1984年。
私がもし、あの時もっと追い詰められていたら、佐世保の小6同級生刺殺事件の20年も前に、きっと同級生を殺していたかもしれない。
子どもがそんなことをするはずないと、愚かな大人たちは思うんだよね。
私は明らかに殺意を持っていた。
「あいつら、殺してやる。」
そう気張らないと、怖くて学校に行くことができなかった。本当は学校に行きたくなかった。私にはとても居心地の悪い場所だったから。
「学校に行きたくない」と言っても親は取り合ってくれず、いじめられていると伝えても、先生も全く当てにならなかった。
私の気持ちに寄り添う大人はいなかった。
同級生と一緒にその親までもが私を排除し、バカにした。友達を取られ、孤立させられた。
私は今でも許さない。
もしあの時、私が殺人をおこしていたら、やっぱりノーマークだったと思う。
あの時の大人たちは、私がそこまで追い詰められていたなんて、これっぽっちも思ってなかっただろうから。
中学2年の息子は、小学4年生から6年生まで、ある特定のヤツから嫌がらせを受けていたが、息子の方が精神的に上だったので、全く相手にしなかった。
この違いは何なのか?
自分のことを信じて愛してくれている、いざとなれば味方になってくれる、信頼できる人がいる、と感じられているかどうか、じゃないのかな。
殺人をするか、しないかは。
私の過去の経験と、息子との違いをみると、そう感じる。
息子は不登校だけど、孤立はしていない。私が絶対に守るために闘うと決めているから。
人を憎まず、殺さず、差別したりせず、優しく、強く育った息子の私の育児は、ちょっとは良かったのかな?
なあんて少し自分を褒めたくなった。
どうだ!
そう言う人に育てたぞ!
ちゃんと学校に行っていても、人をバカにして、散々人をおとしいれて、それにたいして恨まれず、殺されないですんだことに、ありがたく思え。