岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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「角川短歌」2月号:特集・自然をうたう

2012年01月30日 23時59分59秒 | 総合誌・雑誌の記事や特集から
 「角川短歌」2月号の特集は「自然をうたう」。「(現代詩に必要なのは)自然に目を向けることだ。日本の詩には自然という伝統がある」と提言したのは吉本隆明。「目にみえるものを『写』すことは、作者の心情や生活などを『写』すことになります」と述べているのは岡井隆。今回の特集はそれに沿ったものとなった。6人の歌人のさまざまな角度からの切り込みが面白い。


・大塚布見子・
 
 自然詠の変遷(歴史)。主として写実の佳品を。

「古事記の歌」「万葉集の歌」「古今和歌集の歌」「新古今和歌集の歌」「玉葉集・風雅集の歌」「江戸時代の歌」「短歌革新以後近代の歌」とまとめている。(=内容は正岡子規の歌論、釈迢空の評論に沿った形だ。)

 そして結び。「(自然詠)には精神の集中による深い沈潜があり自然の微妙(な)所に到り着いた清澄な境地がある。説明のようで説明に終わらず、報告のようで報告に終わらない、写実の妙があるといえよう。」


・大河原惇行・

 自然詠、表現の輪郭。

「高校生の短歌大会」「芭蕉の句」「斎藤茂吉・島木赤彦・馬場あき子の歌」と続く。

 そしてまとめ。「芭蕉も茂吉も赤彦も、自然に向き合う態度とそのあり方は、自然を絶対のものとうけ止めていたのであった。現在という時代にあって、人間の進歩と発達が、自然を破壊する現象を眼前のものとして、改めてそのことを意識したのであった。・・・(東日本大震災のあと)何が人間に求められているのか。つまり、自然の中に生きる人間でなく、自然と共に生きる人間として何が求められているのか。自然に向き合い、自然を詠むことも例外というわけには行くまい。」

 (=東日本大震災で「自然観」がかわったものの、その埒外には出られないということか。)


・吉川宏志・

 自然詠としての身体詠。身体の不思議さを言語化する。

「身体は、自分の意思で動かせるものだが、その一方、無意識のうちに機能しているものでもある。胃や腸が自動的に食べ物を消化するのはその一例である。・・・『自然詠としての身体詠』とは非常に難しいが、ここではコントロールできない身体の奇妙さがあらわれた歌をとりあげたい。」

 若山牧水2首、河野裕子、渡辺松男、森岡貞香、小池光、の作品をあげる。

 (=岡井隆の「臓器(オルガン)」よりの引用歌があってもいい気がするが。)


・秋葉四郎・

 古典に学ぶ自然詠-万葉以来の古典に親しむ。山川と共に呼吸している歌。

「あらゆるジャンルの芸術が、母なる大地として自然に対峙し、どっぷりと浸り、思い切り敬虔であろうとするのは当然のことである。われわれ創作者の芸術の原点が自然にあり、そこから発しているさまざまにして限りない啓示を受け止め続けようとするのは、創作者の宿命のような要素も含んでいるように思う。」

 万葉集3首、古今集・新古今集それぞれ1首。

 (=この自然の捉え方は斎藤茂吉のそれである。)


・中川佐和子・

 近現代の自然詠。秀歌40首。

 斎藤茂吉・若山牧水・正岡子規・窪田空穂・中村憲吉・四賀光子・釈迢空・佐藤佐太郎・佐佐木幸綱・尾崎左永子・篠弘・小池光・佐伯裕子・前登志夫・三枝昂之・春日井建・石川不二子・花山多佳子・田村広志・梅内美華子・今野寿美・高野公彦・米川千嘉子・河野裕子・来嶋靖生・岡井隆・稲葉京子・松坂弘・小高賢・大島史洋・日高尭子・小林幸子・大下一真・馬場あき子・伊藤一彦・春日真木子・秋葉四郎・栗木京子・永田和宏・岡野弘彦。

 (=これは読みごたえがある。)


・伊藤一彦・

 馬場あき子の「鶴かへらず」を論じている。

「(自然について)もっとも地球は人間が滅びてもいっこうに構わない。かえって人間が滅びた方が地球上の自然のためには有難い。自然を都合のいいように利用する人間は地球上の鬼っ子なのである。その鬼っ子の自覚が馬場あき子に(魚の視点からの歌)を詠ませているのにちがいない。」

 (=東日本大震災以降、自然に対する人間の「目」変化したに違いない。)

 なお、この企画の後にある「若手歌人による近代短歌研究(Ⅱ))石川啄木も面白かった。


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