・陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ・
昭和九年(1934年)「白桃」所収。
先ずは、茂吉の自註から。
「『六月四日、舎弟高橋四郎兵衛が企てのままに蔵王山上歌碑の一首を作りて送る』といふ詞書を附けて置いた。歌碑建立はそのころ歌壇の流行になってゐたのでかういう企は儘く拒絶してゐたところ、梧竹翁の富士山上碑もあるのに、朝晩仰いで育った蔵王のお山に歌碑を建てない法はないと説得せられ、つひにこの一首を作った。『聳えたまふ』は、この山は出羽三山の『西のお山』に対して、『東のお山』であり、女人禁制の神山であったからである。歌碑のことを舎弟らはウタヅカと称してゐる。石工鈴木惣兵衛精進潔斎、蔵王ヒュッテに宿泊して日々山上に通ひ、八月廿九日、雲霧濛々たる中にその建立を成就したのであった。」
この歌に関して、佐藤佐太郎の『茂吉秀歌(下巻)』では次の様に記す。
「・・・・・歌碑を彫るために作った歌である。・・・・蔵王山は古は山岳信仰の対象の山で、出羽三山に次ぐ東北の霊山である。その麓の村に生まれた作者は少年の頃からおそらく二度か三度か登っている。その経験を現在にひきつけて、奥羽を太平洋側と日本海側と二つに分けるようにそびえている蔵王山に登って、今その雲の中に立っているといったのである。」
この一首の解釈をめぐって、いつも問題となるのは、「立っているのは誰か、または何か」ということである。斎藤茂吉がその時に立ってはいなかったので、「客観写生」としては「おかしい」と決めつけられることもある。だが、斎藤茂吉の写生は「客観写生」ではない。「虚」(=この場合フィクション)をも取り入れたものである。
事実、佐太郎も「作者は『写生』を作歌の信条としたが、写生はただ目前の事実にしばられるものでもない。ただ作者は自在の力量を所有していたから、蔵王山熊野岳の山頂に歌碑として立ったときの効果をも考えて、こういったことは確かである。」(佐藤佐太郎「茂吉秀歌」)
また、佐太郎は「虚について実を行う」とも同書の中で述べている。
現在でも未だにそれを理解せず、「分からない」と述べる歌人が少なからずいるのは、茂吉の「写生論」が、正確に理解されていない証左と言えるだろう。
なお、塚本邦雄の「茂吉秀歌ー白桃からのぼり路ー」では、取り挙げられていない。塚本にとっては「秀歌」の部類に入らないという判断があったのだろう。
だがこの一首は、歌人斎藤茂吉の世界観を表わすに足る、絶唱だと思うのだが、いかがだろうか。(斎藤茂吉と山岳仏教の関係は、岡井隆著「茂吉の短歌を読む」に詳しい。)
