歌壇には語り継がれているエピソードがいくつかある。佐藤佐太郎と宮柊二について語るのに子弟関係を整理しておくと・・・。
佐藤佐太郎・・・斎藤茂吉の弟子
宮柊二・・・・・北原白秋の弟子
吉野秀雄・・・・会津八一の弟子
あるとき吉野秀雄が病に伏せった。佐藤佐太郎と宮柊二が連れだって見舞に行ったが、師匠自慢が始まった。
「斎藤茂吉のほうが北原白秋より優れている。」「いや、逆だ。」と佐太郎と宮柊二が争った。他人の病気見舞いに行って言い争いをするなど考えられないが、続きがある。
どちらが言い出したか分からないが、「表へ出ろ」ということになって庭で相撲をとった。吉野秀雄が床についたまま、「やれい、やれい。」と言った。
別の話もある。吉野秀雄の枕元で取っ組み合いが始まって、片方が片方を組み敷いた。その上へ吉野秀雄がどすんと胡坐をかいて、「会津八一先生が一番だ」と言った。
このての話には尾ひれがつくもので、真偽のほどを詮索してもあまり意味はない。第一、一緒に見舞いに行ったのだから佐太郎と宮柊二が本気で喧嘩などするとはかんがえにくいし、病床にあった吉野秀雄が二人の上にどしんと胡坐をかくというのも考えにくい。
そういうことよりも、佐藤佐太郎と宮柊二が師から引き継いだものに或る興味を持つ。齊藤茂吉は「写実派」。一般にリアリズムと混同される。これを「事実信仰」と呼んだのは岡井隆。一方の北原白秋は象徴派と呼ばれる。
しかし、その弟子の佐藤佐太郎は「事実信仰」どころか、「象徴的写実主義」と呼ばれる歌境に達した。そして宮修二の歌集「山西省」はリアリズムそのものである。
師と弟子とはこのようなものなのだろう。佐藤佐太郎も宮柊二も、斎藤茂吉と北原白秋のひな形ではない。ではなぜ師なのか。僕はひとえに信頼関係だと思う。短歌の世界には「添削」というものがある。この人ならば、添削されても納得できる、という関係だろう。
「先生が手を入れると、まるで作品がみるみるうちに命をふきかえすようだった。」
少なくない歌人が語る言葉である。