斎藤茂吉は第1歌集から第17歌集まで出している。といっても第17歌集は、没後に出版されているのだが、それにしても多い。
しかし不思議なのは、第3歌集「つゆじも」から第9歌集「石泉」までの作歌期間が1918年(大正7年)から1932年(昭和7年)までであるのに対し、出版は戦後。それも1946年(昭和21年)から1950年(昭和25年)に集中している。短期間にバタバタしたなかで出版されているのである。
それにもまして気になるのは、各歌集の「あとがき」での斎藤茂吉の言葉である。
「新聞に発表したものの他は未定稿で、そのうち火災で焼失していたのだが、あとから見つかった手帳の中に歌がかきとめてあるのがわかった。」(「つゆじも」)
「歌日記ていどのもの」(「遠遊」)
「遠遊の歌同様歌日記程度」(「遍歴」)
「飛躍は無かったが、西洋で作ったもののやうな日記の域から脱することが出来た。」(「ともしび」)
「作歌に(も)新しい経験を成らうとしたものだが、実行上はなかなかむずかしいことであった。」(「たかはら」)
このように自信のない言葉が並ぶ。何より人口に膾炙した作品が少ない。「赤光」「あらたま」「白き山」のようなインパクトがない。
これがどこから来るのかは今の僕には分からない。しかし、この時期にあったこと、アララギの再建・第二芸術論の嵐・岡井隆のいう「土屋文明によるアララギの戦後処理」・・・。
これらがどこかで関連しているように思えてならない。いずれ詳しく調べることができれば、と思う。
この時期、茂吉が佐太郎に「僕は看板だよ」と半ばあきらめたように語っていた(今西幹一・長沢一作著「佐藤佐太郎」)というのが非常に気になっている。