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交流

51歳の『努力目標』

2011-07-16 13:57:00 | 徒然なるままに
7月16日(土)

3月11日の震災から、4か月が経った。
被災地となった故郷石巻に、いまだ帰省していない私。
夏休みに入ってからも、、保護者面談や研修や出張があり、ようやく休みが取れるのは7月30日からだ。
31日の娘のピアノの発表会が終わったら、その日の夜行バスで故郷に向かう。

着いたその日は8月1日。石巻川開きの本祭の日だ。

今回の帰省は、その日を思うたびに、涙がこみ上げてきてしまう。

でも、弟に言われた。
「姉ちゃん、向こうに行ったら、いろんな人達に会って、いろんな話を聞くだろうけれど、めそめそするなよ。向こうの人たちは、泣きたくても泣けない、泣いたってどうしようもないところを泣かないで頑張っているんだから。
大丈夫な所から遅れてきた人間がめそめそしていたら、失礼だ。
明るくしていろ。おれも、地震直後やG.Wに帰った時は、心がけて明るくふるまってきたんだ。」

そのことを父に言ったら、
「どうしても泣きたくなったら、渡波の海に向かって思いっきり泣けばいい。」
と言ってくれた。

今、こうしてこの文章を打っていても、涙が止まらない。
普段は、忙しくて、石巻のことを思い出している間もないのだが…。
クラスの子どもたちとの会話の中に、生活の中に、自分の小学2年生の頃の思い出や、当時の友達や恩師たちの姿を重ねる時がある。
クラスの子たちも、私の2年生の頃のことをたくさん聞きたがる。
そのたびに、その夜に見る夢の中に、懐かしいふるさとの海や、四季折々の思い出がよみがえってくるのだ。
あの美しい海、砂浜、松林、校舎、校庭、お祭りの神社、港・・・・。
ああ、それが今は水底に沈み、海岸沿いは瓦礫の山、小学校は避難所、通学路の家並みは、地盤沈下の危険区域となっている。

「姉ちゃん、渡波がすっかり片付けられる前に、その目でしっかり見て来いな。」

見て来るだけでなく、しっかりビデオに撮って来て、クラスの子どもたちに被災地の現状を見てもらおうと思う。
あの子たちが私の年になるまでには、必ず起こるであろう震災に備えて。
そして、しっかり供養をしてこようと思う。友人、恩師、知人、故郷の町を・・・。
梅雨明けの猛暑の中で、必死に生き、町の復興に頑張っている故郷のみんなを応援してこようと思う。


明日は、51歳の誕生日を迎える。
もし、私が上京せずに、地元で頑張り続けていたら、私はあの日でこの世にはいない人間だったのかもしれない。
50歳の誕生日を迎えることができなかったたくさんの同学年の人たちのためにも、どんな困難なことも、辛いことも乗り越えて、頑張って生き続け、出会う人たちを、日本を元気にしていかなくてはならない。
そして、我が子達をはじめ、未来を背負っていく子どもたちに本当の『生きる力』を率先垂範して行かなくてはならない。

それが、51歳から先を生きていく私の『努力目標』だ。



追記

現在、20:32
今日は、上記の日記を描いてから、今まで辛くて直視できなかった3月11日の記事や画像、映像をネットで見続けてきた。

私の中でいまだに受け止めきれず、心の整理がつかない出来事。
それは、まだ、現地に行っていないせいでもある。
私の頭ん中には、まだ、平常時の故郷の映像の方が鮮明だから。

見終わって、まさに津波に襲われている壮絶で恐ろしい映像や、直後の痛ましい凄惨な画像、あれから4カ月がたとうとも、いまだ電気もが図も水道も復旧していない地域で必死で頑張っている人たちがいると言う現実を突きつけられた。

そして、それは、けして、他人事ではない、近い将来の自分たちの姿だと言うことを心しておかなくてはならないと思った。

いろいろな人たちのコメントの中に、石巻の人たちの言葉を紹介してあるものがあった。
「この現状を、ありのまま、日本中の人たちに伝えてください」

私にできることは何か。
ずっとそれを考えてきた。
教師として、母として、宮城県出身者として。

震災は今も続いているのだ。
毎日のように地震は続き、台風や大潮の度に冠水し、地盤沈下を起こしている地域もある。
塩水を被った田畑、町ごとなくなった地域、沈んだ瓦礫にスクリューが絡むために船が出せない港町、物資が全く行き渡らない道路も寸断された地域・・・。

仮設住宅に入れず、体育館で避難所生活をしている幼なじみ。
せっかく助かったのに、助かったことを悔やみ、生きる希望を持てない人たちもいる。
「死ぬも地獄、生きるも地獄だよ」
「今度、地震や津波が来る時は、家族がみんな一緒の時がいいなあ。死ぬも生きるも一緒の時がいい。親を亡くした子供は本当にかわいそうだよ」

3月から故郷との電話は、辛い話ばかりだった。
その中で。
石巻の川開きの話は、遠く離れて涙にくれている私をも励ます明るい話題だった。
海があっての石巻。
北上川は、石巻のシンボルだ。
故郷のみんなが泣きながら片付け、盛り上げ、石巻再興の出発点にしようと頑張っている川開き。

悲惨な現状だけでなく、町自体が一生懸命立ち上がろうとしている姿をしっかりと目に焼き付けてこようと思う。
そしてその様子を、このHPでも紹介し、学校に帰って、子どもたち、先生方、保護者、地域の方々にも知らせよう。
被災地には、これからも継続的な支援が必要なんだと言うことを。
この痛ましい被害を風化させず、そこから学び、これからに活かせる多くの教訓を学ばなければならないということを。


50歳最後の日に、自分の原風景故郷の被災の現状と向き合い、どこかで「直視」から逃げていた自分に喝を入れてくれた画像と歌を紹介する。
石巻で泣きたくなったら、この歌を思い出して、私も踏ん張ろうと思う。


http://www.youtube.com/watch?v=MVKWtxXtZ3E&feature=related

山下清 展 ~千葉県立美術館~

2011-07-11 01:45:00 | 徒然なるままに
7月10日(日)

今日は、千葉県立美術館で『山下清 展』を見てきた。http://www.chiba-muse.or.jp/ART/special/110528yamashita/index.html

放浪の天才画家として有名な山下清画伯は、東京浅草に生まれた。
3歳でひどい消化不良の後遺症から、言語障害と知的障害になり、小学校に入学後は障害をバカにされてひどいいじめに遭い、暴力的な犯行をするようになってしまう。
その後、千葉県の八幡学園に入学し、園長先生の勧めで貼り絵と出会い、徐々にその才能を開花させていくのである。

展覧会では、学園時代の貴重な貼り絵作品から、代表作までたくさんの作品が展示してあり、それを描いた当時の日記も紹介してあり、とても興味深かった。

会場では、昭和32年当時の記録映画も上映されており、あの緻密な貼り絵がどのようにして制作されているのか制作風景や、画伯の声で語られる作品への思いは、感動的だった。

