・いつしかに音むつまじく降る灰とおもひて聞けばときながく降る・
「群丘」所収。1961年昭和36年作。・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」118ページ。
佐太郎の自註。
「『音むつまじく』は明恵上人の歌に同じような用例があるのを心にとめていて、この時利用した。『むつまじく』というのがちょっとした工夫だろう。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
たしかに「音むつまじく」というのは、微かな音をたてて火山灰の降る音を形容した見事な表現である。『明恵上人の歌にあった』とあるが、何かで読んだり、どこかで見聞きした言葉が、いいタイミングで浮かぶことがある。
僕はこれを「言葉の引き出しを増やす」と勝手に呼んでいるが、つまりは『語彙を豊かにする』ということだ。自由に使える言葉が多いほど、表現の幅が広がる。そのためには読書が有効だ。
ノートに書きだしたりはしない。書きだすと右から左へ忘れてしまう。それより『いい言葉』にめぐりあったら、使ってみることだ。5・7・5・7・7の形にならなくてもいい。上の句だけ、下の句だけ、初句だけ、結句だけでもいい。そうすれば、単語単独ではなく、散文や句の形で記憶に残る。忘れたら忘れてもいい。これは英会話を習得したときの僕の経験則。
もともと言葉は、口に出したり、書いたり、読んだりするために生まれたものだから、言葉の本質にもかなう。忘れたら、自分の心に残らなかった・「自分の言葉」にならなかったと思えばよい。そのような言葉を器用に使っても、それは「借り物の言葉」に過ぎない。
さて冒頭の一首だが、僕は結句に注目している。「ときながく降る」。「降り続く」「しばらく降り来」よりこちらの方が断然よい。
「とき」は時間。時計で計るときには「長さ」が正確にわかるが、「ときながく降る」と言えば、時間の長さに主観がほどよく顔をのぞかせている。作者の感受があらわれている。こうした佐太郎の「文体の妙」について、岡井隆が尾崎左永子との対談で触れている。(「星座52号」)
「これが分からないと、佐太郎は分からない(笑)。」
この歌で具体・具象は「灰」だけ。あとは聴覚を中心とした体感である。「純粋短歌論」に「体験」の章があるが、体感も体験のうちにはいるだろう。ここがリアリズムと佐太郎の「写実」の違いだろう。「もの」を詠むのだけが「写実」ではない。