「むかしむかし、おじいさんとおばあさんが暮らしていました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。・・・・」
子どもに聞かせる昔話にはよく、おじいさんとおばあさんが登場します。これは、人間の潜在意識にあるもので、子どもと年寄りは、どちらも「あの世」に近い存在だからだそうです(梅原猛さんの著作にあったように記憶しています)。
子どもは「あの世」から「この世」に入ってきたばかりだし、年寄りは「この世」から「あの世」にもうすぐ出て行く。どちらも「あの世」に近いし、どちらも「この世」では両端っこ(誕生と死、始まりと終わり)にいる。だから、子どもと年寄りは意識が近く、どこかでつながっている。昔話を聞く子どもには、物語の最初に出てくる年寄りの存在が身近なのです。
冒頭の出だしを読んで、ほのぼのとした光景が浮かび上がってくる・・・だろうか。村上龍氏の『おじいさんは山へ金儲けに』を読むと、この本自体は、昔話をなぞりながら経済や投資の話を、その道の専門家と対談しています。これはこれで、なるほど、と思う内容です。
しかし、冒頭の情景を想い起こすと、けっこうぞっとします。じつに深刻な今の世相がダブって見えてきます。昔話は、大人になってから想い起こすと、たいてい怖い話が多い気がします。以下は、本の内容とは違う、私のイメージです。
昔話も今話も変わらない
まず、おじいさんは何しに山へ行ったのでしょうか。そうです、柴を刈り取りに。何のために? 家のかまどの薪にしようと。・・・いや、「金儲け」のためです。刈った柴を薪として売り、お金に換えて生計を立てるためです。でも、たぶん、枯れ木程度のものばかりで売り物にならず、持ち帰って家のかまどにくべるのでしょう。
おばあさんといえば、当時、クリーニング屋さんがあるとは思えませんし、あったとしても、人里離れた村では商売にならないでしょう。仕方なく、おじいさんと自分の着物を川で洗濯して、少しでも長持ちさせて着ようとします。
そもそも、おじいさんとおばあさんと二人きりなのでしょうか。子どもがいたとしても、町に出て行き、そこで妻子と暮らしているのかもしれません。働いて重い税金(年貢)を納めているのでしょう。あるいは戦(いくさ)に取られて、まさに少子なのかもしれません。年寄りを養う余裕はないのです。おじいさんとおばあさんは、村でひっそりと、一生働いて生きていかなければならないのです。雇用延長など最初から関係ありません。死ぬまで働くのです。病気になったら、・・・病気にもなれないのです。
貯蓄? あったら、さびしい村で暮らしてはいないし、腰が曲がっているのに柴刈りなど、行かないでしょう。この時代(『桃太郎』『竹取物語』などの考証からすると平安から室町の時代か?)、貴族ならいざしらず、庶民に年金制度はありません。今は、国民皆年金の制度がありますが、年金だけでは暮らしていけないとなると、昔話の年寄りとさして変わりません。朽ちかけた、リフォームもできない藁葺きのマイホームだけが頼りです。
さて、では、投資は? 投資や資産運用の概念もなかったでしょう。賭け事はあったかもしれません。株もある意味、博打ですから、そういう意味では共通してるかもしれません。(株式投資はれっきとした資産運用であって、博打ではないという“神聖な”意見があります。私も現代投資理論をかなり勉強しましたが、“神聖視”しすぎです。)
こうしてみると、昔も今も、たいして変わらないものだと思えてきます。
ひとつ違うところは、退職金をもらった多くの「年寄り」(昔話では60歳はれっきとした年寄りです)が、それなりのお金を持っていて、それをどうしていいかわからず、「山」ではなく「金融機関」へ、「柴刈りに」ではなく資産運用の「相談に」行くことでしょうか。
よもや金融機関は騙したりしないでしょうが、「なんとか団体」を名乗る儲け話が後を絶たないのが、今の時代の特徴です。
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