「短歌研究」2月号。目次にない「特集」があると思った。それは「現代の短歌滅亡論」。「シンポジウム再録」と「短歌時評」のどちらを記事にするかで、双方を読んでいる時に気づいた。西村美佐子の「折口信夫と、釈迢空」と笹公人の「わたしは別に」。このふたつのなかに潜んでいた。
「同党異伐はみにくいに違いないが、何も信じるところを隠す必要はないから、ぐんぐん言うがいい」と言う斎藤茂吉の言葉通りに「ぐんぐん」言わせて貰う。反論あらば、「短歌年鑑」の住所まで手紙か葉書を送って頂きたい。
・折口信夫と、釈迢空:西村美佐子
必要な部分だけ要約する。釈迢空には「国学者」「短歌史家」「文学史家」の研究者の側面と、短歌実作者という側面がある。「学問的創造と短歌制作との時間的並行ではなく、その両者における創造的対応関係である」と玉城徹が言うとおり、こういう対応関係が、釈迢空の全生涯を通じてずっとそういう対応関係にあったのではないか。釈迢空の短歌滅亡論は4つある。「滅ぶるまでのしばし」、「歌の円寂する時」、「歌の円寂する時 続編」「滅亡論以後」。
(=折口信夫は「国学者」ではなく「国文学者」だ。「国学者」は江戸時代の話。それと「折口は、生涯を通じて前衛の人だった」というが、「前衛」というより「伝統主義者」だったと思う。短歌の伝統、短歌史を踏まえたうえで「新」を積むことを目指したが、短歌形式に行き詰りを感じていた、というのが実態により近い。)
・わたしは別に:笹公人
さてこの文が問題なのだが、笹の文章を要約してみる。箇条書きにする。
第一。ここ数年の短歌界でもっとも話題になったテーマは、伝統の断絶と短歌の完全口語化の問題。10年くらい前は穂村弘の歌がよく引用されていたが、ここ数年は穂村の一まわり以上も下の世代にあたる永井祐の歌が引用されることが多いようだ。
第二。歌謡曲の歌詞と短歌の比較検討。(=どの時代にも流行があるといいたいらしいが、それならそう言えばいいのであって、この比較検討はほとんど意味がない。)
第三。流行に乗ったものは、「保守派にやっつけられる」「作者本人が伝統回帰する」「いつのまにか忘れ去られる」のがいつものパターンで、短歌の主流にはなりえない。
第四。だから伝統的な型も文語短歌も絶滅しないと「小生」(何と大袈裟な言い方)は楽観視している。1300年も続いた伝統(型)はそんなにヤワなものではないと信じる。
この論は支離滅裂だ。問題点を列挙する。
第一。永井の作品が「伝統と切れた新しい文脈にあることはたしかだが、それが主流になるとは思えない」という。いずれは「忘れ去られる」だろうということだ。それなら穂村弘はどうなのか。永井の作品をそう断ずるからには、穂村の作品も同じはずだ。そうでなければ永井と穂村の違いを明確にすべきだ。
第二。「保守派にやっつけられる」というが、それがよいことなのか判断を回避している。それほど「短歌は保守的なもの」なのか。新しい短歌とは何かという問いが全くない。
第三。短歌の伝統は「型」や「文語」だけではない。文学としてのそれがあるはずだ。短歌の伝統を「型」と「文語」とに限定するのは過誤だ。伝統を余りに狭く考えてはいまいか。
第四。そもそも笹の作品が「忘れ去られるもの」ではないか。例を挙げよう。
・注射針曲がりてとまどう医者を見る念力少女の笑顔まぶしく・「念力家族」
・少年時友とつくりし秘密基地ふと訪ぬれば友が住みおり・「同」
・指切りの指のほどけるつかのまに約束蜂の針がきらめく・「念力図鑑」
(これらの歌が僕にはどうしてもよい歌とは思えない。)
・自転車で八百屋の棚に突っ込んだあの夏の日よ 緑まみれの・「念力家族」
・校庭にわれの描きし地上絵を気づくものなく続く朝礼・「同」
・修学旅行で眼鏡をはずした中村は美少女でしたそれでそれだけ・「念力図鑑」
(これらも余り意味がない。)
・中央線に揺られる少女の精神的外傷(トラウマ)をバターのように解かせ夕焼け・「念力家族」
これは心の琴線に触れる。ただ精神的外傷と表記する必然性がわからない。トラウマでいいと思うのだが。
それと「型」を言うなら「てにをは」を整理するくらいのことはしたらどうだろう。「必然性のない字余り」と僕には読める。「字余り」が効いていないのだ。(なおこの7首は「角川現代短歌集成第1巻」から引用した。とすれば笹の自選、つまり自信作の筈だ。それがこの状態では説得力がない。
第五。タイトルや「完全口語歌が忘れ去られる」ということから、笹は自分は埒外にあると思っているらしいが、文語を使っても意味のない作品はいくらでもある。短歌の新しさとは何で、どのようなことが求められるのか、笹は書いていない。岡井隆は「つねに考えよ」と言う。(「短歌の世界」)ここが一番肝心なところだ。
第六。書く散文の文体のアンバランスさ。おっとやめておこう。重箱の隅をつつくような真似は。
