岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

板挟みになった歌人たち(1):正岡子規と伊藤左千夫

2010年03月12日 23時59分59秒 | 短歌史の考察
昔は「文学に志す」などと言うと勘当ものだったそうだ。二葉亭四迷のペンネームの由来が、父親から「くたばってしまえ!」と言われたのをもじったそうだ。というのは俗説だそうだが、近現代の歌人たちも例外ではなかったようだ。実生活と創作活動の板挟み。創作活動の実績は広く知られているので、直面した困難について調べてみた。

・正岡子規・・・伊予松山藩・禄高五十俵の下級武士の家に生まれる。父は酒飲みで、子規の生まれた頃の正岡家の経済状態は相当に逼迫していたと思われる。自由民権運動の盛んな時期に政治家を目指すも挫折。叔父の経済的援助で上京。大学予備門(第一高等中学校)より文科大学へ入学。小説家を志望し「月の都」と題する小説を執筆し、幸田露伴のところへ持ち込むが評価されず。その年、幾度目かの試験落第もあって大学を退学。在学中より結核を病み、それが脊椎カリエスに進行し闘病の果てに死亡。生活は、旧松山藩の奨学金、叔父、陸羯南、門弟たちの援助にたよっていた。

・伊藤左千夫・・上総国の農家の四男に生まれる。政治家を志して上京。明治法律学校に入学するも眼病のため就学を断念し帰郷。そののち再び上京し、いくつかの牛乳搾乳業者での仕事を転々としたのち、現在の東京都墨田区で牛乳搾乳業を始める。こうした生活を続けながら、小説・短歌を発表。「根岸短歌会」の雑誌創刊・編集に中心的役割を果たす。が、牛舎や住宅がたびたび洪水に襲われ借金もかさんだ。生活の維持と創作活動の板挟みにしばしば陥った。正岡子規なきあとの「根岸派」のまとめ役としての困難もあった。資金は集まらない、雑誌の売れ行きは悪い。仲間うちでの対立の収拾にも当たった。しかし面構え堂々。これらの板挟みのなかで秀歌・名作を残したのは傑物だったことを思わせる。(続く)






最新の画像もっと見る