1、 『短歌』 短歌年鑑 回顧と展望
『短歌』の短歌年鑑では、四人の執筆者による、冒頭の「回顧と展望」に着目した。執筆者ごとのテーマと内容をまとめてみたい。
・篠弘 「結社問題と震災詠」
篠弘は評論活動を活発に行っている。その篠が結社論は避けていたという。「結社の弊害に言及しかねなかったから」と本人は言うが、評論にタブーはないはずだ。こういう言葉を聞くと篠の評論では触れられない問題が、歌壇には山積しているかのと思う。(戦争と短歌の問題がそうだ。拙著『斎藤茂吉と佐藤佐太郎』を参照されたい。)
その上で篠は「結社の活性化」を訴える。だが具体的提案はなく、『現代短歌』の大辻隆弘の組織論の提言の方が、説得力がある。震災詠については、当事者性に重きを置いているようだが、東日本大震災は、日本全国民が当事者だ。関東地方にも放射性物質は拡散している。汚染された農産物が西日本にも流通している。国の安全基準に適合したものだが、その基準の甘さを指摘する専門家も多い。当事者でなくても、優れた震災詠は創作出来るはずだ。篠も「現在からが本番」と結んでいる。
・三枝昂之 「短歌はどこにいるのか」
三枝は「私は何か、なぜ生きているのか」という文学の普遍的な問いを確認している。短歌が一人称の文学である限り、当然な確認だろう。ライトバース、ニュウウェーブの短歌にそういう問いは感じられない。
また三枝は「戦後70年の来年を見据えて短歌の歩みを振り返る」「先達に学びゆっくり詠い続ける」のを提言している。
・佐伯裕子 「古くて新しい問題」
佐伯も「短歌の当事者性」「歌壇の批評の不在」「が結びついているとする。これは僕も考えさせられたことで、既に記事にした。
・栗木京子 「身のめぐりからの発信を」
栗木も「短歌の当事者性」を問いかけ、「大学短歌会の相次ぐ結成」を新しい潮流として歓迎している。
2、 『短歌研究』 短歌年鑑 歌壇展望
これは佐佐木幸綱、三枝昂之、栗木京子、小島ゆかり。穂村弘の座談会である。
佐佐木は「短歌の当事者性」「過去のことを現在進行形で詠む問題点」「批評の不作」「結社と同人誌の問題」「短歌の国際化」に言及している。
三枝は「短歌には『ガイド役』が必要」とし、「当事者性の問題」に言及し、「批評の不在とは思わなかった」「ネット社会が盗作の温床となっている」と指摘した。
栗木は「批評の不在の問題」「若い歌人が<死>の問題に近寄り過ぎている問題」「結社の若返りについて『塔短歌会』の実例」の言及している。
小島は「結社の利点は様々な世代の作品が読める」と指摘したが、これと言って目立った発言はしていない。
穂村は「生き方を問うなら、太刀打ちできない」「当事者性の問題と文体の問題はセットになっている」とし、「同人誌の運営」について発言している。
『短歌研究』の座談会に関して言えば、「若手歌人が<死>の問題に近づいているのは、社会状況の投影があろう。日本経済が相対的に安定していた時代に出て来た栗木とは異なるのが当然だ。
穂村の「生き方を問うなら太刀打ちできない」という発言は、穂村の「底の浅さ」を露呈している。文体論でしか短歌を語れない穂村の弱点が見える。短歌の新しさや短歌の作品の優劣は、文体ではなく、表現内容と、対象に対する見方感じ方にある。文体は作品の表面的な形象であるということが理解出来ていない。
佐佐木が「視野を広げるのに、歌壇の狭い所に、閉じこもらないで、国際化で視野をひろげよう」と言うのは、一応もっともなことだが、それより先に、歌人が、現代詩から学ぶ方が先決だろう。
期せずして両誌の論点が重なった。だが気になることがある。今の社会状況から、「ナショナリズムの昂揚にどう対処知るか」が全く話し合われない。まるで話題になるのを避けているようだ。
「当事者性の問題」「ナショナリズムの問題」。これが歌壇の自主規制・タブーにならなないことを願う。
自主規制の問題は『現代短歌新聞』12月号で、大辻隆弘が「息苦しさ」という角度から問題提起している。