令和元年、最後のお参りは、甲斐國一宮・浅間(あさま)神社だった。
浅間神社は、通常、「せんげんじんじゃ」と読むが、この甲斐國一宮の場合は、「あさまじんじゃ」と読む。
バイパス道路に大きな鳥居が立っている。
ここから5分ほど歩く。
随神門。
社殿。
境内。
<御朱印>
これが令和元年最後の御朱印である。今年は、平成から令和へと年号が変わり、御朱印集めに熱が入った。御朱印集めは楽しい。
令和元年、最後のお参りは、甲斐國一宮・浅間(あさま)神社だった。
浅間神社は、通常、「せんげんじんじゃ」と読むが、この甲斐國一宮の場合は、「あさまじんじゃ」と読む。
バイパス道路に大きな鳥居が立っている。
ここから5分ほど歩く。
随神門。
社殿。
境内。
<御朱印>
これが令和元年最後の御朱印である。今年は、平成から令和へと年号が変わり、御朱印集めに熱が入った。御朱印集めは楽しい。
12月30日。大晦日にはお参りしないので、令和元年最後のお参りである。
甲斐善光寺へ行く。中央道は気が抜けるほど空いていた。覚悟していた渋滞がなかった。
山門。重文に指定されている。
参道。
金堂。重文指定。東日本最大級の伽藍である。
庭園の池の水が青い。
<御朱印> 「善光寺如来」である。
智積院から新日吉神宮へ。智積院の裏にある。なお、新日吉神宮の背後は京都女子大学である。
読み方。新日吉神宮の”新”は「いま」、”日吉”は「ひえ」である。従って、「いまひえ」神宮と読む。「しんひよし」ではない。
<御朱印>5種類ある。前の女性が5種類全部書いてくださいと頼んだので、待ち時間が長かった。私は一つだけ。朱印所の前にベンチがあるので、座って待っていられる。
法住寺を出たあと、智積院へ。徒歩で5分。
真言宗智山派の総本山である。
真言宗智山派は、関東ではお馴染みである。川崎大師、成田山新勝寺、高尾山薬王院と初詣の人気寺は智山派である。高幡不動も智山派だね。
正式には五百仏山(いおぶつさん)根来寺智積院という。もともとは根来寺の学問所だった。根来寺が豊臣秀吉の攻撃で焼失したあと、高野山、京都と場所を移した。
現在智積院があるところは、徳川家康が寄進したものだ。
本堂。
根来寺との関係がどうなっているのか知らないが、今年の秋に根来寺を参詣したとき、川崎大師、成田山新勝寺、高尾山薬王院の名前で3000万円寄進していたね。奉納の石碑を見たのだ。やはり、根来寺がルーツだからだろう。
真言宗十八本山巡拝という霊場があるが、智積院も根来寺も札所に入っている。対等の関係なのだろう。
紅葉はほぼ終わっていた。残っていたのは、これだけ。
智積院には名勝庭園がある。ここは拝観料をとる。
実は、ここを訪れるのは二度目。十五年ぐらい前かな、ここを見学したことがある。突然ゲリラ豪雨に見舞われて、廊下に座り込んで、呆然としてこの庭を見たものだ。月日の経つのは早い。
当時のことを思い出した。当時は京都中を夢中になって歩いたものだ。なぜあんなに熱中したのか、今となっては分りかねる。
年月が経ち、私の体力も気力も衰えた。それだけはハッキリしている。茫然と廊下に座り込んで庭園を見ていたから、へんな爺だと思われたかもしれない。
<御朱印>
三十三間堂をお参りした後、法住寺を参詣。三十三間堂の向かいにある。養源院に隣接する。
夏に養源院を見学したとき、隣にヘンな寺があるな、と思った。好奇心からお参りした。
ヘンな寺と思ったのは、身代わり不動尊という大きな幟が立っていたからだ。
こういうお寺は、習俗的で、いろいろな御利益を並べて参詣者を集める。
義士会法要という立て看が目に付いた。いよいよ気になる。
境内はスッキリしていた。これは意外だったね。
本堂。
本堂の中は、いろいろな御利益品を並べ立てていた。
住職さんは老婦人との相談の最中だった。御朱印は3種類だった。「身代わり不動」の御朱印を頼んだ。
住職さんがどういう相談をするか、きく時間があった。きいていると、相談慣れしているというのか、脅し、なだめ、安心させと、応対の方法を熟知していると感じだ。
<御朱印>「身代わり不動尊」であるが、芸術的すぎて読みにくい。老婦人と応対している間に、一筆書きのようにサラサラと書いたものである。
12月9日。奈良から京都へ移動。昼前に京都駅に着く。京都も閑散期に入り、駅のレストランも空いていた。
新幹線で戻ると、家に夕方前に着いてしまう。これでは早すぎる。カフェで休むことも考えたが、気になっていた京都のお寺を回ることにした。
