10月21日(日)
昨日は授業参観だった。
国語は、「わすれられないおくりもの」。算数は、「ふたけたのわり算」を展開することになった。
当初の予定が、私の怪我のために大幅に変更になってしまった。
前夜、当日の授業で使う教材を作りながら、どのように授業を展開すべきか考えていた。
「わすれられないおくりもの」では、この物語を通して学んだことを、アナグマへの手紙を書いて、それを発表し合う。その手紙の感想について、良かったところを発表し合う。
そして、自分にも、家族や友だちにもらった「忘れられない贈り物」があったら、それを発表し合う。
そのために、教室の壁に「わすれられないおくりもの」の絵本のカラーコピーを貼って、保護者が見てもストーリーがわかるような「わすれられないおくりもの」コーナーを作った。
急きょ、内容変更してやることになった算数も、仕掛けがたっぷりの掲示物教材を作った。
他の教室では、いろいろな掲示物が貼ってあり、そのクラスの特徴や個性が出ている。
うちのクラスの特徴や個性は…?
保護者は、どんなクラスの様子を見たいと思ってくるのだろう?
いろいろ考えて、私が出した結論は…。
先日、クラスでトラブルがあった時、私は予定していた授業を取りやめて、「言われてうれしい言葉といやな言葉」という授業をやった。
クラス全員に、その言葉を言わせ、黒板に書きだした。
言われてうれしい言葉は、ひらがな、漢字、カタカナで。
言われて嫌な言葉は、あえて全部カタカナで。
書き出された言葉を読んだ子どもたちは、様々な反応を見せた。
なるほどとうなずく子、自分もそうだと同意する子、でも、中には、嫌な言葉の文字を見るだけでその時の気持ちを思い出し、気分が悪くなったり、泣きだす子もいた。
その一方で、その嫌な言葉をわざと声に出して読み上げたり、黒板に勝手に落書きをしに来るようなお調子者まで現れた。
そうしたら、いつもは元気で笑顔いっぱいの子が、大声で泣き出したのだ。
ある子が、面白がってその子が嫌だと発表した言葉をその子に向かって連呼したのだ。
「何のための授業なの?よく考えて!」
泣きながら、その子はふざけていた子たちに向かって叫んだ。
言葉には魂が宿る。文字にすれば、その文字に意味があり、読む人の目を通してその人を励まし、生きる希望を与えることもできるし、その人の心を深く傷つけることもある。
だから、私は、言われて嫌な言葉をあえてカタカナで書いたのだと言った。
でも、それを読み上げた途端、その言葉は凶器となって人の心を刺してしまうのだ。
文字にしたらうれしい言葉でも、言い方によっては、不快な言葉、人を傷つける言葉になることもある。私は、「言われてうれしい言葉」をわざと意地悪そうな言い方嫌みたっぷりな言い方で読んでみせた。
それを聞いた子どもたちは、思いっきり不快な、傷ついた表情になった。
相手の心に届くような、言われた相手がうれしくなるようなフワフワ言葉は、いい方も大事だということを子どもたちが感じ取ってくれたらうれしい。
私は、その言葉を模造紙いっぱいに書いた。それも、「ワン・ピース」のチョッパーの絵を書いて、吹き出しとして。その掲示物を、教室の背面上部に貼った。
チョッパーは、いつもみんなが頑張ったプリントや宿題のノートに「がんばったね」はんことして押している.
運動会では、黒板一杯にルフィーと一緒に描いて、クラスを応援させた。
今回は,クラスのみんなを後ろからいつも見守り、応援してくれているイメージで。
そしてもう一つ。来週は席替えをするので、今のお隣の席の友達のいいところを見つけて、カードを書いてもらったのを「見つけたよ、友だちのいいところ!」と題して、模造紙いっぱいに貼り付けて、黒板に貼っておいた。
翌朝、登校してきた子どもたちは、大騒ぎ!
「先生、どうしてチョッパーが焦げているの?」
「ごめんね、絵の具が渇いたら、色が濃くなってたの」
「先生、この間の学級会の時の「言われてうれしい言葉」だよね、私が言ったの書いてあった!」
「先生、○○君は、私にちゃんと手紙書いてくれたかなあ」
「探してごらん。わざとばらばらに貼ってあるから。結構いいこと書いてあったよ」
そして、桜色の色画用紙に貼ったみんなのメッセージをチョッパーの模造紙の隣に貼った。
この掲示物が、功を奏したのか、授業参観で、たくさんの保護者が観に来て下さったせいか、この日一日、席を替わりたいだの、隣の子にちょっかいを出したり、嫌がらせをする子が一人もいなかった。国語や算数の発表の時も、お互いの発表の良いところを発表し合えたり、拍手や「(答えが)同じです。」という反応がいつもよりたくさんあった。
掲示物一つで、こんなに平和に和気藹藹と活発な授業ができるなら、もっとはやく取り組んで貼ればよかった、と思った。
と、同時に思った。
みんな、誰でも誰かに認められたがっている。
勉強やスポーツで目立つことができない子ほどそれは切実で、担任は常に、そうじや係活動、挨拶など、事あるごとにいいところを見つけては褒めたり励ましたりする努力を怠ってはいけない。
いつもやんちゃをして問題を起こす子も同じ。怒られたがっているというより、担任を試しているのだ。
でも、それ以上に、3年生ぐらいになると、教室での自分の立ち位置、ランク付け、居場所、グループなど、友だち関係が複雑になってくる。特に、男女別対抗意識も出てくる。
そんな中で、あまり話したことのない子や、いつもケンカばかりしている子が、実は自分のいいところを認めてくれて、励ましのメッセージを書いてくれたなんて、どんなにうれしいことだろう。
そういうメッセージを書いてくれた子に嫌がらせをしたり、暴力をふるう気持ちはなくなるのではないだろうか。
私の10のお説教よりも、友だちの一言メッセージの方がずっと効力があった。
私の指導は、「北風と太陽」の北風のように、自分の言うとおりにさせたくて、どんどん厳しく、追い込む指導になってはいなかったか?
正論や理詰めでたたみかけ、その場しのぎの謝り方をさせてはいなかったか?
だから、毎日同じことの繰り返しで、良くなるどころか、どんどんクラスの雰囲気が悪くなり,人間関係がギスギスしていってはいなかったか?
「言われてうれしい言葉」や「見つけたよ、友だちのいいところ」のメッセージは、まさに太陽に日射しだった。
自分は認められている。受け入れられていると思ったとたん、かたくなな心や、さびしい心が温かくなり、人にやさしく、穏やかに接することができるのだ。
その日一日、みんなの目はキラキラしていて、優しくて、帰りのあいさつの声も元気で、ニコニコ帰って行った。
とりあえず、嵐の一週間は過ぎ去り、台風一過の澄み渡った青空のような一日だった。
お怪我の具合はいかがでしょうか。本調子まで戻るにはなかなかたいへんでしょうが、クラスの子ども達にとっても大事なからだ、お大事にね。