FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

村上春樹氏の声を聴け ― エルサレム賞受賞

2009-03-04 01:33:51 | 文学・絵画・芸術
村上春樹氏の作品は、ほとんど読んでいません。20代に一度、『風の歌を聴け』を読んだきりです。正直言って、あまり感慨もありませんでした。読んだきっかけも、当時話題になっていたからという程度です。

その後も、村上氏の作品はいくつも話題になり、そのたびに書店で立ち読みするのですが、どの作品も最初の1ページを読みきることができません。おそらく、作品の評価は別として、私には文体そのものが体質的に受け入れられない作家なのだと思っています。この作家とは、たぶん一生縁がないのかも知れないと諦めています。職業として作品論を書く義務があるわけではないので、それはそれでいいと思っています。

ですから、私は村上氏の作品に対して、どうこう言う資格はまったくありませんし、ここで作品について何か書こうというつもりはありません。
その村上春樹氏がイスラエル最高のエルサレム賞を受賞しました。村上氏はこれまでも日本の文学賞や海外のカフカ賞を受賞しており、今の日本でノーベル文学賞に一番近い作家であると言われています。村上氏は、周囲の反対を押し切って、あえて授賞式に出たとスピーチで言っています。イスラエル軍のガザ侵攻に賛同する立場であると誤解される恐れがあるにもかかわらず。

受賞スピーチは、テレビでも放映され、スピーチの英語はわかりやすいものでした。私は、インターネットで翻訳全文を読んでみました。村上氏の生の日本語ではないのですが、ひじょうにわかりやすく、翻訳とはいえ、村上氏の文章をこれだけ長く読んだのは『風の歌を聴け』以来でした。


壁と卵の比喩

スピーチの中で、壁と卵を比喩として、「たとえ壁が正しく、卵が間違っていたとしても、私は卵の側につく」という意味のことを言っていました。私はこれを聞いた時、一瞬ちょっと違和感を覚えました。「たとえ壁が正しくても」、自分は「反対側の間違った卵の立場に立つ」という意味についてです。これはどういうことでしょうか。村上氏の作品は簡単な文章の中に暗喩がよく散りばめられていると言われます。

なぜ、わざわざ間違っていると分かっている側につくのか。これがずっと気になっていました。「壁」は明らかに体制側です。「卵」は民衆側です。確かに、体制と民衆であれば、作家は常に民衆の側につくでしょう。ただ、その卵の立場が間違っていたとしても?

ここには、ずいぶん深い意味が込められているようです。体制は、つねに強い立場にあります。権力です。体制と権力は、たとえ正しい時があったとしても、正しい論理の元に民衆をつぶすことが可能です。まして、間違っていたとしても、権力によって正しい論理であるとして見せ付けるでしょう。卵は弱い。弱いからこそ誤っていることもあろう。その誤りは、弱さそのものであり、人間そのものだからです。体制である「壁」が、もろい人間である「卵」を踏み潰すことはいともたやすい。

弱いから、過ちを犯すから、作家は民衆の側に立つ―。 
村上氏の発言の主旨は、そこにあるのだと思います。作家が公の前で、政治的発言をするのを久しく見ていません。作家は必ずしも政治的、社会的発言をすべきだとは思いませんが、これが作品の影響力ある作家の発言だなと思いました。

最近は石原都知事や田中元長野県知事のように作家が政治家になっているケースもあります。しかし、あれは政治家として発言しているのであって、作家として発言しているのではありません。なぜなら、作家が政治家になったら、それはどんなに正しくても「壁」の側に立つことになるからです。        


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