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日記中心
 
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交流

子どもネット、母ネット

2004-04-28 06:03:00 | 徒然なるままに
4月24日(土)
その後、おやこまつりに参加している末娘を迎えに行った。
ちょうど、最後の『人間天ぷら』ゲームが終わりに近づいている頃だった。小麦粉だらけ、水浸し状態の大騒ぎの真っ最中だった。
家を出るときは、
「お熱がまたあがるから『人間天ぷら』はやんない。」
と言っていたはずが、半袖で水鉄砲片手にお友達を追いかけ回しているのは???!
ケーナ演奏も、駄菓子屋さんも上手くいったようで、みんな大満足そうだった。
ケーナの仲野さんも、楽しそうだった。

夜、今度はガストで母ネットの集まり。
今日は、土岐先生を交えて、先生のご結婚を祝う会の打合わせと、みんなそれぞれの高校に進学してからの子どもたちや各家庭の様子を報告し合った。
ことごとくそれそれが違う学校に進学し、それぞれの新しい高校生活は、興味深くもあり、みんな、学校や生活のリズムに慣れるのに、母子で必死だ。
毎日の弁当作りに、自転車、バス、電車を使っての通学。新学期が始まって1ヶ月もたっていないのに、これが3年間続くのかと思うと・・・。
親にできることは、お金を出すことと弁当を作ることぐらいなものだけど、当たり前のようで、これが結構きついのだ。まあ、とにかく、せっかく合格して入学した高校の3年間を元気に過ごしてくれればと思う。
 パーティーの件はいろいろなアイディアや意見が出たが、高畑さんお薦めのお店を明日下見に行くということで終わった。
 みんなの思い出に残る、素敵なパーティーにして行こう!

綱引き

2004-04-28 06:02:00 | 徒然なるままに
4月24日(土)
今朝は、5人分のお弁当を作った。
長女は自分から早起きをして、自分で詰めた。
息子は、津田沼高校との練習試合。
長女は体育祭。
末娘は子どもネットのおやこまつり。
それぞれを送り出してから、妹と体育祭に応援に行った。
おととい、筋肉痛で3時間目から登校した長女は、クラス対抗リレーでも一生懸命走っていたし、綱引きでも、力いっぱいがんばっていた。
友達を大きな声で応援したり、一緒に抱き合って喜んだり、体育祭を楽しんでいるように見えた。
私も、PTA競技の1輪車での大玉運びや綱引きに出場。3年生男子とPTAの綱引きでは、去年『敵』だった現高1の卒業生たちと一緒に、力いっぱい綱を引いた。転任されて行った校長先生や教頭先生も参加しての綱引きだった。
彼らとの3年間のいろんなことが思い出され、なんだか胸の奥がジンと来た。
あの頃、あまり学校に来れなかった子も、やんちゃをしてばかりだった子も、制服をちゃんと着ていなかった子も、生徒会や部活動でがんばっていた子も、
親も先生も一緒になって、綱を引いた。
結果、2-0で勝った!みんなで一緒に喜んだ。
在校生300人あまりの小さな中学校の体育祭。
卒業生も、転任されていった先生方も、保護者も他校の中学生も一緒になって盛り上げた体育祭だった。
長女の中学校の思い出のアルバムに、どんな1日として残るのだろうか・・・。

ソーラン隊TV取材!

2004-04-28 06:01:00 | 徒然なるままに
4月23日(金)

今日、ケーブルネット296のTV取材があった。
連絡網で流したとおり、5:00にはメンバーがそろい、放送局の人と打ち合わせをしている間に、みんなのストレッチも終わった。
今回は残念ながら、衣装の直しが間に合わず、私だけが新しい衣装を着ての取材となった。
『南中ソーラン』、『どっこいしょ』、『よさこい島』のイージーとノーマルの4曲を踊り、後半は、それぞれのパート練習をしている様子をバックに、私がインタビューを受けるという感じで進み、最後に、みんなで
「5月2日の佐倉・時代まつりに向けて、がんばるぞー!」「おーっ!」 と、鬨の声を上げた。
今日の取材の様子は、7分ぐらいのコーナーに編集され、来週の月曜日から1週間、16:00~と18:30~と24:00~のニュースで毎日放送されるのだそうだ。5月2日当日は生放送。その後、16日には、1時間の特別番組として編集され、放送されるということだった。残念ながら、私たちの地区はエリア外なので、放送自体は直接見ることはできないが、
後でビデオで見ることはできそうだ。
 カメラマンの方が、踊っているときの子どもたちの表情が良かったとおっしゃってくださった。
 インタビュアーの方にも、背中の『楽』文字通りに、見ているほうも元気に楽しくなる踊りだとほめていただいた。
 本番、新しい長半纏お披露目ソーラン。衣装に負けないくらい元気に楽しく踊って、ばっちり決めるぞ~!