今回は、貼り絵の他に、下書きなしでいきなり描いたとは思えないサインペン画も数多く展示されており、力強さと緻密さ、大胆な構図と繊細なタッチが入り混じり、とても迫力があった。

また、後年、陶芸の絵付けでも才能を発揮した作品も展示してあった。

とにかく、八幡学園を逃げだして放浪の旅に出るなど、本格的な美術の勉強などしていないにもかかわらず、印象派を思わせる色使いや、正確な立体表現や奥行きの出し方には驚いた。何より、記憶力の良さと根気強さには脱帽しかない。


人間不信で、虫だけが自分の味方だと思い、虫の貼り絵ばかりだった清少年が、学園にまじり、自己表現手段としての貼り絵を習得し、旅から帰るたびに自分を温かく迎えてもらい、見てきたこと、感じてきたことを自由に画面いっぱいに表現する。

八幡学園との出会いが、天才・山下清を誕生させ、次々に作品を誕生させる『居場所』と『自己肯定感』そして『達成感』を与え続けてきたのだと思う。

そして何より、山下画伯の才能にいち早く気がついた安井曾太郎との出会いや、放浪中の画伯を捜索願を出してまで彼の才能を世にアピールしてくれた、アメリカの雑誌『ライフ』があってこそ、彼の絵は世の認める名画となっていったのだ。

今回、この目であの貼り絵でできた原画を見、まさに『天才・山下清』に感動した。この感動は、印刷物を見ただけではでは味わえない。

と同時に、彼の絵を保管していた八幡学園、傷みや退色を修復したプロジェクトの努力には頭が下がる。

今日は、とにかく目の保養と作品から発されるオーラをたくさん浴びて、実に充実した気持ちで帰ることができた。

またどこかで『山下清展』をやることがあったら、ぜひ出かけていきたいと思う。


最後に、今日7月10日は、40年前の1971年(昭和46年)7月10日に画伯が脳溢血で倒れた日であり、明後日12日は、氏の命日にあたる。
ご冥福をお祈りする。

神田香織 立体講談『はだしのゲン』を聴いてきました。

2011-07-10 13:00:00 | 徒然なるままに
7月10日(日)

昨日9日、講談師・神田香織さんの立体講談『はだしのゲン』を聞いてきた。

『はだしのゲン』は、中沢啓治による、自身の原爆の被爆体験を元にした漫画だ。
原爆投下前後の広島を生きる主人公中岡ゲンは当時9歳。
映画やアニメ化もされたが、講談で聴く『はだしのゲン』は、映像はないのに、ゲンたち親子の仲睦まじさや、親子の絆、子どもたちのい聞きとした姿、原爆の恐ろしさ、過酷な状況を生き抜こうとするゲンと母のたくましさが、迫力のある語り口で、生き生きと描かれていた。

特に、被爆直後の街の情景や、焼けただれた人々の描写は、鬼気迫るものがあった。

神田さんが講談の前にもお話しされていたが、日本の話芸の『落語』は笑いを提供し、『浪曲』は涙を誘い、『講談』は庶民の声、特に怒りを代弁する。
TVもラジオもインターネットもない時代に、命がけで現場を見てきた人が、その状況をつぶさに報告したことから発展して行った講談。
戦記物や英雄伝には誇張がつきものかもしれないが、聴く人の想像力を高めさせ、説得力のある話芸は、メディアなどにはない迫力がある。

つい、さっきまで、当たり前にあった生活や未来を、命を一瞬のうちに奪われてしまった人たちの怒りや無念を、講談という話術で、今の時代の人に思いを代弁する。
私の隣の席に座っていた中学1年生の男の子が泣きながら聞いていた。

ゲンに妹が生まれたところで講談は終わった。
公演が終わってから、
「私はその少年に、このお話には続きがあるのよ。学校の図書室に『はだしのゲン』というマンガが必ず置いてあるから、ぜひ、読んでみてね」
と言った。

ロビーで著書をサイン販売していた神田さんに、購入した本にサインをしてもらいながら、挨拶をした。
「私は、以前、同じこの会場で神田さんの『はだしのゲン』を公演された時のチラシを担当したものです。今回は、当時はまだお腹の中にもいなかった娘と聞きに来ました。
娘は8月7日生まれで、自分の誕生日を嫌っていました。毎年、戦争の話ばかりが放送される8月が嫌いで、戦争の話や映画を極力避けてきました。
でも、私は娘に『はだしのゲン』を聞かせたかったのです。
最後に、自分と同じ誕生日の赤ちゃんが生まれるシーンを、娘はどう感じたでしょう?
今日はありがとうございました。」
それから、ご実家がいわき市だと言う神田さんに、
「私の実家は、石巻です。」
と言ったところ、手を握って、石巻でも公演したこと、お互いに、被災地出身だけれど、自分にできることで故郷を応援すること、頑張ることを語り合った。

帰り、娘と蕎麦屋に入った。
娘は何も言わなかったが、とても穏やかな顔をしていた。

祖父母が住む津波の被害にあった石巻と、原爆投下後の広島がリンクしたのだろうか。
ずっと避けてきた『戦争』の話を、彼女はどう受け止めたのだろう。
聴きたいことは山ほどあるが、彼女の中でじっくりと熟成し、自分から私に話をしてくるまで、そっとしておこうと思う。

ただ、私も、娘と同じ年頃の時に、同じようだったのだが、私が戦争のことをもっと知らなくてはと思った時には、一番話を聞きたかった祖父は亡くなっていたので、その時の私と同じ後悔はさせたくはないと思う。


暑中お見舞い申し上げます。*(風鈴)* カフェ再開しました~*(コーヒー)*

2011-07-10 10:04:00 | 徒然なるままに
ただいま~!*(笑顔)*久しぶりのCafeです。

暑中お見舞い申し上げます。

関東地方は梅雨明けということで、早朝からピーカンで、強い夏の日差しが照りつけています。でも、まだ朝のうちだからか、吹く風はさわやかです。

さて、先週3日に一次試験が終わりました。

結果は、7月下旬~8月初めに出ます。


ここからは、今回の受験の総括を書こうと思います。

良かった事。

・最後までモチベーションを維持して、時間いっぱい頑張れた。

・正解不正解関係なく、マークシートの回答欄を全部埋める事ができた。

・特に1週間前から、論文の書き方がわかってきて、いろいろなことが論理的に書けるようになったこと。(本番は、演習不足で十分力を発揮できなかったが)
これを、免許取得のためのレポート作りに生かしたい。


・故郷が被災地になり、新しい環境の職場で、毎日身も心もボロ雑巾のようになりながらも、1日も仕事を休まず、身体も壊さず、試験当日、遅刻もしないで、体調万全で受験ができたこと。


・一番良かったのは、同志ができたこと。
弱気になったり、挫けそうになったりすると、お互いに励まし合ったり、支え合い、触発し合える仲間がいると言うことは、最後まであきらめない、モチベーションの維持には欠くことのできない存在だった。。
この出会いは、生涯の宝だと思う。
ぜひ、いつかは結果を出して、互いの健闘を喜び合いたい。


