竈山神社を参拝後、喜志川線で竈山駅から日前宮駅まで乗車。日前宮駅前に日前神宮・國懸神宮が鎮座する。
読み方が難しい。駅名の日前宮は「にちぜんぐう」だが、神社名の日前神宮は「ひのくまじんぐう」である。國懸神宮は、「くにかもすじんぐう」である。
由緒は古く、天岩戸伝説に発する。天照大神が天岩戸にお隠れになったとき、誘い出すために造られたのが八咫鏡、日像鏡、日矛鏡である。八咫鏡は伊勢神宮が奉祀している。そして、日像鏡(日前大神)は日前神宮が、日矛鏡(國懸大神)は國懸神宮が奉祀している。
ということで、神話に起源を持つお宮である。
神宮は二つだが、境内は一つである。
駅前とは云え、深い森を形成している。喜志川線の日前宮駅前だが、和歌山駅からも500メートルしか離れていない。徒歩でお参りできる。
左に日前神宮がある。
右に國懸神宮。帰宅して写真を見ても、どちらがどちらだか、分かりかねる。樹木の位置関係で判断できるのだが、
伊太祁曽神社を参拝したあと、再び和歌山電鐵・喜志川線に乗車し、竈山駅で下車する。ここに竈山(かまやま)神社が鎮座する。
当初の予定は、紀伊國一之宮の伊太祁曽神社と同じく紀伊國一之宮の日前神宮・大懸神宮を巡る予定だった。
ところが、喜志川線・和歌山駅に三社巡りのパンフレットが置いてあり、上記の二つの一之宮の他に竈山神社が記載されていた。ということで、予定を変更し、竈山神社を参拝することにした。
竈山駅前に鳥居が立っていた。
ここからかなり歩き、結局15分ほどかかった。
竈山神社の手前に彦五瀬命(ひこいつせのみこと)の御墓がある。神武天皇の兄で、この地で亡くなった。この御墓は宮内庁の管理である。宮内庁の管理となると、厳かな気になった。近寄りがたい雰囲気があり、御墓には近づかなかった。道路から見ただけである。
彦五瀬命の御墓を通り過ぎ、竈山神社へ向う。御墓と隣り合わせに鎮座している。竈山神社の祭神は、彦五瀬命である。
随神門。重厚な建物である。所在地が鄙びた所で、こういうものを建てるのかとギャップを感じたものだ。
拝殿。非常の重みのある社殿である。仕事柄、すぐこういうものを建てる資金はどこから出たのかと気になった。竈山神社は、戦前は官幣大社に列せられていた。神武天皇の兄を祀っていたからだろう。
社殿の建設には、国費が投入されたという。
拝殿ばかりではなく、弊殿、本殿と茅葺きの素晴らしいもので、戦前は国防の神として篤く敬われたことが窺える。
意外な所で、意外な神社を見つけた気がした。
神武天皇は、4人兄弟だった。長兄が五瀬命で、神武天皇は末弟だった。東征の途中、大阪の淀川べりで、敵の襲撃を受け、五瀬命は深手を負ってしまう。淀川べりから、南へ下り、紀ノ川の河口までやって来たとき、五瀬命は息を引き取る。五瀬命の御陵がこの地にある所以である。
このことを考えると、もし五瀬命が存命していたら、長兄でもあるし、初代天皇は五瀬命になっていたのではないだろうか。
紀伊國一之宮・伊太祁曽(いたきそ)神社を参拝する。
新横浜駅8時18分のひかり号に乗車し、新大阪駅で特急くろしお号に乗換えて、和歌山駅に到着したのが12時15分。4時間かかったことになる。和歌山は遠い。
和歌山駅で、和歌山電鐵・喜志川線に乗換え、19分で伊太祁曽駅に着いた。神社は駅前にあり、徒歩で5分ほど。
神社は道の右側にある。
鳥居を過ぎると、両側が池になっていて、太鼓橋がある。
拝殿。古社らしい雰囲気である。祭神は、五十猛命。木の神様である。紀伊國は木の國から転じたという。
側面から太鼓橋を見た。
犬山駅から名鉄犬山線で名古屋駅に戻る。ここで地下鉄東山線に乗換え、中村公園駅で下りる。豊国神社を参拝しようというのである。
駅にこんなポスターが。
三番出口から外に出る。大きな鳥居の下だった。これは強烈な印象だ。建てられたのは、1930年。当時は、日本最大の鳥居だった。
通りの反対側に渡り、全体を見る。
鳥居の下を中村公園へ向う。正面が豊国神社である。