バスで三十三間堂前まで乗る。春に養源院をお参りしたが、三十三間堂はお参りしなかった。1001体の観音像を見たかったのだ。
三十三間堂は、正式には蓮華王院という。
お堂は一部修復中だった。
お堂は長い。120メートルある。正面の柱間が33あるところから三十三間堂と呼ばれている。
1月中旬の通し矢が有名だ。
<御朱印> 「大悲殿」である。
御朱印後に挟んであった紙にローマ字と英語の説明があった。外国人観光客に人気のスポットだからだろう。
大悲殿を英訳すると、”GREAT BENEVOLENCE PALACE”という。
12月9日。宿泊した奈良市内からJR関西本線(大和路線)で三郷駅へ。徒歩10分で、龍田大社に至る。
紅葉はほぼ終わっていた。残っていたのは、これだけ。
歩いている内に急に体が重くなった。最近よくあることだ。昨日の疲れが出たらしい。あるいは、風邪か。
<御朱印>
奈良の寺社巡りは中止し、京都駅に戻ることにした。
東大寺三月堂から夕方の奈良公園を歩く。
初冬の景色だ。ヒンヤリして、昔はこういう景色が好きだった。今では、寒さがこたえる。
東大寺の中門。大仏殿には入らなかった。
鏡池。
南大門。
南大門には、運慶・快慶作の木造金剛力士像がある。
夕闇が迫る。修学旅行生も集合していた。
まだ餌を欲しがる鹿がうろついていた。
手向山八幡宮の近くに、東大寺の二月堂、三月堂、四月堂がある。ほぼ同一境内と云ってもいいほどだ。
東大寺二月堂は春にお参りしたので省略。四月堂は16時閉門で、これはお参りできなかった。結局、三月堂(法華堂)をお参りした。
三月堂は、天平時代の建物に鎌倉時代の建物を継ぎ足した形をしている。横から見ると、屋根が違うのが分かる。
カエデの紅葉をまだ見ることができた。
<御朱印> 何種類があり、「法華」を頼んだ。これも芸術的で読みにくい。というか、全然読めない。
斑鳩の寺社をめぐり、JR大和路線で奈良駅へ。まだ15時半で、ホテルにチェックインするには早すぎる。
バスで奈良公園へ向った。春に奈良公園周辺の寺社をまわっていたので、まだまわっていない手向山(たむけやま)八幡宮へ行く。
奈良公園は中国語しか聞こえなかった。
手向山八幡宮は、東大寺建立の時、東大寺守護のため、宇佐八幡宮を勧請して創建された。
東大寺の先に手向山神社(八幡宮)の大きな鳥居がある。だいぶ汚れている。
ここから坂道を上がる。
神社の鳥居が眼に入るが、ここを通ると、神社の横から入る形になる。
この鳥居の右の道を歩くと、楼門がある。こちらから入るのが正しい。
社殿。
<御朱印> 芸術的すぎて一目では、何と書いてあるか分からない。もちろん、「手向山八幡宮」と書いてあるのだが、どれがどの字になるのか、解読しなければならない。「向、八、宮」が左右に大きく飛び出ている。
龍田神社を参拝したあと、吉田寺(きちでんじ)へ向う。ポックリ往生の寺として知られている。
本堂。ここに丈六阿弥陀仏像が置かれている。御朱印も本堂で。
多宝塔。
<御朱印>
吉田寺を参拝後、待たせてあったタクシーで法隆寺駅へ向う。宿泊予定は奈良駅前のホテルである。
法輪寺を参拝したあと、本来なら、法隆寺に立ち寄るべきだが、去年の春、今年の春と二度訪れている。また時間もかかるので、今回は寄らないことにした。
法隆寺の先に龍田神社がある。法隆寺守護のため、龍田大社から勧請して創建された神社である。龍田神社を参拝する。
社殿は耐火建築である。
正月が近いので、新しい注連縄を作っていた。専門の業者ではなく、氏子さんが作業をしていた。
<御朱印>
松尾寺参詣のあと、斑鳩の法起寺をお参りする。
国宝の三重塔が名高い。日本最古の三重塔である。
しかし、それ以外は……閑散として、寺院には見えない。低い塀の向こうは田畑である。コスモスが咲くと、見応えのある景色になるようである。
国宝にして日本最古の三重塔。
聖天堂。
講堂。
<御朱印>
御朱印をもらった管理棟は、軒が一部崩れ落ちていた。修繕できないのかね。
矢田坐久志玉比古神社を参拝したあと、待たせてあったタクシーに乗り、斑鳩(いかるが)に向う。斑鳩はいつも法隆寺と中宮寺で終わるので、斑鳩三塔の残りの法起寺、法輪寺を訪れることにした。
斑鳩へ行く途中、厄除観音・松尾寺の立て看板を見る。厄除けに魅せられて、松尾寺を参詣することにした。
立て看板はバス停にあった。そこから延々と山道を走った。バス停から徒歩だと30分はかかる。車がないと、お参りしにくい山寺である。
本尊は、厄除観世音である。
この程度の階段なら、まぁナンとか上がれる。
境内。
本堂。
三重塔。
<御朱印>