付記:< カテゴリー「歴史に関するコラム」「身辺雑感」「短歌史の考察」「短歌の周辺」「作歌日誌」「作家論・小論」「紀行文」「斎藤茂吉の短歌を読む」「佐太郎の独自性」「写生論アラカルト」 >をクリックして、関連記事を参照してください。
「同党異伐はみにくいに違いないが、何も信じるところを隠す必要はないから、ぐんぐん言うがいい」と言う斎藤茂吉の言葉通りに「ぐんぐん」言わせて貰う。反論あらば、「短歌年鑑」の住所まで手紙か葉書を送って頂きたい。
・折口信夫と、釈迢空:西村美佐子
必要な部分だけ要約する。釈迢空には「国学者」「短歌史家」「文学史家」の研究者の側面と、短歌実作者という側面がある。「学問的創造と短歌制作との時間的並行ではなく、その両者における創造的対応関係である」と玉城徹が言うとおり、こういう対応関係が、釈迢空の全生涯を通じてずっとそういう対応関係にあったのではないか。釈迢空の短歌滅亡論は4つある。「滅ぶるまでのしばし」、「歌の円寂する時」、「歌の円寂する時 続編」「滅亡論以後」。
(=折口信夫は「国学者」ではなく「国文学者」だ。「国学者」は江戸時代の話。それと「折口は、生涯を通じて前衛の人だった」というが、「前衛」というより「伝統主義者」だったと思う。短歌の伝統、短歌史を踏まえたうえで「新」を積むことを目指したが、短歌形式に行き詰りを感じていた、というのが実態により近い。)
・わたしは別に:笹公人
さてこの文が問題なのだが、笹の文章を要約してみる。箇条書きにする。
第一。ここ数年の短歌界でもっとも話題になったテーマは、伝統の断絶と短歌の完全口語化の問題。10年くらい前は穂村弘の歌がよく引用されていたが、ここ数年は穂村の一まわり以上も下の世代にあたる永井祐の歌が引用されることが多いようだ。
第二。歌謡曲の歌詞と短歌の比較検討。(=どの時代にも流行があるといいたいらしいが、それならそう言えばいいのであって、この比較検討はほとんど意味がない。)
第三。流行に乗ったものは、「保守派にやっつけられる」「作者本人が伝統回帰する」「いつのまにか忘れ去られる」のがいつものパターンで、短歌の主流にはなりえない。
第四。だから伝統的な型も文語短歌も絶滅しないと「小生」(何と大袈裟な言い方)は楽観視している。1300年も続いた伝統(型)はそんなにヤワなものではないと信じる。
この論は支離滅裂だ。問題点を列挙する。
第一。永井の作品が「伝統と切れた新しい文脈にあることはたしかだが、それが主流になるとは思えない」という。いずれは「忘れ去られる」だろうということだ。それなら穂村弘はどうなのか。永井の作品をそう断ずるからには、穂村の作品も同じはずだ。そうでなければ永井と穂村の違いを明確にすべきだ。
第二。「保守派にやっつけられる」というが、それがよいことなのか判断を回避している。それほど「短歌は保守的なもの」なのか。新しい短歌とは何かという問いが全くない。
第三。短歌の伝統は「型」や「文語」だけではない。文学としてのそれがあるはずだ。短歌の伝統を「型」と「文語」とに限定するのは過誤だ。伝統を余りに狭く考えてはいまいか。
第四。そもそも笹の作品が「忘れ去られるもの」ではないか。例を挙げよう。
・注射針曲がりてとまどう医者を見る念力少女の笑顔まぶしく・「念力家族」
・少年時友とつくりし秘密基地ふと訪ぬれば友が住みおり・「同」
・指切りの指のほどけるつかのまに約束蜂の針がきらめく・「念力図鑑」
(これらの歌が僕にはどうしてもよい歌とは思えない。)
・自転車で八百屋の棚に突っ込んだあの夏の日よ 緑まみれの・「念力家族」
・校庭にわれの描きし地上絵を気づくものなく続く朝礼・「同」
・修学旅行で眼鏡をはずした中村は美少女でしたそれでそれだけ・「念力図鑑」
(これらも余り意味がない。)
・中央線に揺られる少女の精神的外傷(トラウマ)をバターのように解かせ夕焼け・「念力家族」
これは心の琴線に触れる。ただ精神的外傷と表記する必然性がわからない。トラウマでいいと思うのだが。
それと「型」を言うなら「てにをは」を整理するくらいのことはしたらどうだろう。「必然性のない字余り」と僕には読める。「字余り」が効いていないのだ。(なおこの7首は「角川現代短歌集成第1巻」から引用した。とすれば笹の自選、つまり自信作の筈だ。それがこの状態では説得力がない。
第五。タイトルや「完全口語歌が忘れ去られる」ということから、笹は自分は埒外にあると思っているらしいが、文語を使っても意味のない作品はいくらでもある。短歌の新しさとは何で、どのようなことが求められるのか、笹は書いていない。岡井隆は「つねに考えよ」と言う。(「短歌の世界」)ここが一番肝心なところだ。
第六。書く散文の文体のアンバランスさ。おっとやめておこう。重箱の隅をつつくような真似は。
付記:< カテゴリー「歴史に関するコラム」「身辺雑感」「短歌史の考察」「短歌の周辺」「作歌日誌」「作家論・小論」「紀行文」「斎藤茂吉の短歌を読む」「佐太郎の独自性」「写生論アラカルト」 >をクリックして、関連記事を参照してください。