今日は、だいぶ冷たい風が吹いていて、
明後日あたりは、雪が降るかも知れない、予報です。
出掛ける予定もあり、気を引き締めているところです。
昨日更新した、節三とルーシーの資料の2枚目です。
少し長いのですが、更新いたします。
もう少し楽しいネタはないものか、考えていますが、
用件だけ、先に済ませてしまいましょう!
・・・・・・【節三・Memo】・・・・・・・・・・・・・・・
三度の飯より
喧嘩が好き
節三君の大舘時代
いまぢゃ世界的色男
アメリカの富豪の老嬢へ婿入りした三国一の果報者太田節三君は
大舘中学校代十三回目の卒業生だ。
明治三十年四月四日生まれとあるから本年とって三十二才の男盛り、
小坂町代議員太田戍太郎(1)の令弟で明治四十三年に大舘中学へ入学、
順調に行けば、大正四年に卒業したのだが、
学課の方は成績常に降るわず、
黒星が多くて一回ドロップして大正五年に卒業、明大の商科へ入ったが
満足に卒業したかは知らず。太田君は豪胆で暴れ者で手がつけられず
学校中での持て余しものであったが
柔道は群を抜いて卒業す。當時は二段の免状を持っていた。
◆
當時の柔道部の先生は今の大館町長の泉茂家君で、
泉君は先生だが太田君より一段下の否か初段で常に投げられていたらしい。
その頃は大中柔道部の黄金時代で選手は悉く有段者揃いで、
二段は太田君と二人いた。
従って大正四年には東北六県の武者修行に出かけて中等学校を総なめにして、
その勢いで、盛岡の高等農林をも打ち破って東北の天地をさわがしたものである。
◆
だが、當時の校長名和長政君は、対抗試合を余り喜ばず、
まして東北六県の武者修行と聞いては許す筈がないと思ったは、
先生をしていて、よく知っている、泉茂家君である。
それでなくとも血の気が多くて三度の飯より喧嘩が好きな太田君をそそのかして、
校長室へ暴れこませドアを絞め切って
校長と二人『さァ、命が欲しいか試合に出すか二つに一つの返答だ』校長まっ蒼になって震えているところへドアをノックして入って来たのは
黒幕の張本人になる泉君、『校長先生、私が責任を負いますからやったらどうです』で
名和君二つ返事で承知したということである。
◆
その泉君もある時弘道館(2)で太田君にしたたか打ちのめされたことがある。
というのは、太田君は柔道は二段だが、相撲では泉君にかなわず、
いつも負けていた。
たまたま弘道館で二人が相撲を取ることとなったが
太田君一計を案じ先ず柔の手で泉君をおどしつけておいて、
ウッカリ相撲が取れぬようにし戦をはずして泉君を撃退したことがあると云って
今以て泉君は『太田はそんなことではなかなか目先の利く奴だった』と
舌を巻いている。
尤も太田君にしてみれば泉君が、
目先が利かなさ過ぎたのかもしれないが・・・・・
尚その他太田君には幾多の逸話がある。
◆
例えば博物学の時間であった。
先生がせっかく揃えた実験用の桜の花片をひとつかみして吹っ飛ばし
『いたずらしたものはまえへ出ろッ、十日間の停学だッ』というのを
何とも思わず『ハイ私です』と云って退場したものだ。
あんまり乱暴者だとて一時本郷という先生へ預けられたこともあるという
上京してからは、三船七段の内弟子となり、
破れ袴に高足駄で、東京の街を近藤勇のように、
肩で風を切って歩いたものだ。
その頃だ、日本刀で闘犬の首ッ玉を斬りおとしたという胸をすくような話は・・・・
◆
今度結婚した婦人とはこの前アメリカへ行く途中船の中で親しくなったとか(3)、
一昨年その日本人と日本に帰り、
帝国ホテルの大広間を二つぶっ通しで、借りて
四十幾個かのトランクを置いて友人を驚かしたは好いが
金を使い果たして郷里へカネオクレの電報を矢鱈に打ったものだという。
泉君の話によれば、学生時代から金づかいはあらくて、
無くなれば誰にでも『オイ金をかせ』、泉君も大分借らされたさうだが、
人柄はよく稚気愛すべきものがあったと。
◆
この度の老嬢との結婚話をもたらして大中の小松校長を問えば
『目出度くもあり目出度くもなし』保証人でもあった
八十八翁の前小屋寛右衛門君はさすが
厳格な大舘藩の家老職だけただ『実に怪しからんこっち』
(写真は大舘中学時代の太田節三君)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上は新聞記事
本文赤字
(1) 戍太郎、新聞のルビーは、いぬたろうとありますが、じゅたろう」
(2) 弘道館は東京小石川のにある「講道館」ではなく、
水戸藩斎藤斉昭が創設した弘道館の流れの汲んだ施設。
(3) この前アメリカへ行く途中船の中で親しくなったとか
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節三の渡米は1922年ですが、10月からの調べでは、ルーシーの
渡航記録を見つけることができません。
※この記録は知りたいポイントなので、根気強く探してみます。
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