反省点

・今回最大の反省は、実技だった。
デッサンは、1日休むと取り戻すのに1週間はかかる。3日休むと1カ月はかかる。1週間休むと3カ月はかかると言われ、美大受験の時は毎日描いていたのに…。
今年はまったく描けなかった。
前日も、本番と同じ時間を設定して描いてはいたのだが…。
モチーフのビニール袋が描けなかった・・・。
 
いや、描けなかったのではない。自分は描いていなくてもいつでも描けるという慢心、根拠のない地震と油断…要するに実技を甘く見ていたのだ・・・。
思えば、4月から小学校の担任になって3カ月、ほとんど描いていなかった。
中学校の美術講師をしていた頃は、なんだかんだ言っても、授業でもなんでも常に何か絵は描いていた。
このたった3カ月のブランクで、こんなに画力が落ちたとは・・・。

万が一、一次試験が受かったとしたら、2次試験でも実技はある。採用されれば、4月からは美術の教員だ。
描けないでは済まされない。
毎日15分でも手を動かして、取り戻さなくては!*(汗)*

・勉強不足や認識不足は言うまでもない。
どんなに過去問題で100点取れるぐらい勉強しても、去年出たところは、今年は出ない。毎年出る分野からは、同じ問題は出ないので、他県の問題などを参考にするなど、試験問題の傾向と対策が不十分だった。
専門外の専門知識の問題は書けなくても、知っている知識を思い出せずに書けないのは悔しい。
もう一度、知識の整理をして、スキルアップを図らねば。

・論文の書き方の習得が遅かった。論理的な文章の書き方の演習と、県教育委員会が求める教師像に沿った文章の書き方ではなく、自分の思いばかりを優先して書いていたことに気がついたのが1週間前だった。*(汗)*

・仕事との両立が難しかった。
小学校担任という、今までとは全く違う環境と仕事内容、仕事量で、その上、2年生という元気いっぱい、かまってオーラいっぱいの子どもたちと全力で生活して、8kgも体重が減った。
そのお陰で、70段の階段を子どもと競争してかけ上がっても、息切れはしなくなったが…。
朝8時から夕方4時まで、座れる時間が給食を食べる10分間しかなく、仕事の要領が悪く、残業し、退勤時間内に終わらない仕事を持ち帰っても、家にたどり着くなり、3秒を待たずに生き倒れ、翌朝、夜明け前に起きだしてシャワーを浴び、出勤前まで○付けと朱書きに追われ、朝食もそこそこに出勤する。
そんな過酷な日々が続き、体重は減っても身体は鉛のように重かった。
平日の勉強時間は、ほとんどなかった。
整体に行けば
「体が悲鳴を上げていますよ、もっと体をいたわってあげてください」
と叱られてばかりだった。

2学期は、先輩の先生方から、就業時間内に仕事を終えられるような効率の良い仕事の仕方と、疲れを翌日に残さない仕事の仕方を学ぼうと思う。



さて、夏休み*(ひまわり)*まであと10日。
暑さに負けずに、ラストスパート、頑張るぞ~!!!

恩師の魂よ、安らかに…

2011-05-28 14:46:00 | 徒然なるままに
5月28日(土)

今日、恩師の訃報が届いた。
私が初めて赴任した中学校の校長先生だった。

すぐにでもお花を手向けに伺いたかったので、ご自宅に電話をしたところ、奥様が対応してくださった。

私が在任時代にお世話になった旨を話し、校長先生からどれほど励まされ、助けて頂いたか、救っていただいたかについてお話した。


講師になって2年目。一昨年は、小学校の図工専科の非常勤講師だったが、その年は、育児休暇中の先生の代用講師としての採用だった。
全校生徒650人を一人で担当し、週27コマの授業と美術部を担当した。
中学の教員で、週27コマで空き時間が1コマと言うのがどれほど過酷なことかを知らずに、それが当たり前だと思って、誠心誠意、全力投球で頑張った。

ある時、同僚の先生から、
「先生の頑張りは頭が下がるけれど、先生はあくまで育児休暇中の先生の代わりの先生だから、あんまり頑張りすぎると、戻ってきた時の先生が、あなたのようには頑張れなくて、比べられて苦労するから、あんまり頑張りすぎないで」
と言われたのだ。

私は『一期一会』の精神で、美術が嫌いな子も、少しは興味を持ってくれる、好きな子はもっと好きになってくれる美術を目指し、美術部にしか居場所のない子どもたちにもに自己肯定感を持たせられる活動をさせたくて、一生懸命だった。
それが、誰かを苦しめるだなんて・・・。

そんな時に、『校長面接』と言うのがあった。
校長先生は、私に
「何か困っていることはありますか?」
とお尋ねになり、私は自分の思いを打ち明けた。
すると、校長先生は、
「今の中学3年生にとっては、今、あなたが教えている美術の授業が、生涯で最後の美術の勉強になる子がたくさんいます。
その子どもたちのためにも、先生が教えられること、教えたいことを存分に教えてあげてください。
美術の楽しさ、面白さを教えてあげてください。
1年の任期は短いですが、たった1度の授業でも、それはできます。
後の人のことは、学校や本人が考えることです。

あなたがこの学校にいられる間は、あなたが美術の先生です。あなたにしかできない美術の授業をこの中学校の子どもたちにしてあげてください。」

この言葉は、以降、私が道に迷うたびに必ず私の指針となってくれ続けていた言葉だ。

私にしかできない授業。
そのためにも、日々、自己研鑽をし、私自身がだれよりも美術を好きになり、知識や技術を身につけていかなくては。

そのテーマで頑張ってきた。
毎年の年賀状でそれを報告し、先生からの励ましのお返事がうれしかった。


電話で奥様に、言われた言葉は、
「お父さん(校長先生は)は、あなたのことを心から応援していますよ。
あなたの信念で、どんな試練にも打ち勝っていってください。それだけの力と、それを回避する道は同時にあなたに与えられているはずですから。」
という内容のものだった。

「すぐにでもお花を手向けに行きたいのですが、この夏、結果を出せても出せなくても、精いっぱい頑張ったことを校長先生にご報告に伺わせていただきたいと思います」
と言うと、
「頑張ってください。お父さんと一緒に応援していますよ」
と励ましてくださった。

電話を切った後しばらくは、校長先生と言う心の支えを失った寂しさと、不思議な温かさの涙にくれた。


最後まで教育一筋の人生だった校長先生。
先生のご遺志を引き継いで、微力ながらも、先生の教えを守って、これからも教壇に立ち続けます。

ありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。


赤いバレンと緑のウィンナー? そして、『始めたら、半分』

2011-05-03 07:33:00 | 徒然なるままに
*(おにぎり)*赤いバレンと緑のウィンナー?~なかよし遠足にて~ 


5月2日(月)


