数年前の神奈川新聞の小コラムに、新聞社主催の賀詞交換会で交わされた会話が書かれていた。執筆者は文化部の記者だったと記憶している。
当時の新聞歌壇の選者と、おそらく入選の常連投稿者の次のような会話だ。
「どうしても説明になっちゃうんですよね。」
「ええ。」
そこで新聞記者は思う。
「うらやましい話だ。新聞記者はいかに分かり易く説明するかに、頭を悩ますのに。」
半分はユーモアだろうが、「詩的に表現する」とはどういうことかという問題とかかわって、ただのユーモアでは済まない場合もある。
言葉が足りなくては、何を言っているのかわからない。表現が曖昧なのだ。逆に言葉が多すぎてはただの説明に終わってしまう。短歌は詩である。伝達すべきものは情感であり、情報ではない。特に「社会詠」の場合、陥り易い落とし穴だ。
だからこの問題は詩とは何か、ということにかかわってくる。
僕は詩としての最低条件を次のように考える。それは三点。リズムと余韻、それに印象である。茂吉と佐太郎の歌論の核心部分でもある。
短歌の場合5句31音という定型を持っているから、もともとリズム感はある。言葉の調子といってもいい。強い調子、なだらかな調子、屈拮感のある調子。一首のなかの抑揚といった点も見逃せない。(「声調論」茂吉・佐太郎)
次に余韻。表現は的確でなければならないが、全てを言いきってしまっては、余韻がない。かといって言葉足らずでは、情感が伝わらない。「写実歌」の場合は「景がたつ」ということが目安となる。「思いあまって言葉足らず。あとは読者に感じ取ってくれ。」というのは、ひとりよがりである。適確に言葉を選んでいるかが鍵となる。(「散文との違い」佐太郎)
最後に印象。これは「言葉の選択が適切か」ということと関連する。言葉が適切であれば、印象鮮明に表現できる。佐佐木幸綱は「イメージを結ぶ」という。「写生・写実」でなくとも詩には必須のことらしい。(「印象鮮明なるがよし」茂吉)
この三点を押さえておけば、「説明的」な状況は回避できる。
ところが、「情景描写」を「説明」と区別の出来ない人がいたりすると話はややっこしくなる。そういう人の作品は大抵、言葉足らずになる。
余韻を活かそうと思って、余剰を捨象(斎藤茂吉や佐藤佐太郎はこれを「単純化」と言った)しても、「もっと詳しく知りたい」などと言いだす参加者がいるとさらに厄介である。そういう人の作品は大抵、言いすぎ・説明になる。
読者が様々な想像・連想ができるように、しかも作者の意図が伝わるようにするには、印象鮮明・言葉の的確さ・余韻が必要である。これが、なかなか難しい。だから誰でも陥り易い。
これは「隠れた落とし穴」と言えるが、この落とし穴にベテランで歌歴の長い人や大ベテランが陥ることもあるので要注意である。
短歌を本格的に始めるときに、「余剰の捨象」が必要と言われた。「捨象」というのは哲学用語。大学時代に畑違いの哲学書をサークルで読んだとき、この言葉の意味を理解するのに偉く時間がかかった。なぜなら、みな畑違いであったから。だが好奇心旺盛だったので、時間をかけて理解し教え合った。
好奇心旺盛な大学時代に、畑ちがい書物を様々読めたのは何よりの幸いだったかも知れない。