山下公園まで歩く。
県民ホールの前に人だかりがあった。大原学園の入学式だったようだ。
今日が入学式だったのか。定期券売り場に行列ができていたね。
山下公園に入る。やはり、チューリップが咲いていた。
目下、横浜はガーデン・ネックレスの最中だ。花で道や公園を飾ろうと云うこと。トラックが並んでいたが、植木業者のもの。花を並べていた。まだ終わっていないところがある。今週は寒いようだから、急ぐ必要もない気がする。
赤い靴をはいてた女の子の像。この少女はあっけなく死んでしまったようである。
横浜港を眺める。やはり、横浜は東京都は異なる。
氷川丸。
大桟橋。クルーズ船は当分望めない。
ベイブリッジ。
やはり、ここはいい。心が拡がる気がする。
水の守護神とマリンタワー。
ふいご峠でシャトルバスをおりる。ここから700メートル、20分の山登りである。内陸部の高所なので紅葉が始まっていた。
最初は山道である。
途中から階段である。
石垣が見えたが、まだ半分も来ていない。お城まで400メートル。
紅葉は期待していなかったが、色づいていた。
やっと、到着。江戸時代の城侍は、毎日ここを”通勤”したわけである。
山城を見るたびに、ここへどうやって石を運び上げたのか、気になる。
下に雲が…。雲海の上だったのだ。
代々木八幡宮を参拝する。明治神宮に近いが、小田急線の踏切を越えなくてはならない。
チョットした丘の上にある。
紀元前8000年頃、縄文海進の進んだときには、ここはもちろん海の底だった。4500年前には、海に突き出た岬だった。周辺が潟になっていたので、縄文時代人がここに住んだ。
これが復元された遺跡の住まい。
遺跡を横に見ながら拝殿に向う。
夏越の大祓が近かった。茅の輪が置いてある。
御朱印は朱印紙だが、直筆である。時間がかかった。朱印を見て納得がいった。書道十段級である。
豊川の寺社をお詣りしたあと、豊橋駅に戻る。豊橋駅から豊橋鉄道に乗換え、終点の三河田原駅で下りる。渥美半島の真ん中当たりだね。
豊橋鉄道は、最初は豊橋市の郊外住宅地を走るが、途中から田園地帯を走る。ローカル列車だからこうなる。しかし、終点の三河田原駅はモダンだった。駅前も見事に整備されている。
全然知らなかったが、ここにはトヨタ自動車の工場がある。レクサスやランドクルーザーはこの田原工場で製造されている。田原市は、いわばトヨタの城下町である。財政が豊かなので駅前を整備する資金も捻出できたわけだ。
崋山神社は駅から徒歩で20分ほど。幕末の蘭学者・渡辺崋山を祀る。渡辺崋山が田原藩出身だったとは今まで知らなかった。
渡辺崋山の資料館。
御朱印は資料館の管理人に書いてもらった。
豊川進雄神社を参拝したあと、お隣の徳城寺へ行く。道路で隔てられているだけで、実質的に同一境内にあるようなものだ。
神社と寺院が並んでいるときは、江戸時代以前は同一境内にあったと思って間違いない。明治期の神仏分離で隔てられたものだ。道路を作り隔てる場合もあるし、塀で隔てる場合もある。
ひどい時には寺院を廃寺にし、その後に別の場所に寺院を再建した場合もある。神奈川県丹沢の大山不動がその例である。再建するときは、神社より下の場所にお寺をつくる。
大山の場合は、大山阿夫利神社が上で、大山不動は下にあるね。
ここには弘法大師伝説がある。弘法大師が掘ったという錫杖井戸がある。本堂の裏手だ。
徳城寺の御朱印は時間がかかる。住職さんは高齢で、しかも話しながら書く。20分程度はかかると思った方がいい。
御朱印で確認しておきたいことがある。