今日は大型連休の谷間の出勤日。
近隣公園への遠足だった。

昨日の雨で、お天気が心配だったが、朝から薄曇りの爽やかな5月の風が吹く、まさに遠足日和。

ところが、学校を出発して10分もたたないうちに音を上げる子が出始めた。
こんな天気なのに、厚着で、猫背で歩いている・・・。
これから1時間以上歩くと言うのに…。

少し行くと、田植えしたばかりの田んぼが見えてきた。
汗ばんできたた子どもたちが、休みたがり、水を欲しがるのを、
「今、9時15分です。出発したのは8時40分でした。何分経ったでしょう?」
とか、算数の問題を出したり、
「アメンボはきれいな水のところにしかいないんだよ。ここの田んぼの水はきれいなんだね」
とか、カエルやメダカの話もしたり、
『ことわざなぞなぞ』
をしたりして、なんとか無事に目的地に着いた。


班に分かれて遊びをするも、最初の遊びが『けいどろ』警察と泥棒になって、お宝を攻守するというものなのだが…。
その日は、近隣の小学校5校の全校生徒が遠足に来ており、公園内には2000人以上の同じような服装の子どもたちが『ウォーリーを探せ!』状態でうじゃうじゃいた。
その中で、あっという間に散らばっていった子どもたち。
すぐにお宝は『泥棒』に奪われてしまい、即、ゲームセット。なのに、みんながそれを知らずに、戻ってこないのだ。
一人二人帰ってはきたが、最後に私のクラスの子3人が戻ってこない。
6年生が探しに行ったが見つからない。
遊びの時間はどんどん過ぎてゆく。
リーダーに、あまり遠くに散らばらない遊びをしているように伝え、私は一人で子どもたちを探しに行った。

ほどなく、木陰のベンチで涼んでいる3人の子どもたちを見つけて戻る。

子どもたちは、『だるまさんの1日』をして遊んでいた。
『だるまさんが転んだ』のアレンジ版なのだが、鬼が
「だるまさんが本を読んだ」とか
「だるまさんがトイレした」とか
「だるまさんが寝た」とかいうと、みな、瞬時にストップモーションで言われたポーズをとるのだ
ところが、鬼が早口で言った瞬間にすぐに振り向くので、みんなが動いてしまうのだ。

これって、本来のだるまさんが転んだのおもしろさが半減しているのではないか?と思ったんだけど…?


木陰で班ごとにお弁当を食べる時、いつもやんちゃで手のかかる子が、
「先生ここ思いっきり空いているよ!ここ、ここ!」
と自分のそばに呼んでくれたのだが、私の大きなお尻が入るわけもなく、そばの高学年の女の子のシートに座らせてもらった。
みんなでいろんな話をしながら盛り上がった。
私は、先生用の幕の内弁当が出たのだが、緑のバレンと毒々しいまでに真っ赤なウインナーを見てひらめいた。*(キラキラ)*

白い私のTシャツに緑のバレンを持ってきて、子どもたちに、
「この緑のバレンを30秒間見ててね。これを取った後にTシャツに何か見えてくるよ。」
30秒後、子どもたちの大歓声!
「あ~!ピンクの何かが見えるよ!」
「すごい!これって魔法?」
「違うよ、マジックだよ!」
「さて、今度は、この赤いウィンナーをじっと見ててね。ウィンナーを取った後に何が見えるかな~?」
「あ~!!!青いウィンナーが見える!!!!」
「青じゃないよ!緑色だよ」
「これはな、青みどりっていうんだよ」
「え~っ!!不思議、不思議!!!」
「今度、すっごくお天気のいい日に、自分の影をじっと見て、青空を見てごらん。自分の影と同じ形の入道雲が見えるよ。今日みたいな薄曇りの時は見えないけどね。」

私は、この実験を、中学生の校外学習で、鎌倉に行くときに、必ずやっている。
大仏さんの前で、自分の影をじっと見て、パッと大仏の顔近くの青空を見ると、大仏をいい子いい子していたり、パンチしていたり、チューをしているような入道雲が見えるのだ。
生徒たちはそのたびに
「見えた!見えた!!」
と大喜びするものだから、周りの観光客はみな不思議がるのだ。なぜなら、その入道雲は、影を見ていた本人にしか見えないのだから。


帰り道、こんな天気なのに、長袖を2枚も着ていた1年生が、汗だくで顔を真っ赤にして転んでしまった。
熱中症のようになっていて、フラフラだった。水筒は空だった。
他のみんなをサポートで来ていた大学生に頼んで先に行かせ、私はその1年生の衣類を脱がせて水分を取らせ、小休止した。
「おんぶしなくても自分で歩ける」と言うので、歩き出したのはいいが、道に迷ってしまった。
1年生も、自分の家の近くではなく、初めての遠足なので、良くわからない。
ふたりして途方に暮れていると、遠くに、最後尾の児童を発見したので、急いで追いかけ、迷いながらも無事到着。
解散式で、今日の反省と、来年への教訓として、1年生の児童が
「来年は、お天気がいい時は半そでで、遠足に行きます。行きは重くても、水筒にはお水を多めに入れて行きます」
と、発表してくれ、6年生のリーダーも、
「来年は、なるべく班のみんなが散らばらずに、みんなで楽しめるゲームをしてください」
と、探し回り、待ったり、待たせたりという、ロスタイムと疲れるだけだった「けいどろ」の反省から、来年へのアドバイスを話してくれた。

帰宅後、妹と「極楽湯」に行って、アカスリをしてもらった。
水をもはじく、ぴちぴちのお肌がよみがえり*(酔払い)*、リフレッシュできたぞ~!!*(キラキラ)*
明日から3日間、試験勉強も、家の片付けも、岡本太郎展も盛りだくさんのスケジュールをがんばってこなして、有意義に過ごそう!


*(ペン)*『始めたら、半分』


5月3日(火)*(日本)*憲法記念日

7月3日の採用試験まであと2カ月となった。

今年の受験は、諸事情で、去年よりはるかにハードルの高いものとなってしまった。

何度も断念しようと思った。受ける前からだめだ、無駄だ、あきらめようとも思った。

でも、今年もしだめだったとしても、その理由を、震災のせいにしたり、仕事の忙しさや、体調不良のせいにしていいのだろうか?
それは私にとっては言い訳でしかなく、やってみもしないで、仮想敵を作っておびえているだけじゃないのか。

私は、今までにそう言う生徒たちをどう励ましてきたのだろうか?
大会やコンクールや、受験に向かう子どもたちを・・・。


今、自分は試されているのだと思う。
止めることだってできる。
諦めることだってできる。
他にもやらなければならないことはいくらでもある。
違う生き方だっていくらでもある。
年齢的なことを考えれば、元気でいられるうちに、やりたいことはたくさんある。
睡眠時間や、貴重な休みを削ってまで、いまさら勉強だなんて、他にもその時間を有効に使うことはあるだろう?
何も、この年になって、自分から苦労を買って出なくても、もっと楽な生き方があるじゃないか・・・。

でも、自分で立てた志を、あの時の気持ちを宙ぶらりんにしておいていいのか?
今年が無理でも、また来年受ければいい。
そのためにも、今から少しずつでも前進して行かないと、自分のなりたい自分、行きたい未来には永遠に近づけない。