社殿は案外と小さい。授与所は左側に隠れている。創建は、1886年。(明治18年)
豊国神社は、京都と大阪のものが有名だが、ここは豊臣秀吉生誕の地に創建されたもので貴重だ。
豊臣秀吉の評価は有為転変というか、時代によって様相が異なる。私が子供の頃は人気ダントツ№1だった。その後、朝鮮半島への出兵のからみで、晩年の耄碌ぶりがクローズアップされ、評価を下げた。
最近では、自分は、戦国時代最大の梟雄だったと思うようになった。浮浪児みたいな子が天下を取ったのだから。
犬山城丸の内に鎮座する三光稲荷神社を出て、隣の針綱(はりつな)神社を参拝する。
延喜式内社で、尾張五社の一つである。
祭神は、尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)という。地場の守護神であるようだ。
太鼓橋がある。重みを感じる。
御朱印は、書道大会に出品したいような出来栄えだ。これ、男の神職さんが書いたものだ。
犬山城丸の内に鎮座する三光稲荷神社の境内社・猿田彦神社を参拝。
猿田彦大神はニニギノミコトが高天原より降臨する際、先導役となった神様である。伊勢神宮内宮の近くにある猿田彦神社がもっとも有名である。
私は境内社や摂社・末社はお参りしないことにしている。その神社の印象が混乱してしまうからである。
ところが、三光稲荷神社の授与所で、御朱印二つ500円と云うことで、ついつい猿田彦神社の御朱印も貰ってしまった。御朱印を貰ってしまった以上、お参りしないわけにはいかない。こういうこともある。
大縣神社参拝後、楽田駅に戻り、再び小牧線で犬山駅まで乗る。犬山駅から犬山城までは徒歩で20分ほどだが、早くもバテがきて、駅から犬山城までタクシーを利用した。
犬山城天守閣の下は、犬山城丸の内だが、ここに二つの神社がある。三光稲荷神社と針綱神社である。
左側の赤い鳥居が三光稲荷神社で、右側の大きな鳥居が針綱神社である。二つの神社の境内は連絡路があり、往来できる。
天守閣との位置関係を考えると、犬山城の守護神として建てられた神社ではないだろうか。
まず三光稲荷神社を参拝した。平日だが、参拝者が多く、賑わっていた。
田県神社参拝後、名鉄小牧線で次の駅・楽田駅に向う。尾張國二宮・大縣神社は楽田駅から1.5キロほどの地に鎮座する。
大縣神社も3月15日に豊年祭が行われるが、田県神社とは無関係という。田県神社が男根なら、こちらは女陰である。
男根はユーモラスな感じがするが、女陰はどうもいけない。見たい人は、ネットで「大縣神社 豊年祭」で検索して見てください。
大縣神社は、延喜式内社で古社である。
田県神社が男の神社なら、大縣神社は女の神社というイメージが起きる。
ただし、大縣神社の祭神は大縣大神で、地場の開拓の神である。
姫宮。女性参拝者が多い。
先日、川崎大師駅近くにある金山神社を参拝したが、この種の神社として有名なのは、小牧市に鎮座する田縣(たがた)神社である。
巨大チ〇ボコの神輿が御旅所から田縣神社へと移動する豊年祭は、天下の奇祭として名高い。
新幹線で新横浜駅から名古屋駅へと移動する。横浜は寒かった。コートも必要だったし、カイロをポケットに入れたぐらいである。しかし名古屋は暑かった。結局、この暑さで疲労が増した。
田縣神社は名鉄小牧線の田県神社前駅の近くにある。しかし、行くまでが大変だ。地下鉄の桜通線で久屋大通駅まで乗り、ここで地下鉄名城線に乗換える。久屋大通駅は重層構造になっていて、階段を上がったり下りたりしている内に迷ってしまった。近くの人に聞くハメになった。
名城線で平安通駅まで行き、ここで小牧線直通の電車に乗換えた。今では直通だが、昔はここでおり、名鉄線まで一駅分歩いたそうである。
田県神社前駅から徒歩で7分ほどで神社に着いた。
拝殿は普通。祭神は御歳神と玉姫命である。玉姫命のもとに夫の建稲種命(たけいなたねのみこと)が御旅所(神明宮・熊野神社)から通うのが豊年祭である。
拝殿は普通で特色がないが、目当て?のチ〇ボコは、拝殿左奥の奥宮に坐している。
