・わくらばに吾に来るときそのすがたやさしくあらん夜の白雲
「帰潮」所収。1950年(昭和25年)作。
「わくらば」と言えば、「病気や虫のため変色した葉」のこと。しかし、古くは「まれに、たまたま」と言う意味で使われていた。
正確には「わくらばに」である。品詞で言えば副詞である。
冒頭の作品を「わくらばに」を「たまたまに」として、歌意を述べると次のようになる。
「偶然に私の方に来る時に、その姿はやさしいであろう 夜の白雲」
青田伸夫著「佐藤佐太郎『帰潮』全注」によれば、次の通りである。
「『わくらばに』は、まれに、たまたま、偶然にの意。古歌によく使われている。この一首、歌意難解で判じがたいが、相聞歌に通じるような甘美観がある。『夜の白雲』が何かを暗喩するようであるが、よくはわからない。」
同書は「歩道」の同人が、分担して「帰潮」を解説したもの。その同人達が「分からない」と言うのだから、現代のわれわれがわれわれの「読み」をしるしかないだろう。
一つのヒントとして、「帰潮」には次の一首がある。
・貧しさに耐へつつ生きて或る時はこころいたいたし夜の白雲
1949年(昭和24年)作。
佐藤志満編「佐藤佐太郎百首」によれば、
「夜の白雲であるから、月の星光の輝きがあったであろう。だがそのことには一切触れず夜の白雲を『こころいたいたし』といった。単純に表現しながら、生活者であり歌人である現状の苦悩が悲痛なまでに響いてくる。」とある。
「帰潮」は、その後記にあるように、「終戦直後の貧困」を主題としている。「貧しさに」で始まる作品をヒントにするなら、「夜の白雲」が、当時の佐太郎にとって、時別な意味があったのではないだろうか。
そう仮定すると、掲出の一首は、「夜の白雲」を見ながら、「貧困を詠嘆している」ということになろう。
ここから先は僕の想像になるが、佐太郎は「夜の白雲」を見ながら、貧困を嘆いていたのがろう。月を見る度に。つまり佐太郎にとって「夜の白雲」は、貧困の象徴ではあるまいか。貧困は苦しさを伴う。現代でも、列車の人身事故のニュースを聞かない日はない。
だから佐太郎の心としては、「夜の白雲」を間近く見る時には、美しくあって欲しい、やさしくあって欲しい、という願望、貧困を忘却する一瞬があって欲しいという願いのような心情を表現した作品ではあるまいか。