SMAPの草薙剛君が、こんな素敵な韓国語を教えてくれた。
『시작하면, 반 』(どう発音するのかは忘れたが…)
『始めたら、半分』という意味だそうだ。
「何かを始めたら、それだけで、もう半分まで来ているのだから、あと半分、やるっきゃない!』と言う意味なのだそうだ。

私も、今年も採用試験に挑戦しよう!と決意するまでずいぶん悩んだ。
でも、決意した。
いろいろな手続きや説明会にも行った。
現実は甘くないことや、ハードルの高さと、試験までの時間のなさを思い知らされた。
でも、そんな時、この言葉に出会った。


『始めたら、半分』


思いつきで始めたわけではない。ここまで来るのに、かなりの回り道もし、迷い道だったが、今思えば、『一本道』として、今につながっているように思える。
GOALまではまだまだだけど、この道は、きっと必ず、5年後、10年後のなりたい自分、行きたい未来に続いているはずだ。
そして、今の目標はただの通過点でしかない。私の未来はずっと先にある。
でも、今できること、今持っている力、今までの経験で、ベストを尽くすしかない。
なぜなら、『現在』は『過去』の延長線上にあり、『未来』は『現在』の延長線上にあるから。
今できることから、確実に1歩1歩前進するしかないのだ。


今朝、久々に早朝ウォーキングをして、弁天様に合格祈願をして来た。

前進あるのみ!


と言うわけで、7月3日の夜に、よい報告ができるまで、しばらくCafeの更新をお休みさせていただきます。

もしかしたら、進捗状況報告や、どうしても日記に書き残しておきたいようなことがあったら書きこむかもしれませんが…。

4月の総括と*(学校)*学級だより *(時計)*『時こくと時間』

2011-04-30 13:07:00 | 徒然なるままに
4月30日(土)

4月も、早、最終日となった。

この年度末年度始めは、いつもの年以上に大変な1カ月だった。

中学校から小学校への転勤。
小学校の担任。
故郷石巻の被災。
教員免許取得の手続きと、採用試験を中学校と小学校のどちらで受けるか。

毎日が自信喪失と自問自答の連続、疲労の蓄積だった。
帰宅するなり、倒れこむように寝てしまい、そのまま気がついたら夜明け前で、飛び起きては持ち帰りの仕事を片付け、風呂に入り、朝食の準備をし、娘を駅まで送り届け、出勤。
朝の8時から4時に子どもたちを下校させるまで、給食を食べる時以外は、座ることもできず、トイレに行く暇も、職員室に戻る時間もない。
小学校は終礼で、夕方打ち合わせがあるのだが、座ったら最後、睡魔が襲いかかってくる。
それから採点やらゴム印押しやら翌日や一週間先の準備、打ち合わせ、教室環境作りなど、終わりが見えない細々した仕事が次々に湧いてくるようにある。

それらを着々と時間内に、手早く、でもきめ細やかにサクサクこなしていく他の先生方がとても優秀に見える。
それに比べて、何をやるにも畑違いと言うか、要領を得なくてモタモタしている自分のなんと無能なこと。

夜起きていられる時は、ニュースで流れる石巻の被災状況に、翌日泣きすぎて瞼が腫れあがるぐらい泣き、仕事があって駆け付けられない自分を責め、身を引き裂かれる思いだった。

ついには、体調を崩し、起き上がれなくなってしまい、病院で検査を受けることになってしまった。幸い、大したことはなく、咳止めと鉄剤とビタミン剤を処方された。

そんな時に、私を心配してくれる友人たちからは、叱咤激励の電話をたくさんもらった。
「泣き言は俺の前でだけ言え。いくらでも聞いてやる。でも、生徒の前では泣き顔は見せるな!おまえは教師だろう!毎日元気で笑顔でいろ。」
「全校生徒と一緒に津波に呑まれて亡くなった幼なじみのことを思えば、何だってやれる。がむしゃらに頑張れる。私は、そう思って頑張っている。
あなたにとっては教職は『天職』でしょう?何を弱気になって迷っているの?
あなたには、あなたを待っている子どもたちがいるんでしょう?元気に毎日学校に通ってきているんでしょう?
こんなに幸せなことはないでしょう?」
そして、被災地で教員をしている友人たちの頑張りは、私の想像を超えるものだった。

実家に震災直後とその後の大きな余震の後の2回帰省した弟からも、
「元気な地域の人が、普通に元気で日常生活をすることが最低限のボランティアになる。
しっかり働いて、消費して、物資や義援金を贈る。医薬品を被災地に回せるように健康でいることも、立派なボランティアなんだ。
風邪引いたり、疲れやストレスをためて具合悪くなっている場合じゃないぞ。被災地はその何倍のストレスや余震の恐怖や食料も燃料もないところでみんな頑張っているんだから!」

私にできることってなんだろう。
これは、私だけでなく、今、日本中の人が、世界中の人が、真剣に考えて取り組んでいることなんだと思う。

原子力発電に頼らない生活。
災害に強い街づくり。
明日は我が身と思っての、防災準備と訓練。

今回の震災を教訓にして、改めなければならないこと、新たに取り組まなくてはならないことが、国家レベル、地球レベルでたくさんある。


小学校2年生でも、子どもたちは真剣に話を聞いてくれる。自分の意見を言ってくれる。そしてそれを家庭に帰ってから、家族にも話してくれる。

私のミッション(使命)は、次の時代を担う子どもたちに、この震災や原発事故について、また、これまでの日本の歴史を正確に伝え、同じ過ちを犯さないことと、日本中、世界中が一つになって、この困難を乗り越えようとしていることを実感させてあげることなのだと思う。
それが、もしこの先、この子たちが大きな災害にあった時に、生き延びるための知恵となり、被災者になった後の復興への勇気となるだろうことを信じて。


*(学校)*学級だより*(笑顔)*

2年生の4月の算数は『時こくと時間』を学習した。
みんな、1年生でもやっているので、時こくは読めるのだが、時間の計算が苦手だ。
「学校まで20分かかります。8時に学校に着くには、遅くとも家を何時何分に出ればよいでしょうか? 」
「公園について、サッカーを始めた時こくは10時です。サッカーを終えた時こくは11時45分です。サッカーをやっていた時間はどれだけですか?」
「水族館に着いたのは10時です。イルカショーが始まる10時50分までは、何分間あるでしょう?」
と言うような文章問題になるとみんなこんがらがってしまうようだ。
先日、一通り授業をやった後のテストの点数は惨憺たるものだった。
翌日
「皆さんに聞きます。時間の計算ができるようになりたい人は手を挙げてください」
と言ったら、28人中27人が手を挙げた。上げていない一人に理由を聴くと
「読めた方がいいとは思うけど、分からないから考えていると気持ち悪くなるし、面倒くさくて嫌になっちゃうから。」

そこで今度は、「時計が読めるといいこと」「時計が読めないと困ること」について各自考えてもらい、発表してもらった。
それを聞いているうちに、めんどくさがっていた子も、顔つきが変わってきた。