『神とともにいまして』

2004-04-28 05:59:00 | 徒然なるままに
4月22日(木)

今日は、19日に亡くなった友人との最後のお別れの日。
春風が心地よく、穏やかな、明るい青空が広がっていた。
彼女があの眼差しでがみんなを見守ってくれているようなお天気だった。
ちょっと早めに教会に到着できたおかげで、今日は中に入って、牧師さんやご主人のお話、お嬢さんのエレクトーン演奏も聴け、一緒に賛美歌を唱和することもできた。
牧師さんのお話の中で、彼女がどう自分の病気と、残された時間に向き合ってきたか、そして、どのような最期の迎え方をしたかを知ることができた。
昨日、彼女を拝顔したとき、最後の最後まで人をほっとさせ、明るく励ますような表情で逝くことができる彼女の生き方に強く感動した。
きっと、皆が見守る中、穏やかにその生涯を閉じられたのだろうと思っていた。
ところが、今日のお話では、見舞ってくれたみんな一人ひとりのことを気遣い、特にお嬢さんには、
「お母さんは大丈夫だから。明日学校でしょう。早く家にお帰りなさい」
と、笑顔で見送ってくれたのだそうだ。
その後、急変し、再び駆けつけたときには、一人静かに天に召された後だったそうだ。
なんと彼女らしい、天晴れな最期だったことだろう。

ご主人は、涙をこらえ、
「彼女は、こんなにもたくさんの友人たちと(残された)私たち(父子)を引き合わせてくれました。そういう意味でも、彼女はよくやってくれました。
今日は彼女の人生最後のフィナーレにご出席いただき、ありがとうございました。」
とご挨拶された。

牧師さんは、
「献花のときは、どうぞ『さようなら』とは言わないでください。『また会いましょう』と言ってあげてください。
今日は、彼女の第二の門出の日なのですから。」
とおっしゃった。
出棺の後、リムジンを見送った後の空は、どこまでも青く澄み渡り、これから彼女が天に召されて上っていく道を春風が掃き清めているようだった。

友よ、大切な思い出をどうもありがとうございました。
あなたに出会え、一緒に過ごせた日々を幸せに思い、これからも大切にして生きていきます。
いつか、天国でまた会えたら、今度こそ一緒に津軽弁と石巻弁の人形劇をやりましょうね!

『今を生きる』

2004-04-28 05:58:00 | 徒然なるままに
4月21日(水)

18:00前夜式。
『お花料』の封筒を探しているうちに時間に遅れてしまった。
次から次へと訪れる弔問客で教会はいっぱいになっていた。
中から途切れ途切れに聞こえる賛美歌や、牧師さんの言葉。久しぶりの会う友人や、いつも冗談を言っている仲間と目が合っても、お互いに、無言で視線を交わすだけ・・・。
彼女の名前が入った告別式というたて看板の文字を見ても、まったく現実感が沸かない。

しばらくたって、献花が始まり、教会の中にいた人たちと入れ替わるように中に入った。
白いカーネーションをいただき、ご遺影を見たとき、初めて一気に現実を突きつけられ、後悔と大きな喪失感に谷底に突き落とされていくような感じがした。花に囲まれた写真は、いつもの彼女の笑顔だった。もうこの笑顔を見ることはできないのだ。あの声を聞くこともできないのだ。
と、花を置こうとしたとき、棺の中の彼女の笑顔を見た。
それは不思議な笑顔だった。
生前も、彼女の笑顔は人をほっとさせ、和ませ、明るく励ましてくれた。
亡くなってなお、ここに駆けつけた人の涙をそっとぬぐって、逆に励ますような、すべてを許し受け入れてくれるような穏やかな笑顔で彼女はそこにいた。

昨日、友人から、この1ヶ月は具合も悪く、最期は腸閉塞で苦しんで逝ったということを聞いていたが、彼女の短くなった髪の毛や、やせて小さくなった顔かたちは、その闘病の凄まじさを物語ってはいたが、表情は美しく、穏やかだった。

そのとき、私は、またひとつ彼女から、大切なことを教えてもらった。
私は、「今を生きる」とは、明るい未来のために、今できることを少しずつでも積み重ねて、未来につなげ、積み重ねていくことだと思い、子どもたち、ことに不登校で悩み苦しんでいる長女にもそう教えてきた。
でも、この先どうなるかわからない、まして余命を宣告されている人に、明るい未来なんてないのだ。
あるのは、今、この瞬間を生きているという現実だけ。この一瞬一瞬を生きるので、精一杯なのだ。

確実に迫る死と、肉体も精神も時間まで蝕む病魔との闘い。それらとどう向き合い、それでもなお会ったときには明るい笑顔で接してくれた彼女の強さと優しさはどこから来るのだろうと思った。

