岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

霧が丘短歌会2017年3月

2017年03月30日 17時39分11秒 | 霧が丘短歌会
霧が丘短歌会 2017年3月 於)団地集会所 3月27日



 霧が丘短歌会の会員には初めて短歌を創作する会員が少なからず居る。だがその会員も含めて、作品の質が向上してきた。5・7・5・7・7の定型を修練する時期は乗り越えた。表現しようとする感動の中心も明確になってきた。


 なにに感動し、読者に何を伝えたいのか、ハッキリ意識できるようになった。だから僕の批評の言葉もそれなりに高いものを求めるようになってきた。

 叙景歌あり、社会詠あり、心理詠もある。擬人法、比喩のありかたも規則があって不変のものではなくて作品によるということも理解されてきた。


 言葉のやりくりはまだまだだ。しかし表現したいものが定まってきたのは大きい。かつて手塚治虫が漫画の新人賞の選考をするとき、「何よりも作品の発想、案なんだよね。」と発言したことがある。技術は学習で身につくが、感じ方は学習では身につかない。理屈を排し抒情の質を定めること。これができ始めた。


 学習で後天的に身についたものではない。感じ方が磨かれてきたのだ。心がけてほしいと普段から言っているのは、「読者に伝わるように」「言葉を飾らないように」「自分の心の動きを冷静に振り返るように」。


 参考資料として今月は岡井隆の1970年以前の作品を紹介した。前回の塚本邦雄、前々回の寺山修司。この前衛短歌の3人の作品に、人間や社会への深い洞察と思想性があり、印象が鮮明なもの、連想が働くものを、作品に基づいて解説した。そのせいか「塚本邦雄のような短歌を作ってみたい。」「岡井隆や塚本邦雄の作品にこういう言葉の使い方がある。」と発言する会員はいなくなった。前衛短歌の作品の高さがわかったのだ。


 前衛短歌のような作品が作れれば作ればいい。だがそれが難しいのは感じられたと思う。だから意味がすぐ取れない作品を評価したり、「意味の分からないところがあるのがいい短歌だ」というような無責任な発言はしなくなった。だが事実をそのまま定型に収めても作品としては質が高いとは言えない。これが共通認識になってきた。


 引き続き会員を募集する。(連絡先連絡先045-922-5542 岩田自宅まで。)





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