そして、今度は、グループになって2枚のテスト問題を全員で解かせた。
「算数セットでも、今までのプリントや教科書を見ても、他人に聞いてもなんでもいいから、とにかく班全員で話し合って100点を目指そう!
発表するこが分からなくなったら、半のメンバーで助けてあげてね。」
結果は上々。その本当の成果は翌日のテストに出るはずだ。

テスト当日。前の日に黒板に書いておいた
「算数のテストで70点以上取った人は、G,W中は算数の宿題はなし。
取れなかった人は、全部できるまで、やり直してくるのが宿題」
を見たのだろう。
朝、私が教室に行くなり、男の子が進みでてきて
「先生、午前中の授業を全部算数にしてください!」
と言ってきた。
「何で?他にもやらなくちゃならないお勉強があるから、全部は算数にできないよ。」
「ぼくたちは、G.Wには遊びたいんです。
どうしても、今日70点以上取りたいので、算数を教えてください!」
と言ったら、クラス中が
「「「算数!算数!!算数!!!」」」
の大算数コールになってしまった。
「分かった、分かった。じゃあ、連休明けの6日の算数と今日の2時間目の生活科の授業を取り替えるのならいいよ。1時間しかあげられないから、この1時間で覚えられるように、みんな集中できる?」
「「「はい!!!」」」

その時間は、みんなよく頑張った。
教科書やプリントに乗っている問題ではなく、5月2日の全校遠足のシュミレーションを兼ねて問題を出した。
「8時半に学校を出発して、公園に9時25分につきました。学校から公園までは何分間かかったでしょう?」
と言うように、当日の自分の行動とリンクさせた問題をたくさん出した。

その甲斐あってか、次の時間の算数のテストは、前回に比べて、ほとんどの子が点数が上がった。
中には相変わらず苦手な子もいたが…。それはまた、この先、機会を見つけては日常生活の中でわかるように支援して行こうと思う。


去年、中学校で数学のTTをやった時も、からない生徒を集めて、昼休みの美術室で教えたりしていたが、そのうち、分からない生徒はもちろん、分かっている生徒たちまで美術室にやってきて、問題の出し合いや教え合いっこをしてたっけ…。

みんな、分からないままでいいなんて思ってはいないんだ。分かりたいし、分かるようになりたいと思っている。
分かっている子は、分かっているということを認めてもらいたがっている。
それを人に教えることで、また自分のできていない所や説明不足の事に気がつくのだ。

それにしても、朝からのクラス全員の算数コールには驚いた。
でも、あれだけシュミレーションしておけば、遠足当日にはみんなスケジュールどおりに行動できると思うのだが…。
連休3日間が明けたら、忘れているかなあ…?

大津波にも負けない、薔薇の木の生命力

2011-04-29 07:55:00 | 徒然なるままに
今朝、宮城県石巻市在住の父のブログを見た。
今回の東日本大震災の石巻の被災状況の画像が掲載されていた。http://blog.goo.ne.jp/teruotojo

特に、父の実家があった渡波地区の画像は、話には聞いていたが、知っている場所なだけに、見た瞬間、涙も言葉もな出ないぐらいに衝撃を受けた。
悲惨な状況を見ながら、かすかに面影残るもの見つけては、在りし日の町の様子を思い出し、涙が決壊し、画像が見られなくなった。
私の思い出の中の渡波の町とはあまりにも、違いすぎて・・・。


この地域は、私が幼稚園から小学校4年生までを過ごした、私の『原風景』となる町だ。

家の裏は、全国でも有名な『渡波海水浴場』があって、海水浴シーズンには全国から観光バスが集まり、にぎわっていた。
私たち渡波小学校の生徒は、海開き前に、全校生徒で浜に出て、漂流物やゴミ拾いをしたものだった。

北上川の河口まで続く長い砂浜は、その名の通り、『長浜』と言って、渡波から北上川に向かって、砂浜の右手には、防風林としての美しい松林がずっと続いていた。

私はその砂浜を、桜貝などを拾いながら、

♪ 松原遠く  消ゆるところ

   白帆の影は 浮ぶ
 
  干し網 浜に高くして

   かもめは低く 波に飛ぶ

   見よ昼の海 見よ昼の海

とか、『我は海の子』や『浜辺の歌』を歌いながら散歩をするのが好きだった。

その砂浜も、今はない。

私の思い出の海は、広くて大きくて、豊かで、静かで、優しかった。
今の実家に引っ越してからしばらくは、海が見たくて、夜寝るときは波の音が聞こえないと眠れなくて、毎晩泣いていたものだった。(アルプスの少女ハイジが、アルムの杉の木を思い出し、夢遊病になるシーンと自分を重ねては泣いたことがある。)



渡波の家には、無き叔母が娘時代に植えたと言う薔薇の木がある。
私が住んでいた時は、6月になると淡いピンク色の花を咲かせ、私は毎年その花を母に切ってもらって、教室に飾ってもらった。

今回の津波で、父の実家は土台とブロック塀だけを残して跡形もなくなってしまったのだが、その薔薇の木だけが残っていた。

こんなに大変な津波だったのに、実家の薔薇の木は残り、この春も、忘れずに芽吹いていたなんて・・・。
人が作ったものはもろくても、自然生命力は、災害なんかには負けていないのだ。

その薔薇の芽吹きは、実家を見に行った両親をどれだけ励ましてくれたたことだろう…。

写真では、海の青さも、山や松林の緑も、記憶の色と変わらないように見えるのに、実家は跡型もなく、ご近所の痛ましいまでの被災状況には胸がつぶれ、言葉もない。
亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、無事避難された方々へのお見舞いと、渡波の町が一日も早く元の活気を取り戻し、安心して生活できる日がまた訪れますよう、お祈り申し上げます。



たくさんの方々から、お見舞いのメールを頂き、ありがとうございます。
お返事やご挨拶がまだの方、申し訳ありません。追って、書き込ませていただきます。

新たな勤務先での仕事も、ひと山越えて、ようやく休みが取れました。
これから続く『険しい山脈』に挑み続けながら、その行程をを楽しむためにも、このG.Wを有意義に使って、リフレッシュし、エンジンをかけなければならない。

故郷に戻り、ボランティアをするべきか悩み続けたが、石巻女子高時代の友人と先日話した時、
「帰りたい気持ちは誰より強いが、両親が無事でいるのなら、こちらで頑張ってはたらいで、帰る旅費の分、実家に物資を送ったり、母校の義援金に充てよう」
と言うことにした。
このG.Wは、弟が帰省し、家の片づけや修繕の手伝いに行ってくれると言う。
G.W明けには、整体の仕事をしている妹が、両親の体ほぐしに行くことになっている。
私は・・・。
まずは、自分のミッション(使命)を果たすこと。
小学校教員免許取得と、教員採用試験に合格すること。
今すぐは役には立たないけれど、これからの石巻を支え、元気にするためにも、今、自分がしなければならないことに全力を注ごう。


