「第3次ドジョウ危機」 が起きたのです。
夏休み中、旅行に出かけたとき、 「1泊くらいの間なら大丈夫だろう」 と、水槽の濾過装置を切って出かけました。
帰ってみたら水は濁り、金魚と新人ドジョウが浮いていました。

金魚が死んだことは、私もショックでした。
最初に来たときの、縦横4倍くらいに大きくなっていて、先が楽しみでした。
(「食う」とかじゃなくて、どこまで大きくなるかな~という気持ちで)

でも、ドジョウはもっとショックだったみたいで、寂しそうでした。

そこで数日後、三男といっしょにホームセンターのペットコーナーに金魚を買いに行きました。
“和金 5匹 200円” と書いてあります。
聞くと、「1匹でも200円」 とのことで、私の心は揺れました。
そんな大きい水槽じゃないから、前の金魚みたいに大きくなったら魚口密度が高くなり過ぎます。
でも、「1つでも200円、5つでも200円」 という値段設定は、主婦には酷いものがあります。
「3匹ほど冷凍しておいて、死んだら解凍して水槽に…なんてダメかいな」 などという考えまで浮かんだりして。

「5匹じゃ多いし、2匹じゃもったいない」 から、間をとって3匹買おうと思ったら、三男が
「おれ、3て数字好きじゃないんだよね」 と言い出した。
そこで、仕方なく2匹購入しました。

この2匹は仲が良く、いつも近くにいます。

   らぶらぶ金魚 (石を投げないでください)


一方、かの奇蹟のドジョウは最近あまり姿を見せません。
濾過装置の下などに、ひとりで潜っています。
前は、ともに生き抜いた金魚の近くを泳いでたりしたのに。

   ロンリードジョウ



どうやら、今、ドジョウは4度目の危機を迎えているようです。
孤独という名の危機を。

   哀愁の背中