第11番札所の圓乗寺を参詣後、旧白山通りを渡り、第23番札所の大圓寺に至る。近接しているが、札所番号は大きく飛んでいる。
表通りに面していないのでやや迷う。赤い門が目立つ。
本堂の前に満蒙上海の殉国将兵の碑があった。今や昔の感を覚える。
江戸三十三観音めぐり、地下鉄三田線の白山駅周辺の札所をまわる。南北線の本駒込駅を利用してもいい。周辺に5つの札所がある。
まず訪れたのが第11番の圓乗寺である。白山通りと旧白山通りの間にあるが、通りに面していないので見つけにくい。
私の持っているガイドブックは古いもので、本堂は木造の古色蒼然たるものが載っている。
しかし、今では近代的なビルになっている。東京のお寺はこういうものを見かけることがある。新しい御堂を建てるには、東京都から耐火建築を求められる。ならば、現代的なビルにしようという住職さんがいてもおかしくない。
入口。
何も知らなかったのでお寺の御堂を探した。
これが圓乗寺である。
入口。左が寺務所だが事務所のように見えた。
観音様は入口の正面に置かれていた。事務員の女性が3人いて、そのうちの1人に御朱印を書いてもらった。
圓乗寺は八百屋お七の墓があることで名高い。入口の向かいにある。
吉野山の寺社巡りの最後は、吉野のシンボルとも云うべき金峯山寺蔵王堂だった。
巨大な木造建築物である。
国宝の仁王門は修復工事中だった。
蔵王堂から下り、銅鳥居まで行く。吉野山の入口という意味もあるのだろう。
役行者堂がある。
ここで吉野山めぐりを終える。
勝手神社から5分ほど歩き、吉水神社を参拝する。御朱印にあるように南朝の皇居だったところだ。皇居と云っても狭い。
明治以前は吉水院とされ、神仏分離以後、後醍醐神社となった。後醍醐天皇を祀る吉野神宮が明治期に創建されたため、吉水神社となった。
書院を見学。
庭に豊臣秀吉が吉野山の花見をしたときの本陣跡の石碑がある。
ここから見る吉野の桜が素晴らしいようだ。
竹林院から勝手神社に移動する。
ところが勝手神社は焼失してしまっていた。再建予定はあるが、いつ再建されるのか…。
草茫々の社殿跡を見て、呆然とした。
勝手神社は焼失してしまったので御朱印がないと思った。誰でもそう考えるだろう。
ところが吉水神社でもらえる。吉水神社で御朱印は二つ書くと云われて、何が何だか分からず、そうして下さいと答えた。朱印を待つ間、書院を見学した。手渡された朱印帳を見ると吉水神社と勝手神社の御朱印だった。
社殿のない草茫々の神社の御朱印を貰うのは初めてだ。こういうこともあるんだな。
吉水神社の兼務社なのだろう。御朱印代は再建費用となると思う。
如意輪寺からタクシーで竹林院へ移動する。ここからは蔵王堂までは店が建ち並んでいる。
竹林院。右側が旅館になっていて、御朱印は旅館の受付でもらった。
左手の小さな門が郡芳園の入口である。
千利休が作庭し、細川幽斎が改修したとされている。
階段があったので登る。
吉野水分神社からタクシーで山を下り、如意輪寺に至る。如意輪寺は吉野の本道から谷一つ隔てたところにある。徒歩だと上り下りしなければならないので、タクシーで回ったのだ。
如意輪寺で見逃せないのは蔵王権現像である。宝物館に収納されている。
宝物館の手前に後醍醐天皇御霊殿がある。
背後の丘の上に多宝塔あり。
後醍醐天皇の塔尾陵が隣接している。ここは宮内庁の管理である。
御陵から如意輪寺の境内を見る。
金峯神社を参拝後、吉野水分(よしのみくまり)神社を参拝する。これも読みにくい神社名である。「みくまり」が訛って「みこもり」となり、子守明神と呼ばれていた。
御朱印に書いてある「子守宮」はそこから来ている。
吉野山のマップを見ればわかるが、寺社やお店が並んでいるのは竹林院から下の部分である。金峯神社とこの吉野水分神社は孤立している。吉野水分神社へは、待たせてあったタクシーで行った。
本殿は三社を一棟に連ねている
御朱印は、帳面が置いてあって郵送先を記入する。御朱印代は金銭箱に入れるので小銭を用意しておかなければならない。14日に記帳して、16日に郵便で送られてきた。
吉野山の観光マップを見ると、寺社としてはこの金峯(きんぷ)神社が一番奥にある。
時間も体力もないのでタクシーで吉野山を上がった。いわゆる奥千本に鎮座する神社で、地主神の金山昆古命を祀る。
普段は無人の神社である。御朱印は書き置きがある。日付が入っているのが嬉しいが、12日、13日、14日と3日分の日付入りの書き置きが置いてあった。3日ごとに来るのだろう。
神社の付近は廃屋が目立ち、かなり荒廃がすすんでいる。奥千本まで来る人は少ないのだろう。
2020年10月14日。吉野山の主な寺社を一巡りする。
まず吉野神宮をお詣りする。吉野神宮駅から1キロほど距離に鎮座する。1892年に創建された神社で、国家神道の神社である。
祭神は、後醍醐天皇である。もともとは現在の吉水神社が後醍醐天皇を祀る神社だった。
大神神社の荒玉を祀る狭衣神社から久延彦(くえひこ)神社へと移動する。
祭神は、久延毘古命(くえびこのみこと)で、「山田の曽富騰(そほど)」と云われている。童謡の「山田の案山子」はこの神様のことを謡ったものである。由緒書を読んで、ヘェーそうだったのかと思った次第。
展望台があった。
大神(おおみわ)神社を参拝後、摂社の狭衣(さい)神社へ歩く。大神神社の御朱印所で「狭衣神社も御朱印が貰えます」と掲示してあったからである。
御朱印の印判を見ても分かるとおり、ここは大神神社の荒魂社である。
鳥居がある。
拝殿の裏でご神水を飲める。コロナの時節柄、恐いところもあったね。