人間と言うものは、不思議なもので、あまりにも悲惨な状況を毎日映像で見ていると感覚がマヒしてしまうのか、慣れてしまったようになっている。
震災当時は、泣きすぎて目が腫れあがり、立ちあげれないほどのショックや悲しみや喪失感、絶望感でボロボロだったのに…。
今は、むしろ、被災者の方々が、悲しみや疲労の中、立ち上がろう、踏ん張ろうと頑張っている姿や、ボランティアの方たちに向ける感謝の笑顔に、涙が止まらない。
そして、国内外からのボランティアの方たちの献身的な支援活動や、応援メッセージに、胸がいっぱいになる。
今、日本中の人たちが、世界中の人たちが、
『自分にできることは何だろう』
と自身に問いかけ、自分にできることから何かをしようとしている。

震災や津波の被害を免れた人たちは、自分たちは、『生かされた』と言う。
亡くなった人たちの分、生きたくても生きられなかった人たちの分、『生かされた』自分たちには、しなければならないことがある。
新盆までには、この町を元気にするために、立ち上がらなくてはならない。
そうやって、連日の余震におびえながらも、それぞれの場所で踏ん張って、この悲しみと苦境を乗り越えようと頑張っている。
きっと、生まれ変わった石巻は、今まで以上にいい街になる。
日本全国に、そういう町の前例はたくさんある。
災害に強い町に・・・!
地震国日本の行政のプライドをかけた取り組みと、被災地復興への血の通った支援を心から願う。

千葉に住む私も、いつ、同じような被害に遭うかもしれない。
故郷に学び、故郷の人々を見習って、私もまた『生かされた』人間として、故郷を、両親を支えていきたいと思う。


石巻市松原町は、危険区域として、もう人は住めなくなるのだと言う。
渡波地区は、日々、地盤沈下が進んでいるという。
海の底に沈んでしまう前に、薔薇の木を今の実家の庭に移植してくれるように、両親にお願いした。

夏には、また穏やかになった渡波の海にお線香と花をたむけに帰ろうと思う。

頑張れ!石巻!!

2011-04-10 07:35:00 | 徒然なるままに
4月10日(日)

久しぶりにCafeにやってきた。
すっかりご無沙汰してしまいました。
掲示板や書き込みのお返事もためてしまってごめんなさい。
後ほど書きこみにお邪魔いたします。

まずは、近況報告から。
年度末、年度初めの、飲まず食わず寝る間もない忙しさもようやく一段落。でも、この1ヶ月間の無理がたたって、病院で検査を受ける羽目になってしまった。
検査結果は月曜日に出るのだが、元気にこの1年を乗り切るためにも、早期発見早期治療だと思って、どんな結果でも前向きにとらえて体調管理に努めよう。

4月から、今度は小学校の先生になった。
2年3組の担任だ。
身体が中学生の半分ぐらいしかないような、かわいいかわいい児童達。
エネルギーも吸われるが、その倍以上のパワーと癒しをもらっている。

着任式の後、3組のみんなを連れて、教室に入った時、耐震工事の影響で天気がいいのに教室はなんだか薄暗い。
一人の子が、
「先生、電気を点けていいですか?」
と聞いてきたとき、別の子が私の前に来て、
「先生、今、東北関東大震災で、東北地方の人たちは大変な思いをしています。教室は明るいから、電気を付けないで、節電しましょう。」
といってくれたのだ。
「ありがとう!みんな、○○くんがこう言ってくれて、先生はとってもうれしいです。みんな、お勉強が始まったら電気を点けるようにするけれど、今日は、教科書を配布したり、席を決めたりするだけだから、電気を点けなくてもいいかしら?」
と言ったら、
みんなが、大きな声で
「いいで~す!!」
と返事をしてくれた。

これが2年3組のスタートだった。

この小学校は、今年創立50年のかなり古い校舎だ。3月11日の大地震の時には、校舎も体育館も校庭もかなり痛んで、卒業式も入学式も、他校の体育館を借りなければならない状態だった。校庭は工事中でいまだに使用できない。
また、この学区は、両親ともに都心で働いている家庭が多く、地震の日は保護者に連絡が取れないうえ、電車が止まって、迎えに来てもらえず、避難所になった学校に泊まることになってしまった児童も多数いたそうだ。

そんな怖い、心細い、不安な体験をしたせいもあるからだろうか、私が話す被災地の故郷石巻の様子や、地震の際の心構えなどの話を、真剣に聞いてくれた。

その話を、津波で壊滅的被害を受けた北上町の小学校で先生をしている友人に知らせたところ、とても感激してくれていた。


地震から明日で1カ月。未だに故郷の被災地に駆けつけることもできず、できることと言えば、募金や援助物資の提供ぐらいしかなく、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
幸い、両親、親戚も無事で、実家も流されることはなかったので、今すぐ安否確認に帰省する必要はなく、仕事に専念できることはありがたいと思っている。
それなら、私にできることは、自分の受け持ちの児童たちの安全を守ること、安全を呼び掛けること、被災地の人たちの思いや、自分たちもいつ何時被災者になるかわからない危機管理を考えさせ、児童達から被災地の人たちへの応援メッセージを届けることだと思う。

宮城県では早いところは11日から、遅くとも21日から学校が再開するそうだ。
入学式や新学期を心待ちにしている児童・生徒たちがたくさんいることだろう。

でも、そうなると、今学校で避難所生活をしている人たちは、どこで生活することになるのだろう?
自宅に戻り、泥や瓦礫を取り除きながら次にまた大きな余震が来たら崩れてしまいそうな危険な家で、ヘドロの匂いの中寝泊まりしている人たちは…?
学校自体が流され、津波で何もかも流された学校の生徒たちは、さらに遠くの学校に統廃合されることになるのだが、通う家は?
児童・生徒たちの大切な個人情報をはじめ、教材も、資料も、道具も何もない中での教員たちの心労、苦労は想像するだけでも気の毒でならない。

瓦礫が邪魔をして、未だに収容できない遺体が海や町に無数にあるという。
遺体確認ができれば幸運。お葬式が出せるだけでもありがたい。
身元を確認する人もいない、行方不明の届けも出せない、出す人も一緒に流されてしまった・・・。
故郷から届く、また、故郷を見に帰った人たちから聞かされるあまりの惨状に胸がつぶれ、涙が止まらない。

そんな中、ネットでうれしい知らせを見た。
石巻の川開きが、この夏開催されるという話だ。
「川開き」は、石巻の人間にとっては、1年中で最大のお祭りだ。
江戸時代に北上川河口部の改修を行い、石巻発展の礎を築いた川村孫兵衛の偉業を讃えるとともに、海難事故、水難事故によって亡くなった英霊を供養するために行われる祭りである。
ここ最近は、市街地のドーナツ化現象で、シャッター街になってしまった商店街で、祭り自体も縮小化し、寂しい祭りになっていた。
でも、この「川開き」を今年も開催することによって、石巻を再興しよう!と言う地元の仲間の心意気に触れて、石巻人として、心から嬉しく、誇りに思う。