「奉拝」の下に絵があるね。最初は梵字かと思ったが見慣れない字である。干支のネズミの絵だと分かったのはしばらくしてから。
「これはネズミですか?」ときくと、そうだとの答え。「あなたは何年?」ときかれ、「酉年」と答えた。
ネズミの絵の下に鶏の絵が描いてあるのは私の干支だから。丁寧にも赤い鶏冠まで書いてある。ネットで見ると、やはりそれぞれ自分の干支の絵を描いてある。
住職さんは岐阜のお寺と兼務しているようなので、御朱印をもらうときは事前に電話しておいた方がいい。
豊川稲荷からの帰りに、参道商店街を通り抜け、豊川進雄(とよかわすさのお)神社を参拝する。
この神社名、なんと読むのか分からなかった。スサノオと読む。もちろん祭神は、スサノオノミコトである。普通は、素戔嗚尊や須佐之男命と表す。「進雄」という字を当てることもあると初めて知った。
神社は、鎮守の森を探せばいい。木が生い茂っているところに神社あり。
氏子さんたちが境内を清掃していた。
三河一宮の砥鹿神社を参拝したあと、飯田線で豊橋行きの電車に乗り、次の豊川駅で下りる。豊川稲荷へは駅から7分ほど歩く。
豊川稲荷は、伏見稲荷大社、笠間稲荷神社とともに日本三大稲荷の一つに数えられている。
ただ、豊川稲荷は神社ではなく、寺院である。曹洞宗のお寺である。豊川閣妙厳寺という。もともとは、境内に鎮守として稲荷を祀っていたが、稲荷の方が有名になってしまった。
お寺の境内の中に鳥居がある。
稲荷特有の赤い鳥居はここにはない。
なんと唱えればいいのか。右側の「南無豊川陀枳尼真天」(なむとよかわだきにしんてん)と唱えた。左側の真言の方は難しい。「おんしらばったにりうんそわか」と読む。
豊川稲荷の境内は広い。時間がかかるので、今回は省略した。
御朱印は「豊川陀枳尼真天」と書いてある。読めない人が多いため、付箋で読み方が書いてあった。ここは何種類かあるが、全部書き置きである。
飽波神社を参拝したあと、藤枝駅に戻り、東海道線で焼津駅に移動する。
焼津(やいず)神社は、駅から徒歩で12分ほど。
焼津という地名は日本武尊伝説に由来する。この地の逆賊が原野に火を放ち、尊を焼き殺そうとした。尊は天叢雲の剣で周囲の草をことごとく打ち払ったという。
もちろん、日本武尊の像がある。
社殿。
参集殿を工事中だった。出来上がる寸前で、大祓には間に合うようだ。
横浜橋商店街の裏手にある金刀比羅大鷲神社を参拝後、横浜橋商店街を通り抜け、道路を横断すると、三吉演芸場がある。旅芝居(ドサ回り)を見ることができる。
コロナでどうかと思ったけれど、興行していたね。一日2回興行である。
目の前が中村川で、三𠮷橋を渡り、まっすぐ行くと、交番がある。交番の左背後奥に中村八幡宮が鎮座する。知らないで行くと、見つけにくい。
背後は崖地で防壁はあるが、少し恐い。
社殿は素朴なもの。
御朱印は、書き置きだった。
第33番札所の法昌寺は、東急こどもの国線・こどもの国駅から歩く。結願である。
現在地に移転したのだが、移転先が緑山霊園内で、これには気が抜けた。最後のお詣りは他の寺にした方がいい。
こどもの国駅から歩く。
お寺というより、霊園内の合掌堂というべきだろう。
これで小机領三十三観音霊場めぐりを終えた。2020年はコロナ禍ですぐに打ち切りになってしまった。次は、12年後の子年。2032年である。
秩父十三仏めぐり、後半は2月24日だった。
この日は、秩父でも奥地になる荒川村、小鹿野町の札所をまわった。
まず荒川村の阿弥陀寺を参詣する。電車なら、秩父鉄道の終点・三峰口駅でおりる。1.3キロの距離である。
秩父でも奥地になる。