彼女のこの世での時間は、50年と4ヶ月だったけれど、きっと密度の濃い時間を生きたのだと思う。
「今を大事に生きる」ということは、未来のためではなく、自分がこの世を去るときに、「どう生きたのか」ということを自分で納得するために生きるのだ。
自分が生まれてきた意味なんて、誰も知らない。
でも、自分がこの世に生を受け、生きた証を刻むことには意味があるのだと思う。
「生き様」と「死に様」は表裏一体なのだ。
他人と違う人生、生き方、価値観、個性。それを恐れたり、恥じることなく、自分の人生を全うする。
それが「今を生きる」ということなのだと思う。
結果はおのずと現れる。そのときに、それをどう判断し、対応するか。
いつか乗り越えるべき壁は、逃げても逃げても必ず形を変えてまた現れるものだ。
現実を受け入れ、現状を認めてはじめて道が開けるのだと思う。
「今をどう生きるか」
その一瞬に一瞬が「過去」となって蓄積され、その延長線上に未来が待っているだ。
未来は変えられると思っていた。でも、変えようのない運命もあるのだ。後はその受け取り方なのだと思う。
彼女の笑顔は、それを私に教えてくれていた。
私の中に彼女は永遠に生き続ける。
そして、私が暗闇に突き落とされたとき、そっと肩を抱き、光が射す方向を教えてくれるのだろう。

今、肉体と精神の苦しみから解放され、静かに眠っている彼女。
どんなにか心を残し、生に憧れ、この世を去ったことだろう。
彼女を失った喪失感と悲しみは、ご遺族を始め、誰の心にも大きく癒しがたいものだ。
それをそっと優しく包んでくれるような、不思議な笑顔だった。
私にも今はの際が来るだろう。
そのときには、彼女のような表情で永久の眠りにつきたいと思った。

ご冥福を心からお祈りいたします。

『命の尊さ』を教えてくれた友人の訃報に接して

2004-04-28 05:57:00 | 徒然なるままに
4月20日(火)

今日、この2日ばかり調子の悪かったFAXを直したとたん、ショックなお知らせが流れてきた。
19日未明、11年来の友人が亡くなった。
50歳。卵巣癌だった。

彼女との出会いは、息子が入園して参加した人形劇サークルで、私たちは同期生だ。
私は入園を機にだったが、彼女は、お嬢さんが卒園後も園に関わっていきたいという気持ちからだった。

弘前市出身の彼女と石巻市出身の私は、同じ東北出身で意気投合し、
「いつか東北弁の人形劇をやろうね」
と約束していたが、今となっては叶わぬ夢になってしまった。

いつも明るくて、控えめだけどしんは強く、他人を和ませる笑顔の持ち主だった。
その彼女に、一度だけ、ピシリと厳しい表情で叱られたことがある。
末娘を身ごもったときのことだ。
その頃の私は、とても妊娠を受け止め、出産に前向きな気持ちになれないほど過酷な状況にあった。
頭と心と体がバラバラだったような気がする。
そういう私の不用意に発した
「3人目ができちゃって・・・」
という言い方に彼女は鋭く反応した。

彼女は、結婚後、なかなか子どもが授からず、何年も遠くの病院まで不妊治療を受けに行き、やっとの思いで授かったものの、自分の命と引き換えにするような難産の末、子どもを授かったという経験の持ち主だった。
彼女の穏やかで和やかな家庭の根底に、そんな壮絶なドラマがあったなんて・・・。
彼女は私に、自分の過去と、私が今の状況での妊娠という現実をどう受け止め、自分の中で消化し、芽生えた命の重みと尊さに感謝しなければならないかを心を込めて語ってくれた。

私も、子どもたちも、主人も、もう一人の赤ちゃんを望んでいた。
でも、いろいろな事情から、私はその後の育児についての漠然とした不安と、過酷な現状を抱えていた。

あの時、彼女と話したことは、その後の私にとって、大きな心の支えになっている。
そればかりか、末娘を見るたび、一瞬でも躊躇した自分を後悔すると同時に、彼女の言葉がいつも心に響いている。そして、末娘がこうして私のもとにいることを心から感謝せずにはいられない。

いつか、娘が大人になって、母になったとき、一緒に彼女のお墓参りをして、そのときのことを話してあげようと思う。

こうしていても、彼女がいなくなったなんて、まったく現実感がない。
夕方、何人かの友人に連絡を取ってみたが、皆ショックを受けていた。
この言いようのない喪失感。取り返しのつかない後悔・・・。心にぽっかり穴が開いたようとはこういうことを言うのだろう。

彼女が命がけでこの世に送り出した娘さんは、高校3年生。
私の中では、セーラーマーズが大好きで、私が描いてあげたイラストをうれしそうに抱いているあどけない笑顔のままだ。
18歳。まだまだお母さんという存在が大切な年頃だ。彼女はこの現実をどう受け止め、乗り越えていくのだろうか・・・。
でも、あの彼女の娘なのだ。きっと、乗り越えて、強く、しなやかに、前向きに成長して行ってくれると信じたい。

明日、6:00から教会で前夜式が執り行われる。
今夜は彼女が自分の家で家族で過ごす最後の夜。
どうぞ、安らかにお休みください。