かつて、歌川広重(安藤広重)は、安政の大地震で大きな被害を受けた江戸の人たちを勇気づけるために『江戸名所百景』を作成した。
日々、復興して行く江戸の姿と、失われた在りし日の江戸の姿を毎日描いて、擦り上げ、江戸の人たちに配ったという。
特に、地震で亡くなった人たちの慰霊のために打ち上げた『両国の花火』の絵は圧巻だ。

今回の地震で亡くなった方、行方不明者の数は一つの町単位で1万人以上と言う。
石巻の小学生だけでも125人死亡、75名行方不明だと言う。
スポンサーの造船所も製紙工場も商店街も魚市場も壊滅的な打撃を受けただろうに、例年通り花火大会を打ち上げると言うのだ。
これは、なんとしても帰省して、地元のみんなを応援してあげたい。
天気が心配だが、天国に行ったみんなにも見えるぐらい、きれいで大きな花火をたくさん打ち上げてほしい。

今は瓦礫で人一人通るのもやっとの商店街。建物の上に船が刺さっているというような信じられない光景を、元のようにすることは困難なことだろう。
でも、生まれ変わった街で、地元の人も、帰省してきた人も、川開きを楽しめるような町づくりを頑張って欲しいと思う。
きっと、今、一生懸命活動してくれているボランティアの人たちも、元気になった石巻を見に来て、一緒にお祭りを楽しんでくれるはずだ。

私も、帰省のときには、両親に胸を張ってうれしい報告ができるよう、採用試験勉強がんばるぞ!

両親、自宅 無事でした。

2011-03-20 11:06:00 | 徒然なるままに
3月20日(日)


宮城県石巻市の両親、自宅無事でした。

皆さまにいろいろご心配を頂き、また、励ましのお言葉や、安否確認の方法などを教えていただき、本当にありがとうございました。


この10日間と言うもの、本当に、悲喜こもごもの波乱万丈の10日間だった。

両親を探しに行ったまま、連絡が途絶えていた弟から入った知らせで、両親と自宅の無事を知ることができた。

でも、その弟も、現地に残ると言う両親を実家に置いて、
「東京に一旦戻って、支援物資を満載してまた来るから」
と言って飛び出したものの、宮城県内ではガソリンを入れることはできず、福島では原発から避難してきた人達の渋滞にはまり、ついに栃木県でガソリンが尽きてしまった。
そこで、車を駐車場に置き、新幹線で帰京した。

その弟からの電話で、両親の様子や、石巻の様子を詳しく知ることができたのだが…。

両親は、本当に、たまたま、その時間に一緒にいることができたのだ。
もし前日の同じ時間だったら、もし午前中だったら、二人が今無事にいる可能性はかなり低かっただろう。
たとえ、自宅は無事だったとしても、どこで震災に遭うのかで、状況は天と地ほど違ってくるのだ。

幸い、家はプロパンガスなので、煮炊きはできていたらしい。
裏の用水路も道路すれすれまで水位は上がっていたが、家が水に浸かるほどではなかったらしい。
家の中はぐちゃぐちゃだが、片付ければ住めるということで、避難所は混んでいて、家が水に浸かった人たちや、一人暮らしのお年寄りたちに譲って、自宅が無事な人たちは、自宅に帰って行ったのだそうだ。

5日目、メールがつながるようになってから、友人からSOSが届いた。
小学校の教師をしている友人は、津波のあった日、子どもたちと職員と屋上に避難し、次の朝まで屋上から降りられなかった。翌朝、水が引いた中を批難し、日和山の避難所に行ったが、4つの学校の避難所に1万人以上の被災者が避難していて、ほとんどの人が、地震以来、何も食べていないのだと言う。
赤ちゃんのミルクを届けて!このメールをみんなに知らせて!

6日目、雪の石巻を見た。上空から撮影された、石巻の惨状・・・・。
ここにはまだ行方不明の方たちが生き埋めになっているのだろうか・・・・。

7日目、父とメール交換ができた。弟が無事に東京に着いたかを心配していた。
夕方には母と携帯で話すこともでき、電話口で二人で泣いた。
でも、その時には、弟の無事を伝えるだけで、まだ情報のない両親に、石巻の町が半分以上津波に流されたことは告げられなかった。

8日目、電話のつながった両親に、連絡が取れていない友人の一人暮らしのお父さんの安否確認を頼んだ。
友人のお父さんは、一人暮らしのお年寄りばかり集めた避難所にいらした。
夜、次々と安否確認をし合う中、気になっていたのが、地元の友人がお姑さんと次男を津波で流され、毎日、ヘドロの中を探し続けているというのだ。
それが・・・・!

9日目。前日の気になっていた友人のお姑さんと次男が、奇跡的に救助されたというではないか!
ニュースでも流れて、その信じられない瓦礫の中から、助け出された80歳の女性と、16歳の少年。
本当によかった!!!
毎日、死者の数がものすごい勢いで増えていく中、大きな希望の光だ。


全国から温かい支援の輪が広がり、救援部隊をはじめ、ボランティアの方々のご活躍には本当に頭が下がる。
そして、地元の人たちの、前向きで、ひたむきな姿勢と、報道や救援隊、ボランティアの方たちへの腰の低さ・・・。
何もかも失った上、安否の分からない家族を思い、心はもう絶望でボロボロなはずなのに、
「ごくろうさまです」
「お世話様です」
「お陰さまで」
「お互い様です」
「ありがとうございます」
と言う、相手を思いやる言葉が、自然に出てくる、その素朴な温かさが胸にしみる・・・。
そして、地元に残った同い年ぐらいの人たちが
『頑張ろう!石巻!!』
のスローガンのもと、元気に立ち上がった。


私にできることは何だろう…。

先日、1年生と2年生の授業で、私が石巻出身だということを伝えたところ、みんな、よく知っていて、私がそこの出身だということで、家族や家の心配をしてくれた。
私は、両親や弟、友人たちから聞いた石巻の現状を話し、自分も宮城県沖地震の経験があることを話した。また、阪神淡路大震災や、中越地震のことについても話した。
皆、真剣に聞いてくれた。

防災についてと、今被災地の人たちのために自分ができることを話し合った。
もし、自分たちの町が同じような災害にあったとしたら…という具体的にシュミレーションした。

そうして、生徒会が募金活動に立ち上がってくれた。

職員室でも、こまめに節電するようにみんなで声かけ合っている。


現地に行って、ボランティア活動はできないが、一人ひとりが自分にできることは何か、意識して生活するだけでも違ってくるはずだ。


ところが、金曜日の夜から、ひどい風邪をひいてしまった。
花粉症だと思って油断していたのと、寝不足や疲れが、両親の無事を知って、気が抜けたのか、ペットボトルのふたも開けられないくらいの体調になってしまい、3連休の初日は1日中寝込む羽目になった。

弟には、
「被害のない地域の人たちが元気にしていることも、最初のボランティアなんだぞ。被災地はただでさえ薬のないところに、具合悪い人たちがたくさんいても薬が供給されないんだから!」
と、叱られてしまった。
被災地の両親が元気で頑張っているのに、私が風邪で寝込んでどうする!反省*(汗)*