彼は人に何かを頼もうとしている。
彼は航空券の予約手続きをあなたにはできるのかと聞いてくる。
しつこく聞いてくる。
が、決して、「何日何時の便を誰にどうしてほしい」のか要件を伝えることができない。
あなたにはできますか?とはしつこく聞いてくるが人に何かを頼むということができない。
あなたにはできますか?と聞いてくる彼はできない。
予約手続きできる人かどうかを知ることより、航空券を手に入れられるかということのほうが問題であって、
あなたは予約手続きができて私は予約手続きができない。
が、決して、「何日何時の便を誰にどうしてほしい」のか要件を伝えることができない。
それで「今誰かに航空券の予約を頼みたい」という目的はいつまでも達成できない。
妻に先立たれて、食事の準備をしてくれる、まわりの世話をしてくれる人が誰もいなくなった。
彼は人に何かを頼むことができない。
彼はいっしょに生活できないかと聞いてくる。
が、決して、「身の回りの世話をしてほしい」といった要件を伝えることができない。
いっしょに住むことができますか?とはしつこく聞いてくるが、人に何かを頼むということができない。
いっしょに住むことができますか?と聞いてくる彼は
いっしょに住んでくれることができる人かどうかを知ることより、食事を誰かが用意してくれるかということのほうが問題であって、あなたにはできて私にはできない。
が、決して、「身の回りの世話をしてほしい」といった要件を伝えることができない。
「今誰かに食事を用意してほしい、毎日、何年先まででも」という目的はいつまでも達成できない。
人にものを頼むことができない人間が、黙っていてもいつかは誰かが私のために食事を用意してくれるだろうと、あなたは自分の身の回りの世話をすることができますか?私の身の回りの世話をしてくれることができますか?とまわりくどく、しつこく、延々と訪ねてくるが、具体的に、食事をみずから用意するという意欲を欠いている、宗教上の理由でという言葉をきいたことがあるかもしれないが、ちょうどそんな感じで、男が炊事をするぐらいなら死んだほうがましだというような観念に縛られているため、今差し迫っている、私のために食事を用意してくれる人は誰もいないといった現状をまったく解消することはできない。