その日の夜は、研修で来ていた東京・木場にあるビルの研修室に全員で泊まることになりました。昼間、生まれてこのかた経験したことのない強くて長い揺れにあい、地震の恐怖を知りました。身の危険を感じ、机の下にもぐろうとしたほどです(0311 14:46)。
しばらくして、ビル内の人間は全員、建物の外に出るよう指示されました。それからも強い揺れがあり、自分たちがいた細長い建物が、しなしなと揺れているのが外からはっきりわかったほどです。2時間ほど外で待機していたのですが、隣のイトーヨーカドーでも客が混乱していて、こちらとは逆に、店の中のほうが安全だから店外へ出ないようにとアナウンスしていました。
近くのロータリーパークの1F広場では大型画面のテレビが映っており、それで地震の規模の大きさを知りました。画面では、仙台沖からまさに陸へと向かって長い白い帯のように津波の先端の波頭が横に連なって、じわじわと、しかし実際は猛烈な速度で恐れる巨大な生き物、いや、人工的な波動ともいえるものが正確な時間を刻んで迫っているのが映し出されていました。
― まるで何かの映画みたいだ。
地球に迫りくる危機を描いたいくつかの映画を思い出していたのです。それが現実に大きな災害をもたらすこととなる直前の映像であるのは間違いないのに、周りの人たちの中で、何か自分が不謹慎な言葉を発したように思えました。確かに、画面が変わると、市街はすでに炎を出して燃えている。この時はまだ、津波が上陸する前だったので、映像は内陸の火災状況だけでした。このあとに襲われた津波被害のほうがはるかに甚大だったのですが、その惨状を知ったのはもっと後でした。
建物内に戻って、インターネットで被害が拡大していくのを追いました。ここ東京で机の下にもぐろうとしたという、そんなレベルではない地震だったのです。みんな携帯電話で連絡を取ろうとしていましたが、メールも電話も通じない、電車も止まり、全線回復の見込みがありません。全員ここに泊まることになりました。家族と携帯で連絡がつながったのは、夜10時過ぎです。
この時点では、被害者の数はネットで公表されているだけではまだ数十人。当然、これは実態が把握できていない数字であって、被害者数がもっと拡大していくのは予測できました。私たちは研修室の椅子を並べてその上に寝ることにしましたが、照明も暖房もトイレも使える。外に出れば、食べ物も飲料もコンビニで手に入る。こんなのは、とても避難のうちに入らない。
同時刻に、東北の被災地には、明かりも暖房も布団もなくなり、そしてもっと悲惨なのは、家も、そして肉親さえも失っていた人たちが何万人もいたということです。東京都心でも、帰宅できない人たちが、直接の被害でないにしろ、寒い夜の中で一夜を過ごそうとしていました。こんな時に、こんなことを思うのはどういうものかとしながらも、自分は運が良かったのかと思うしかありませんでした。
温かいご飯を食べ、炬燵に入りながらテレビを見て、家族と笑いながら夕食時を過ごす。ささやかな、平和で幸せな時間、これは誰しもが受けられるものです。そうしている安堵の時の、まさに一瞬後に、冷たい夜の下に投げ出されたら、それも、家族も、家も、友も、思い出も、財産も、仕事も、愛情もすべて流された孤独と暗闇の場所に突然突き押されていたら・・・。
被災地の人は、それが今、現実なのです。私には、それが考えられないのです。テレビや新聞の報道で見ても聴いても、時が今日までたっても、まだ信じられないのです、これほどひどいことが現実に起きていることが。同じ日本の国土で。大変なことが起きている。いつ、自分たちがそうなっていてもおかしくはない・・・。
1週間たって、東北、北陸、関東、中部を震源として、「中」から「強」弱の地震が続いている。ちょうど、ぽっかり東京を除いて・・・。
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