春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

長瀞渓谷の、天女!

2018-10-18 22:20:33 | 関口文治郎/神社仏閣

 

あらぁ〜 困った!

昨日、ブログを中断と、書いたばかりなのに、
ブログの新規投稿のテンプレートが、元に戻っていて、
これでは中断する理由がなくなってしまった。
舌の根も乾かないうちに、
回れ右!です。

シンプルなテンプレート、手っ取り早い機能、集中ができる。
少なくとも、私とは「うま」が合います。
いいものは崩さず、守り・・・ですね!

10月15日、観光をメインにして訪れた、
景勝地長瀞渓谷、舟下りの観光客でにぎわう宝登山麓
舟を下りて、宝登山神社、
玉泉寺は歩いて10分ほど。
ここは、👇 玉泉寺。

 

 


👇 国道20号相模湖付近、小原本宿では、
この葉に切手を貼ってはがきにできると、
展示していた記憶があります。

 

👇 発煙筒です。

 

 

 

 

 

👇 玄関の天井
彫刻大工、塗師の名前は、誰も知らない!

 

 

 

👇 本堂の天井の天女
25人の天女、見ごたえがありました。

 

 

 

未掲載の天女も、投稿させていただきます。

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秩父・宝登山の投稿で、困った!

2018-10-17 21:16:30 | 関口文治郎/神社仏閣

 

宝登山1847年から1874年、長い年月をかけて、再建した社殿。
彫刻大工は、上州花輪彫刻の系列、飯田仙太郎の倅、
飯田岩次郎。
完成時は56歳。
岩次郎は、父の仙太郎の兄、宮大工・飯田和泉藤原金軌の元、
武州熊谷宿に住み武州に多くの彫りを残している。
昨日のブログ、小林源八郎とは、
小林流の同門同士になるのでしょうか。
明治、玉泉寺の住職は、神仏分離令が出る前に、
神官になって、玉泉寺の敷地に建てたもので、
神仏とともに敬い祀る、いい関係を作ったのは、
太田の高山新九郎にすれば、晴天のへきれき、だったかもしれません。

 

 

 

 

 

ブログ中断を思っています。
現在の変更されたテンプレートでは若干、手間取り、
眼の不自由になりかけている私には、黄色い画面は、
疲労が増し・・書きやすいものではありません。
沢山の方が、ポチっとしてくださいます、
中断を決めましたら、お伝えいたしたく存じます。
前の編集画面がよかったのですが・・・ネ!

 

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源太郎、箕郷町生原で、鑿を置く.

2018-10-16 23:55:31 | 関口文治郎/神社仏閣

 

 

タバコをくゆらせ、いつも長い時間椅子に坐って、
参拝する人たちを眺めている。
そびえる岩、ポロリと落ちはしないかと思わせる、
巌の上に坐っている岩に食い込むような榛名神社の双竜門。
社殿は関口文治郎、上州花輪彫刻集団の異才。
海老紅陵をの龍が、彼の最後の仕事。
のち、1856年、文治郎の師、石原吟八の門人、小林源八の息子、
小林源太郎(長谷川源太郎)が、
双竜門の龍を彫った。
その源太郎が、最後の仕事になったのが、
高崎市箕郷町生原にある「北野神社」

箕郷の鳴沢湖の近く、原山の大工棟梁清水和泉と、
双竜門を仕上げてまもなく、そのままコンビを組んだの。
小林源太郎は、北野神社を仕上げた1861年、
熊谷宿に戻り、越後で彫物大工になって名を挙げた、
倅、小林丑五郎には会えず、近所の皆に看取られる、
63歳。
まだ活躍できた年齢でもあった筈。

小林源太郎、最後の作品、北野神社。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

季節が違う、今は秋、でも山ツツジ。

 

写真 2018.10.8 榛名湖&箕郷町  

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私、河童の与太郎、宝登山で恋をしました。

2018-10-15 23:24:48 | 関口文治郎/神社仏閣

 

私、河童の与太郎、秩父で恋をしてしまった。
だ、三面記事、エロを期待なさる方は、ここでUターン、
読む記事このブログじゃない、コンビニの書籍コーナーへと。

宝登山に登って
晴れか雨か、昨日サイコロ振って、出た目で、
来ることになった、バカな私、河童の与太郎。
ふらり寄った、宝登山神社隣の、玉泉寺。
暗い天井見て、腰が抜けた。
羽衣ひらひら、25人の天女。
よくもまぁ描いたものと・・・。
しばらく眺めていて、社務所の袴をはいたおっちゃん、
電気をつけてくれた。
灯りがついて、私の眼にもめらめらと燃える炎が、
離れがたい時間。
どうも、この胸騒ぎ、はるか昔、通じない恋をしていた時に似ている。

 

 

 


そこで頭を冷やしに、宝登山の真正面の長瀞、岩畳へ。
猫と目が合ったけど、
こちらは食い気との闘い、
恋の炎、散らした後では・・・・いやはや・・。


 

 


 

 

 

 

 

 

 

今日はここで、おすみなさい!

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陽に燃えた2代目常八主信、終焉の鑿。

2018-10-14 21:51:13 | 関口文治郎/神社仏閣

雨が降るといえば、臆病に、
家に籠り窓を開ければ、素足に秋の深さが、
足袋をはき、履けば暑くてまた素足。
なんとも、いでたちに面倒な八王子の天気。

明日の予定にテレビの天気予報を
あちこちチャンネルを横目に、
チンチロリンで、決めようと・・。
2度降り、勝ったほうに明日の行き先を。
1度目が勝ったら秩父宝登山、2度目が勝ったら部屋の片づけ。
チンチロリン、
勝ったのは1回目の賽の目、4.5.6で.宝登山に、
買い出しに小走りした日曜日でした。

こんなんでは怒られる、
安中市板鼻の長傳寺
1861年公武合体のため、
徳川14代将軍・家茂に嫁ぐ、和宮内親王が、
大行列をした中山道、板鼻宿。
上州の7つの宿場で一番賑わったところだという。
宿泊所から5分、和宮が立ち寄ったのは長傳寺。
開山1532年。
1596年現在の場所に移してから、3度の焼失の憂き目に会い、
庫裏は1847年から再建工事を始め、
1856年には彫物師が欄間を彫り始め、
荘厳な庫裏が完成したのは1868年

1861年和宮が訪れた時、
欄間の彫刻の出来に、眼を光らせていたのが、
上州花輪彫刻の花形だった2代目石原常八・主信。
75歳の時。この2年後、
庫裏の完成を観ずに、77歳の生涯を閉じ、
長傳寺の彫刻が最後の作品となる。
彫物大工の多くの乳呑児は、
仕事が終わるころには、ここで元服し、引き上げた、と。

長傳寺、至る所に彼のまろやかな、鑿の跡が刻まれている。



👇中山道

中山道マップ




 

 

  
安政4丁巳年正月吉辰
大間正面極彩色欄間
三牧施主
勅使河原源右衛門好昌
彫工
当国勢多郡花輪在
石原常八主信 七十一歳作
金子文五郎宣信 
  👇

 

 

 

     ☝  欄間総数14面

👇 須弥壇

 

 

 

 

この本堂に入って、彫刻を見ているときが、
いちばん、休まります。
長傳寺の大黒さん。判るような気がしました。

 


👇 幾度の火災に会って、焼失を免れた山門には、焼け焦げの跡が・・。

 

写真2018.10.9 安中市

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