「現代短歌新聞」:『論点』(一面掲載)
1、6月号(第3号)
「若い人たちの才能が今日の短歌界に風穴を開けるのは大歓迎だが、同世代間の理解だけで満足して欲しくはない。世代を超えた相互批評がもっとあってもよいだろう。」(外塚蕎)
=(若手歌人、ライトバース、ニューウェーブへの批判と僕は捉えた。主題の欠如、歌人の芸能人化・お笑い芸人と同じプロダクションに所属するなど・問題は切実だと思う。)
2、7月号(第4号)
「口語短歌とか、ネット短歌とか、言われて久しいが、あれは別の短歌だという声を聞く。31文字だが、歌ではないと感じられる。これはこういう(玉城徹の言うとおり)美のありようを共有する基盤がないと気づくからである。口語とか文語ということは問題の本質ではない。・・・口語でも文語でもいい、読み終わったときにひろがる、生が紡ぎだす深い沈黙の量、それがあるかどうか。これが片々たるもののうちに大伽藍を成就する、私たちに伝えられてきた美のありようなのだ。」(阿木津英)
=(これも短歌の文学性の欠如についての批判と僕は受け取った。これはまた、文語で古めかしい表現にこだわるベテラン歌人への批判でもある。)
3、11月号(第8号)
「今、日々目にする歌にはルーズな言葉や表現が夥しい。ルーズというのは、『連ドラ・メル友・写メ』など、まだ時の洗礼を受けていない略語であり、店名、品名、人名などのうち、必ずしも一般的でなくいつか忘れられたりするようなものである。・・・ルーズさの脱却は短歌の未来のためにも必須である。」(鮫島満)
=(新しさを標榜して奇をてらった作品への批判と僕は受け取った。ある短歌賞では、受賞作がエキセントリックで、その後、作風が変わる新人が多い。名前を売るために目だったことをしたとしか思えない歌人が少なからずいる。)
4、2月号(第11号)
「(東日本大震災の)現地の悲惨さは映像では窺い知れないものであることは、行かなくても代替は想像でき、現実に行ってみてもそのとおりだった。もう少し時間の濾過を経ないと、読むべき核心が見えてこないような気がする。時事というものが、卑近なお話の世界から神話的空間に跳ばない限り、お話のままだ。」(恩田英明)
=(以前記事にしたが、時事詠と社会詠の難しさを解いているのだろう。)
5、6月号(第15号)
「若い日本の歌人諸君に言う。君の目指すべきは世界水準の詩である。日本語で短歌を試作したあと、必ず君の特異な外国語に翻訳せよ。そこで考えこめ。『これは詩か、散文の一部か』と。もし詩と思わなければ潔く捨てよ。海に浮かぶ氷山の下には巨大な氷塊がある。君が捨てた歌はその氷塊とならねばならぬ。」(鵜飼康東)
=(短歌の散文化への警鐘だ。1,2、の論者と軌を一にする。)
6、9月号(第18号)
「(8・15を語る歌人の会に参加して)まさに現在に置き換えられよう。憲法改正の動きや原発再稼働の問題に対し、同じ過ちを繰り返さないために私たちは今何をすべきなのか。・・・『そうなる前に、そうさせぬために』歴史の真実に、言葉の重みにどれだけ敏感になれるのか。いま原点に立たされた思いである。」(関根和美)
=(このブログで「歴史に関するコラム」「身辺雑感」などで、時事問題、歴史認識問題などを記事にし、デモの報告をしたのも、こういう視点からだ。)
7、12月号(第21号)
「(歌人の持つ課題)他ジャンルなどを意識し、なるべく遠くまで届くような歌えを作らなければならない。・・・さまざまなメディアで、他ジャンルとの交流などが企画されればよい、と思う。・・・もっと自覚的に歴史を学び、問題を明確化して書き続けなければならない。・・・やはり以前のように若い人にも論作の発表の場が与えられれば、と思うのである。」(大野道夫)
=(「斉藤茂吉と佐藤佐太郎」では「戦争と短歌」をテーマの一つに叙述した。また現代詩人に混ざって、朗唱のプロジェクトに参加しているのも、大野氏の趣旨と同一の問題意識を持っているからだ。)
