岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

「短歌研究」8月号:特集1・戦争と短歌

2012年07月29日 23時59分59秒 | 総合誌・雑誌の記事や特集から
「短歌研究」8月号は毎年、戦争関連の特集を組む。今年はノンフィクション作家の梯久美子と歌人の篠弘との対談を中心に、論考8編が掲載された。

 先ずは梯久美子と篠弘との対談から。対談全体を通して梯が篠の話を聞くという流れだった。そこでここでは篠の発言を先にまとめて、そのあとで梯の発言のうち注目されるものを一つ挙げてみようと思う。


対談の主題:「戦争を短歌はどのようにうけとめたのか」


:篠弘:

「(日中戦争・渡辺直已の歌)日中戦争が始まる昭和12年7月、その前段の歌壇状況を簡単に言うと短歌がいくぶん停滞していた時代だった。昭和10年白秋の雑誌『多磨』が創刊されたのだが、有力な国文学者からいわば短歌滅亡論出ていた時期だった。風巻景次郎が『短歌と雖も終焉を遂げる時はあると』いう論文や、斎藤清衛という中世文学者から『短歌は進歩するもので無い』というような、いかにも低迷した時代と決めつけられた。」

 (=短歌滅亡論は何度か表れているが、この時期がそうだったのは、大正デモクラシーという政治文化の民主義的傾向とは正反対の「短歌とは古いもの」、「封建的」という捉え方が一版的だったからではないだろうか。)


「(戦争が始まり斎藤茂吉は)ニュース映画をことごとく見に行ったらしい。・・・ニュース映画を見て(短歌を)作っている。戦争の臨場感を歌に持ち込む、そうすることによって歌の勢いをつける。そういう写実的な臨場感の表現を指導者の茂吉も、一会員の渡辺もやったのだ。」

 (=映像短歌は写実派の中では評価が低いがこの辺に事情がありそうだ。映像はマスコミによって提供され、しばしば世論を誘導する。戦時下のニュース映画が、たやすく偏狭なナショナリズムと結びつきやすかったのは想像に難くない。)


「(出征と帰還・除隊を考えると)渡辺直己、宮柊二、川口常孝とちょうどつながっている。・・・・「コスモス」の宮の直系のお弟子たちは、先生である宮が兵士として敵を殺したというのを認めたくないのだ。・・・(宮柊二の『山西省』の作品には)歌が一種のドラマティック、劇的要素持っているという瞬間だ。)

 (=宮柊二などの戦場のリアリティは貴重な記録だが、抒情詩としてはどうなのだろう。佐藤佐太郎とは対照的だ。どちらが優っているかの問題ではないのだとは思うが。)


「短歌というのは絶えず、読んでくれる自分の周辺の人たちの表情が見えている。」

「歴史に残るというのは一種の結果論であって、そんなに気負って一つの場面を詠むなどということはできない。・・・・・そんな気負いなどがあったときには、この短い詩型での完成度、成熟度を持たないね。」

 (=「歴史に残る」というのが「結果論」というのは僕も賛成だ。また読み手の表情が見えるとは、作品の表現するものが読者に伝わるかと常に作者が考えているいうことだろう。)


「(戦時中は)表向きの歌、ようやく我が家に一人、お国のために役に立つ一人を送り出すことができた式の、そういう建前の歌がやたらはやった。」

 (=戦争熱を煽る歌とは、こういった類のものだったのだろう。表向きの歌=儀式歌だと僕は思っている。)


「(窪田空穂の詠んだ歌は)大柄な写実だけれどもやはり(戦時下の絶望に近い思いが)出ているね。」

 (=「儀式歌、表向きの歌」の正反対の本音の歌と言えるだろう。だが本音をそのまま出したのではない。そのようなものを作ったら治安維持法で引っ掛けられただろう。)


「口語的な発想、口語自由律的な発想の歌が一時より、震災後、減っている。口語はどうしても幼い感じに見える。」

 (=この後、話は「過酷な現実を詠む」「歌の力が試されるとき」と言う具合に締めくくられていくが、これは現実を直視するということに他ならないと言えよう。)


:梯久美子:

「小説やノンフィクションにおいては、戦後になって、日本兵はこんなにひどい事をしたんだと告発するもの、あるいは自分自身の事として告白したものが多くある。」

 (=宮柊二の歌集「山西省」の作品以外にこうした短歌が残されている、と言う話を僕は知らない。)


 座談会の全体を通して、やはり歌壇には積み残したもの、例えば、戦時下において戦争を煽ったことへの総括や、アジアの諸民族にとっては日本は加害者だったことについての十分な認識に欠けているところがあるのではないか、と改めて思った。

 なお、これに続く論考8編は当時の出版事情などに言及せずに、結社誌の「苦労話」の様なものが多く、残念だった。





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