賽銭箱の横に一本。触られすぎて皮が剝けている。
今年のチ〇ボコ。毎年新たに造るそうである。2メートルほどの大きさである。
豊年祭は、毎年3月15日に行われるが、今年はコロナ禍で関係者のみで神事を執り行ったという。
御朱印は季節限定のもの。授与所に巫女さんが二人いたが、その後ろの神棚に2本の男根が置いてあったね。サカキ代わりに置いてあるようだ。
御朱印紙は袋に収められて渡されたが、そこにこんな図柄が。
上野の東京文化会館の演奏会に出かける。演奏会の前に上野大仏に立ち寄る。上野公園の桜並木沿いにある。
ツツジ・サツキの季節が始まった。
上野大仏はパゴタ薬師堂の境内の一画に置かれている。
駅のポスターはこれ。
もとの大仏は、関東大震災で頭部が落ちてしまった。その後、太平洋戦争時の金属供出政策により胴体も失われた。
パゴダ。薬師堂になっている。右側が売店・朱印所。
牡丹が咲いていた。
朱印所は行列ができていた。凝った御朱印で、窓口で朱印を書くところを見たが、これは時間がかかる。「釈迦如来」と書いてあるはず(?)だが、そうは読めない。清水観音堂でも受け付けているが、こちらは普通の御朱印のようである。
川崎大師の大報道をお詣りしたあと、左側にある不動堂をお詣りする。
一度境内の外に出て、不動門から入る。不動門は、もともとは山門だったものだ。現在の大山門が建設されたときにこちらに移築した。
不動門からまっすぐに参道がある。いつも、屋台が多い。
不動堂へお詣りする人は少ないのではないか。私も、最初は無視していた。ここは関東三十六不動霊場の札所で、不動霊場を巡るようになってから、必ずお詣りするようになった。
川崎大師境内には他に、インド風の建物の薬師殿があるが、こちらはお詣りしない。
川崎大師をお詣りし、厄除けは出来たと思う。これから遠出するつもりだが、体力が保つかどうか不安だ。
若宮八幡宮を参拝後、川崎大師へ向う。電柱の案内板によれば、220メートルの距離で、近い。もっとも川崎大師の裏門というか西解脱門から境内に入ることになる。
一度、大山門まで行きました。
来年は弘法大師生誕1250年である。早くも案内で出ていた。
正月はごった返す境内だが、静かだった。大本堂では護摩祈祷が行われていた。
昔、仕事で悩んだときに休日ごとにお詣りしたことを思い出す。早朝の護摩に参加したのだから、ストレスが強かったのだろう。その功徳があったのか、仕事は無事にスルーできた。
先日は、佐野厄除大師をお詣りした。関東三大師のうち、佐野厄除大師、川崎大師をお詣りしたことになる。残るは西新井大師である。
金山神社を参拝したが、金山神社は若宮八幡宮の境内社である。ということで、当然、若宮八幡宮も参拝した。
若宮八幡宮は川崎大師駅に近い。川崎大師駅前の通りに宮川病院があるが、宮川病院の裏手が若宮八幡宮である。
社殿。祭神は仁徳天皇である。普通、八幡神は応神天皇を指す。仁徳天皇は応神天皇の第四子である。八幡神の子なので、若宮八幡という。
若宮八幡宮の境内。左に金山神社の社殿、右に若宮八幡宮の社殿が配置されている。
御朱印は若宮八幡宮、金山神社ともに力作である。時間がかかりました。
女體神社を参拝したが、女の神社である。男の神社というと、川崎大師駅近くにある金山神社を思い浮かべる。ということで、川崎大師駅まで乗り、金山神社を参拝する。
絵馬殿に一つ立っていますね。前に来たときは、外国人観光客が熱心に見詰めていて、なかなか動かなかった。
社殿。風変わりな形である。奉納されたアレが置いてある。女学生に人気で、記念写真を撮っているところを見たことがある。
祭神は、金山比古神と金山比売神である。名称からいっても鉱物資源の神様だろう。鍛冶屋たちが信仰したらしい。社殿は鉄をイメージしたらしい。外側は黒い鉄板で覆われている。
この姿を神輿に乗せて街を練り歩く”かなまら祭り”の行事があるが、今年は4月3日の予定だったところ、コロナ禍で中止になった。境内に張り紙があった。来年に期待しよう。