紅葉を見に、殿ヶ谷戸公園へ出かける。国分寺駅前にある公園である。
国分寺崖線を利用して、大正時代初期に満鉄副総裁だった江口定篠によってつくられた。その後、三菱財閥の岩崎家の別邸となり、1974年に東京都が買収した。
入口から入ると、芝生広場が拡がる。
芝生広場は崖線の上にあり、ここから下におりる。
下に次郎弁天池がある。
ポ~ン、ポ~ンと音がする。鹿おどしがあった。
国分寺崖線は地下水が豊富で、湧水として流れ出る。ハケと呼ばれる。次郎弁天池もハケを溜めたもの。
もみじまつりを開催中の高幡不動尊を訪れる。高幡不動尊の公式の寺名は金剛寺である。京王線の高幡不動駅でおりる。
仁王門。
不動堂。
奥殿。ここに丈六不動がある。これは迫力があるので見逃せない。
お詣りはここまで。目当ては紅葉だったから。
奥にある大日堂へ行く。ここから紅葉に染められた丘を上がる。
鐘楼へと歩いた。
五重塔を見る。
鐘楼で、黄色、橙色、赤色に染まった紅葉を見る。珍しいので見惚れている人がいた。
なお丘を上がる。
五重塔へと下りる。
五重塔から見る。
五重塔の横に土方歳三の像がある。地元である。
その奥に弁天堂がある。
浄土式庭園で有名な称名寺を参拝する。京急本線・金沢文庫駅から900メートルほど歩く。イチョウの黄葉とモミジの紅葉が素晴らしいが、両方一時に見頃になることはない。イチョウに期待して出かけた。
桜並木は完全に落葉していた。
仁王門。ここは通ることができない。左側から境内に入る。
予想通り、イチョウの黄葉が真っ盛りだった。
紅葉はまだ。来週だろう。
太鼓橋を渡る。
イチョウはもうすぐ終わる。落葉している木もあった。危うくセーフという所。
本堂。本尊は弥勒菩薩である。13世紀中頃に北条実時が創建した。
浄土式庭園を一巡する。ここは1323年に描かれた称名寺絵図が残されており、詳細が分かっていた。昭和59年から62年にわたり、復元整備されたものである。
鬼子母神像の御開帳が行われている立源寺をお詣りする。
東急東横線・自由が丘駅でおりる。
自由が丘は再開発される。駅前の一誠堂は閉店売りつくしセールが行われている。一誠堂には思い出がある。初めて眼鏡を買ったのがこの店だった。
自由が丘の再開発は3ヵ所で行われるが、一誠堂のある一画がもっとも早く工事されるようである。
自由が丘が再開発されるのは商圏としての地盤が沈下しているからだ。近くに二子玉川駅、武蔵小杉駅、中目黒駅と商圏ゾーンとして発展している地区があり、自由が丘駅周辺は押され気味である。そこで再開発ということになった。一誠堂のある地区は50メートルほどの高層ビルが建つらしい。上層階がマンションで、下層階に店舗が入る。
自由が丘駅は熊野神社を参拝する以外は、もうおりることもなくなった。右に自由が丘デパートがある。こちらは、再開発外である。昔のマーケットと同じで、小さな店がギッシリと中に入っている。
高級洋菓子店のモンブラン前を通る。子供の頃は親に連れられて、たまに来たことがある。今でも立派な店だが、ここも再開発される。年内はここで営業する。来年からは仮店舗で約4年間営業するらしい。もっとも通販で買う人の方が多くなると思う。4年後に本店舗に戻るわけだが、4年後では、自分は新しい店を見ることもできそうもない。寂しいことだが…。
モンブランを通り過ぎ、坂道を上り、踏切を渡る。立源寺は近くである。
御開帳されている鬼子母神像を見る。今年の夏、函館の妙心寺で、ものすごい形相の鬼子母神像を見たが、ここは穏やかな像だった。地蔵菩薩と間違えそうなものだった。
鬼子母神は、「鬼」を強調するか、「母」を強調するかで、イメージが異なるようである。
等々力不動尊から下り、等々力渓谷を歩く。渓谷を歩く前に、不動尊の展望台から1本、紅葉に染まっている木が見えたので、そちらへ行く。
等々力渓谷へ歩く。等々力不動尊に上がる橋がある。この真上に等々力不動尊がある。
等々力渓谷を歩く。等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケと呼ばれている。)の最南端に位置する。東京都区部にある唯一の渓谷で、都の名勝に指定されている。
深さは10メートル。両側は、普通の住宅地で、住宅地の中に渓谷があるというのが珍しい。
赤いゴルフ橋が見える。ここが終点である。
ゴルフ橋から等々力渓谷を見る。
等々力不動尊(明王院)を参拝する。もっとも主目的は等々力渓谷を歩くことだった。
東急大井町線・等々力駅でおり、10分ほど歩くと、等々力不動尊に到着する。
山門は小さい。落葉が多く、秋の気配が濃厚である。
本堂は菊で飾られていた。菊花展が開かれていたが、規模は大きくなかった。
等々力渓谷の真上に建てられたお寺だが、理由は、不動尊の背後で水が流れ出て、滝を形成しているからである。不動信仰と滝は深い関連がある。
滝と云えるかなぁと思うぐらいの水量だが、音は大きい。等々力という地名はは「轟き」から来ている。この滝の音が轟くことに由来する。
