春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

ルーシー・節三・・・静かに待つ

2016-05-19 23:28:06 | 節三・Memo

 

パソコンの容量が大幅に空けることができ、ほっとしているところです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

{なつめろダイアリー} さま記事より

1926年(大正15年)、は驚きです。当時ルーシーさんは太田氏との恋愛になったばかりらしく、御亭主との離婚がまだの状態。米国でのブログ記述には「ルーシーさん1926年初来日」が出てこないのです。また、当時米国の多くの州では「外国人との結婚ができない」ことになっていたため日本で御結婚なさったんだなぁと。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

{toyo0181}
料亭の写真が1926年(大正15年)を指摘されているのかと存じますが、

・・・・・・ルーシーは当時来日した時は、まだ夫とは婚姻関係にありました。

写真は5月ですが、間もなく梅雨の終わり、ルーシーと節三はアメリカへ帰国します。
ルーシーと3番目の主人との婚姻が離婚の手続きで終止符を打つのは
1927年、1月12日です。
この日まで、二人は静かに暮らし、法律に従い1年後1928年1月に入籍します。


排日法実施後、厳しい環境ではあったでしょうが、
2人の婚姻は、アメリカで正式に執り行われています。

この1926年(大正15年)の滞在のエピソードは沢山ありますね。

アメリカでのブログはよく知りませんが、ルーシーは節三がまだ若いころ、
ルーシーの母の影響で、一人訪日しているようです。

参考になりましょうか?

コメント (6)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« パソコンのメンテナンス・つ... | トップ | ずらか・・・ろうか・・・!... »
最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんばんは (なつめろ)
2016-05-20 03:07:08
ルーシーさんは単独でも来日されておられるのですね、存じませんでした。ルーシーさんが来日されたという記述が米国の各ブログ記事では出てこないのは、米国人と外国人の恋愛(或いは結婚)をあまり好意的に考えてない傾向が米国で現在でもあるためではと思われるのです。また、ルーシーさんと恋愛時の太田氏はゴシップ記事が連続で報道され、武道家・太田氏の御人柄が殆ど伝えられてないらしいのです。ルーシーさんはオリンピア競技場で太田氏を見た途端に「一目惚れ」、太田氏の静かな表情のポートレートは神秘的な雰囲気も漂っているようです。
返信する
最新記事を拝見しまして (にいちゃん)
2016-05-21 22:23:01
私のブログに記事を掲載させていただきました(日本語と英語それぞれ)。
返信する
Unknown (なつめろ)
2016-05-24 11:52:54
「林田民子エピソード」が、またブームになっているようです。2014年夏の掲載記事へのアクセスが圧倒的に多く、記事リンク数も1日で100を超えました。

がんばってる人は疲れやすいらしいんですよ。私も疲労を感じやすいほうで、身体のしんどさを吹き飛ばして音楽レクリエーション活動に出ています。外でのキーボード練習中、身体のしんどさで練習がなかなか進まない時もあるんです。音楽は「音を楽しむ」こと。いろんな感動を伝えることができると思うのです。歌も演奏もまだまだな状態ですが、御高齢でいらっしゃる方々が「なつかしい歌」と喜んでくださることは音楽レクリエーションでの大きな励みです。なので、ヴィンヴォな状態でもレク活動を続けています。

日本は国際的に非常に微妙な状態となっているのかもしれません。例えば、米国人の米国に対する愛国心の濃さは他の国々の庶民にはないものかもしれない。それが「その国らしさなのか」と思いがちでも、そうではないのです。米国の庶民方々と、米国政府側の考えは全く異なるものだろうと想像できるのです。だから、戦争を起こそうと考えだす者は最前線には出ず、戦争に出たくない人々が悲しい思いをするのです。私は『リリー・マルレーン』を時々弾いてます。アコーディオンの音で奏でるのです。ドイツの反戦歌で、女優マレーネ・ディートリッヒの愛唱歌だったことでも有名です。

日本の庶民は全国区で名前が知られてなくても、一流の方々がものすごく多いと思うのですよ。こまやかな味をつくり出す「日本人の食生活」は芸術的とも言えるでしょう。Mr.Toyoguchiも、日本の一流な御一人なのですよ。そんな日本人ひとりひとりの知性の高さや教養の深さが、現在の日本を支えているのです。
返信する
Unknown (なつめろ)
2016-05-24 19:08:27
昨日の検索時、開設されたばかりらしいページを見掛けました。そのページに「太田節三の慕情」記事が紹介されています。

fukugen.info/wordpress/blog/2016/05...「林田民子」の話は、実話か?? - 文化財復元・info
というページです。
返信する
Unknown (toyo0181)
2016-05-24 23:01:58
なつめろ さま

情報ありがとうございます。
読みました。

著書の林田さんと著者の接点の疑問は
(51)アクセスが下げ止まりませんのページに
だぶりました。

どうしても林田さんを見つけなければなりませんね。
その後、公表するかどうかは別として!

「夢の中に生きた男たち」は読者に歓喜をもたらしたのですから!
返信する
Unknown (にいちゃん)
2016-05-26 22:26:36
なつめろブログの今日の記事内容に少し書いていますが、一昨年の「林田民子エピソードブーム」はTwitterが中心。今月の「林田エピソードブーム」がFacebookからなのです。林田民子の名前を米国ページで一昨年から検索してますが、エピソードの「林田民子女史」は実在の人物では無い様です。太田節三氏と行動を共にされた時期があるという方ならば、何かの米国ページに手掛かりとなる記述はあるはずなのです。先ず、エピソードでの林田女史は1929年に25歳で渡米となっています。同年ルーシー・バンニング・太田夫人が逝去、太田節三氏は1929年に帰国されてるのでしょうか。1930年太田氏と佐藤千夜子さんが初めて会われたのがロサンゼルスというお話からも、1929年に太田氏と林田女史が渡米の船上で会われてるという書籍内容は疑問に感じられるのです。また、米国ページを検索時林田民子女史と同姓同名と思われる"Tamiko Hayashida"という日本人らしい戦前の米国居住記録を見掛けたのです。ところが、1940年頃に10代では林田女史と年齢的に合わないのです。

商業ベースでしかも実在の人物・太田節三氏が登場されているため、疑問視する人はすごく少なかったのでしょう。それほど、商業ベースでの記述は読者側の信頼度が高いとも言えます。ですが旧い時代の人物が登場する伝記的な書籍では、伝え聞き話を元にして書かれたらしいエピソードもよく見掛けるのです。藤原義江もその一人で、沢田研二氏が舞台で主演された「漂泊者のアリア」の原作本にも伝え聞き話からと思われるエピソードが出てきます。いろんな方々があらゆる分野でブログをなさっておられますが、「一定の傾向」も感じます。特に歌謡曲関連のブログではWikipedia記述の抜粋引用掲載が圧倒的で、Wiki側に誤記述が出てるとそれが抜粋引用掲載でどんどん広がりかねないのです。「Wikipediaは記述の信頼度が高い」という観点が一般的なのです。なので、関連記述を見ないままWiki文章の抜粋引用をブログ掲載される方々がすごく多いようです。しかもWikiは開設しようと思う人なら誰でも開設し記述ができるらしいので、Wikiの誤記述を度々見掛けます。「~研究家」「~評論家」を名乗る人がさほど専門的ではない場合でも、肩書き表記だけで「この人はこういう分野の専門家なの
返信する

コメントを投稿

節三・Memo」カテゴリの最新記事