このジンポジウムは二部に渡っている。第一部が被災地の三人の歌人による「自作朗読+メッセージ」で、第二部は被災地の新聞歌壇の二人の選者による対談だった。
:第一部:「自作朗読とメッセージ」(メッセージより抜粋する)
1.斉藤梢:(コスモス)
「あまりの現状の凄まじさに、推敲もなにも必要なくなりました。ひたすら定型に縋り、自分の思いを歌にしました。」
「言いたいことや伝えたいことはたくさんあります。でも正直に言うと声にはなりません。」
(=生死の境にいる人は、しばしば言葉を失う。だが短歌という定型詩は、そういった時の「表現のための杖」になりうる。また心情を叙べる叙情に適した詩形であると僕は思う。)
「思いがけず宮柊二の『山西省』の歌が途切れ途切れに心に立ち上がってきました。」
(=宮柊二の「戦後リアリズム」は今回のような大災害の切迫した感情を表現するのに、これもまた適したものだと言えよう。)
「短歌を作るということで、何ができるのか、という問題ではありません。被災地にいる被災をした私たちがこれから担っていくものはなにか、それはたぶん短歌でなにができるかということではないと思います。」
(=震災後に担わなければならないのは、おそらく現実を直視することだろう。地震や津波への備えは万全かとか、原発は本当に「安全」なのか。こういったことを曖昧にせずに、リアルに検証することだろう。それは今までにはなかった、強い意志が必要だ。短歌を通して自己の意思や感情を凝視することでもあるだろう。)
2.柿沼寿子:(波濤)
「私はほとんど何も持たずに逃げました。でもポケットの中に小さなメモ帳とボールペンがありました。」
(=このときのメモがのちに作品化される元となるなるのだが、紙と筆記用具のみで作品が出来る短歌の特長と言えよう。)
「(そのメモは)身体の感覚を全部書き綴っていきました。そうやってことばを綴っていくということが、あとから考えてみると、私の正気を保たせてくれたんだと思っています。」
(=苦しい時に「短歌=歌」に助けられたという例も多い。短歌形式は感情を盛る器とも言えよう。)
3.小野寺洋子:(熾)
(=10首の作品の背景を述べながら、被災の凄まじさを生々しく伝えようとしていた。)
:第二部:「新聞歌壇と震災詠」(佐藤通雅、花山多佳子による対談:二人の発言をまとめて紹介する)
1・佐藤通雅:(路上)
「(3.11以降)今までに見られなかった震災詠、機会詠、あるいは時事詠が出てまいりました。おそらく新聞社でも気付いていなかったのではないでしょうか。」
「(3.11以降の新聞歌壇は)約二か月の空白をおいて再開しました。(その時は187通だったが)五月に入ってから投稿は増えはじめ、現在は230通から250通くらいでしょうか。」
(=ある程度落ち着いてから冷静に物事を見られるようになり、短歌という文芸作品に仕上げられるようになったのだろう。また投稿者が増えたのは、短歌を作る人が増えた事でもあろう。)
2.花山多佳子:(塔)
「戦争や兵役の体験が折々、農業の生活詠にも反映しています。生活の思想がある方たちが津波に遭われたという受け止め方として、高齢の方がたの歌に重みのあるいい作品が出てきていると感じました。」
(=斎藤茂吉や佐藤佐太郎の「歌論」の中心の一つに「体験」があるが、そうした重い体験が作歌の動機や題材となるのは、よくあることだ。体験が重いだけに作品の重量感も増すのであろう。)
「(しかし反対に)日常の歌が前よりも雑になっているという感想です。震災後は今までどおおり自然をうたうにしても、きれいだなと思った途端に放射能がよぎったり、天日干しも心配だとか、どうやって詠っていいか分からないので、一般的になったり、詠いにくくなったというんですか、何か、浮足立った感じはあります。」
(=このあと佐藤通雅も同様のことを述べるが、震災によって人間の心が大きく揺さぶられ、未だ落ち着かない所も作品に表れるのであろう。これがどう収斂していくのかはこれからの問題だ。)
全体的に深刻でまた短歌の本質を掘り下げるような話が多いようだった。この号の「特集」の「うたう☆クラブ・・・10年の軌跡」のライト感覚の「短歌」を大量に生み出したこの企画に参加した歌人達は、このシンポジウムの記事をどう読んだのだろうか。
10年という時間は、その企画の結果を検証するのに十分なものだと思うのだが、いかがだろうか。