先日『過去世』について書き込んでから、読み返して、気がついた。
『袖振り合うも多生の縁』の『たしょう』は、恥ずかしながらずっと『多少』だと思っていた。
「こんなにたくさんの人々の中で、袖が振り合うだけでも奇跡的な出会いであり、多少なりとも縁があるのではないか」
という意味だと思っていた。
ところが、「たしょう」には『他生』と『多生』という書き方があることを知った。
『他生』とは、前世と来世と言う意味。
『多生』とは何度も生まれ変わると言う意味。
ことわざで使われる『たしょう』は正式には『多生』のほうだと言うが、変換すると『他生』が出てくるのは、(俗)に使われる頻度が高いからか。
私は、どちらもなるほど当てはまるなと思う。
前世からの縁、何度も生まれ変わっての縁・・・・。
私の小さい頃は、『縁』という言葉はすごく当たり前に身近なものだった。
今はあまり聞かれなくなった
『困ったときはお互い様』
『おかげさまで・・・』
『これも何かのご縁ですから・・・』
というやり取りは、子ども心に心が温かくなるやり取りだった。
『一期一会』という言葉に出会ったのは高校時代だった。
きっかけは,山口百恵の歌『一恵』の歌詞に
『一期一会… いくつかの出逢いの中で
それぞれに心を知りました』
というのがあった。
一期一会・・・千利休の弟子で山上宗二という茶人の著に、『山上宗二記』というのがあり、利休の精神を伝えています。
その中の「一期に一度の茶会」という言葉が由来と言われています。
その心は、生涯に一度しか会うことがないと思えば、その一度にすべてを賭ける。
短い出会いほど、その一瞬に、心の絆を結びたい。
日々、多くの人と出会っていますが、いいかげんな心で会っているとその人から何も、学ぶことは出来ない。
一期一会の覚悟で、十分な気配りを もって、一瞬一瞬を大切にしていきたい。
この人には、また会いたいと思ったり、もうあの人とは、会いたくないと 思ったリする。
そんな事を言っている内は、相手の素晴らしさを理解する 力が自分にないということだ...。
『縁』を大切にする。なんだか『原点』に立ち返ったような気持ちがする。
『袖振り合うも多生の縁』の『たしょう』は、恥ずかしながらずっと『多少』だと思っていた。
「こんなにたくさんの人々の中で、袖が振り合うだけでも奇跡的な出会いであり、多少なりとも縁があるのではないか」
という意味だと思っていた。
ところが、「たしょう」には『他生』と『多生』という書き方があることを知った。
『他生』とは、前世と来世と言う意味。
『多生』とは何度も生まれ変わると言う意味。
ことわざで使われる『たしょう』は正式には『多生』のほうだと言うが、変換すると『他生』が出てくるのは、(俗)に使われる頻度が高いからか。
私は、どちらもなるほど当てはまるなと思う。
前世からの縁、何度も生まれ変わっての縁・・・・。
私の小さい頃は、『縁』という言葉はすごく当たり前に身近なものだった。
今はあまり聞かれなくなった
『困ったときはお互い様』
『おかげさまで・・・』
『これも何かのご縁ですから・・・』
というやり取りは、子ども心に心が温かくなるやり取りだった。
『一期一会』という言葉に出会ったのは高校時代だった。
きっかけは,山口百恵の歌『一恵』の歌詞に
『一期一会… いくつかの出逢いの中で
それぞれに心を知りました』
というのがあった。
一期一会・・・千利休の弟子で山上宗二という茶人の著に、『山上宗二記』というのがあり、利休の精神を伝えています。
その中の「一期に一度の茶会」という言葉が由来と言われています。
その心は、生涯に一度しか会うことがないと思えば、その一度にすべてを賭ける。
短い出会いほど、その一瞬に、心の絆を結びたい。
日々、多くの人と出会っていますが、いいかげんな心で会っているとその人から何も、学ぶことは出来ない。
一期一会の覚悟で、十分な気配りを もって、一瞬一瞬を大切にしていきたい。
この人には、また会いたいと思ったり、もうあの人とは、会いたくないと 思ったリする。
そんな事を言っている内は、相手の素晴らしさを理解する 力が自分にないということだ...。
『縁』を大切にする。なんだか『原点』に立ち返ったような気持ちがする。