お寺に戻り、展望台へ行く。
イチョウは色づき始めていた。
展望台から紅葉を見たが、まだ染まり始め。今月下旬から12月上旬が見頃になりそうだ。
麻布十番駅で下り、麻布十番稲荷神社を参拝する。二ノ酉だった。ここは御朱印を貰うと、酉の市の熊手をデザインしたカードを貰える。財布のカードケースに入れておけるので便利だ。
麻布十番稲荷神社は小さな神社でビルの谷間に埋もれてしまっているが、境内地を貸してしまっている可能性があるので、なんとも言えない。
深川不動堂を参詣後、永代寺をお詣りする。江戸六地蔵の一つである。深川不動堂から永代通りに向う通りある。
江戸六地蔵とは、江戸に入る各街道の入口に造立された青銅製の地蔵座像である。品川寺(東海道)、山谷東禅寺(奥州・日光街道)、四ッ谷太宗寺(甲州街道)、巣鴨真性寺(中山道)、深川霊巌寺(水戸街道)、深川永代寺(千葉街道)をいう。
しかし、永代寺については問題がある。明治の神仏分離期に消滅したからである。永代寺はもともとは富岡八幡宮の別当寺だった。六地蔵の地蔵座像は、今の富岡八幡宮の鳥居の前にあったという。
神仏分離で、永代寺の住職は、僧侶を辞め、富岡八幡宮の宮司になり、永代寺は廃寺となった。
永代寺の境内は広く、今の深川公園はもとは永代寺の敷地だった。そこに深川不動堂が建てられたのだ。
永代寺はなくなったが、その名を惜しむ声が多く、もともとは吉祥寺という名の寺院を永代寺とした。これが現在の永代寺である。名を受け継いだことになる。
これで江戸六地蔵と云えるのかどうか、疑問があるが、巣鴨の真性寺で江戸六地蔵のご朱印を見たことがあり、そこに、この永代寺のご朱印があったから、江戸六地蔵を受け継いでいると認められているのだろう。
富岡八幡宮の境内社・大鳥神社を参拝後、深川不動堂へ向う。一本道で近い。
深川不動堂は、成田山東京別院で、成田信仰の寺院である。個人的には色々な思い出が詰まっているが、それは省略する。
深川不動堂の始まりは、1703年に成田山不動像が江戸に出開帳した時とされる。富岡八幡宮の別当寺だった永代寺(江戸六地蔵の一つ)で出開帳が行われ、その後もしばしば行われた。
明治になり、神仏分離で、永代寺が消滅したため、成田信仰の信者が深川不動堂を創建した。完成は1881年である。
酉の市だったので、境内で熊手も販売していた。本堂前に熊手が置いてあった。
ご朱印は11月限定版。紙ではなく、プラに印刷してある。
富岡八幡宮境内に大鳥神社がある。普段は無人だが、この日は(11月16日)は二の酉で神職さんの応対があった。
大鳥神社は、八幡宮の社殿の左奥にある。
三つの社が並んでいる。大鳥神社は一番右側。
大鳥神社から深川不動堂へ向う。振り返れば、八幡宮のイチョウが見え、色付いて美しかった。
深川に鎮座する富岡八幡宮を参拝。東京十社のひとつである。11月16日は二の酉だった。
旧御府内(江戸)でもっとも大きな八幡神社だった。東京都内でもっとも大きな八幡宮は大宮八幡宮だが、杉並区にあり、江戸時代は府外だった。
富岡八幡宮は深川八幡と呼ばれている。
境内社に大鳥神社があり、この日は二の酉だった。
豪勢な社殿だ。
(経堂)天祖神社を参拝する。経堂というが、小田急線の経堂駅と千歳船橋駅の中間に位置する神社である。千歳船橋駅から歩いた。
戦後の写真を見ると、田畑の中に天祖神社の鎮守の森があったことが分かる。今では住宅地である。創建は1507年ということになっている。
森閑とした神社で、無人のように思えたが、呼び鈴を押すと、すぐに神社の人が応対してくれた。
秩父観音霊場14番札所の今宮坊から今宮神社へと歩く。100メートルほど離れていることから考えて、今宮坊は広大な敷地を持っていたことが分かる。約20万坪程あったという。
入口の樹木の祠に観音像が置かれている。神仏習合時代の名残である。
ここに龍神池がある。武甲山の伏流水がここに流れ出ており、霊泉として信仰の対象になった。修験道の創始者・役小角がここに八大龍王を祀った。
1535年に疫病退散のため、京都の今宮神社から素戔嗚尊を勧請した。京都の今宮神社には、疫社がある。コロナ以前にお詣りしたせいか、気にしなかったことを覚えている。現在、ここが今宮神社と呼ばれるのはそのためである。
手水場。最近の手水場は華やかになっている。時代が変った。
拝殿。茅の輪があった。
横に小さな茅の輪があった。これはペット専用の茅の輪である。初めて見た。
祭神は、イザナギノミコトとイザナミノミコトに加え、須佐之男命と八大龍王神である。
ご朱印は役小角のものを求めた。
秩父観音霊場第13番札所の慈眼寺から徒歩10分で、今宮坊に至る。第14番札所である。
かって秩父は修験が盛んだったが、その修験道場の大宗として、今宮坊があった。明治時代になり、修験が廃止された。その今宮坊の中の観音堂が遺った。これが現在の14番札所の今宮坊である。
門がなく、柵があるだけ。シンプルな造りである。