岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

齊藤茂吉の戦後(第3歌集から第9歌集)

2010年06月05日 23時59分59秒 | 短歌史の考察
斎藤茂吉は第1歌集から第17歌集まで出している。といっても第17歌集は、没後に出版されているのだが、それにしても多い。

 しかし不思議なのは、第3歌集「つゆじも」から第9歌集「石泉」までの作歌期間が1918年(大正7年)から1932年(昭和7年)までであるのに対し、出版は戦後。それも1946年(昭和21年)から1950年(昭和25年)に集中している。短期間にバタバタしたなかで出版されているのである。

 それにもまして気になるのは、各歌集の「あとがき」での斎藤茂吉の言葉である。

「新聞に発表したものの他は未定稿で、そのうち火災で焼失していたのだが、あとから見つかった手帳の中に歌がかきとめてあるのがわかった。」(「つゆじも」)

「歌日記ていどのもの」(「遠遊」)

「遠遊の歌同様歌日記程度」(「遍歴」)

「飛躍は無かったが、西洋で作ったもののやうな日記の域から脱することが出来た。」(「ともしび」)

「作歌に(も)新しい経験を成らうとしたものだが、実行上はなかなかむずかしいことであった。」(「たかはら」)

 このように自信のない言葉が並ぶ。何より人口に膾炙した作品が少ない。「赤光」「あらたま」「白き山」のようなインパクトがない。

 これがどこから来るのかは今の僕には分からない。しかし、この時期にあったこと、アララギの再建・第二芸術論の嵐・岡井隆のいう「土屋文明によるアララギの戦後処理」・・・。

 これらがどこかで関連しているように思えてならない。いずれ詳しく調べることができれば、と思う。

 この時期、茂吉が佐太郎に「僕は看板だよ」と半ばあきらめたように語っていた(今西幹一・長沢一作著「佐藤佐太郎」)というのが非常に気になっている。





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