「ブナの木通信」『星座』81号より (作品批評)
「短歌は叫び」と規定したのは伊藤左千夫だが、島木赤彦と斉藤茂吉は「僕らはもっとシミジミとした情感を表現したい」と言って激しい論争をした。
今号は静かに深い情を表現したものが多かったように思う。
(蕾のほぐれ行く椿に自分の生きる有様を重ねた歌)
上の句の表現がゆるやかであり季節感がある。下の句に独自性がある。自身の過去と現在に思いを馳せている。そこが深いところだ。
(百歳の恙ない幸いを思う歌)
作者はかなりの高齢だ。しかし、老いにありがちな愚痴がない。老いを詠うときに心がけたいと思う。
(銅鐸の音の冴える出雲の歌)
陰暦の十月を神無月という。諸国の神が出雲地方に集まるという考えに基づいている。よって出雲地方では神在月(かみありずき)という。歴史と伝承を想起させる作品。上の句の命令形と下の句の語気の勢いが作品に厚みをもたせた。
(曼殊沙華の緋色の花に人間の業を思う歌)
上の句、曼殊沙華の描写に活力がある。そして下の句、自分に対象を強く引きつけている。この作品にも厚みがある。
(窓近く咲く椿の花が何かを告げているように感じる歌)
下の句に擬人法が使われているが、それほど目立たない。「擬人法は言葉を飾る」と指摘されることが多いが、使ってはいけないということではない。一首の中に馴染んでいるかが問題なのだ。
(坂を下る真向かいに見える桜島の歌)
地方色が出ている。そして桜島の雄大な姿が顕ちあがってくる。この雄大さも作品の奥行を深くしている。
(肉を食べてやましく思いつつ刻みキャベツを食べる歌)
(廃業した友の店の前で佇む歌)
この二首も佳詠。
*紙数の関係で批評できなかったので、ここで批評する。
一首目。やましい思いは動物の肉を食べ殺生をしているからだ。そこで作者はサクサクと刻みキャベツを食べる。この音で作者の心が救われていく。生きとし生けるものの命に思いを馳せている。
二首目。
友人の店が廃業した。不景気のためか病気のためか。それは分からない。だがその友人が店をたたみ職を失ったのは確かだ。友人はどうしているがろうか。作者が友人を思いやっている心情が伝わってくる。そこに社会を見る作者の観点がでている。
(今号は選歌に迷う場合が多かった。6首掲載を基本とするので割愛したものも多い。「星座の会」の会員の作品のレベルがあがってきたのだ。)
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