戦後の思想の混乱と短歌の否定。短歌的抒情の否定と言い換えられるが、このことについて少しまとめてみたいと思う。なぜなら、短歌という短詩形の本質にかかわることだからだ。
「社会現象や個人の言動の原因は、それが顕在化するよりずっと以前にある。」
というのは、確か大学時代の「歴史学概論」と「教育学概論」で聞いた言葉だ。
「戦後の思想的混乱」の原因は戦前にさかのぼる。治安維持法によって、当時の非合法政党は徹底的に弾圧された。治安維持法の最高刑は死刑である。
その非合法政党は現在でも同じ党名だから、すぐおわかりになるかと思う。第一次の結党が1922年。弾圧ののち1924年に解党。第二次の結党が1925年。ところが、第一次結党に加わった活動家のうち、第二次結党に加わらなかったものも多かった。(荒畑寒村著「寒村自伝」)
第二次の政党の活動家としては、野呂栄太郎・岩田義道・小林多喜二などがいた。野呂は「日本資本主義発達史講座」の編集の中心になるなど、理論面のリーダー。岩田義道は日常の活動の中心的役割を渡辺政之助とともに担った。小林多喜二は文化分野での影響が大きかった。「蟹工船」の作者として知られ、文壇での評価が高いのみならず、北海道で実際の政党の活動にも加わっている。
この三人の役割がいかに大きく弾圧がいかにきびしかったかは、この三人が揃って「獄死」していることでもわかる。「 」づけにしたのは、岩田義道と小林多喜二の二人は特高(内務省管轄の特別高等警察)の拷問によって殺されているからである。拷問のあとが生々しい遺体の写真が掲載された写真集を、いま僕は手に持ちながらこの記事を書いている。
この政党のほかの幹部で獄中の非転向を貫いたものは、長いもので12年に及ぶ獄中生活を送った。(宮本賢治・宮本百合子著「十二年の手紙」)
戦後の思想的混乱のひとつはここに原因がある。終戦とともに出獄して、活動に復帰した生き残りの幹部たちは、長年社会と隔絶されていた。世の中の動きとずれていた面があった。(当該政党の「党史」、党幹部の「回顧録」)
ここで思想的混乱のひとつが顕在化した。たとえば1949年、芦田内閣が疑獄事件で倒れたあと、第2次吉田内閣のもとで行われた総選挙で、この政党は35議席という躍進を遂げたが、この党の周辺で根拠のない「9月革命説」が流布されたこと、当時の指導部の間で思想・理論問題は軽視され、理論的論争をしようとするものには、「理論拘泥」とレッテルが貼られ、かなり乱暴な党運営・指導が行われていた。(「党史」「回顧録」・石堂清倫著「わが異端の昭和史」)
歌人の坪野哲久がこうした事を背景に「人民短歌」内部で、「封建的・プチブル・分派」などと排撃されたのはこのあとの時期である。(山本司著「評伝・坪野哲久」)
ここでは、この政党への批判を目的としてはいない。戦後の「第二芸術論」とあいまって、短歌のあり方が思想的混乱の中で問われ、「短歌的抒情」が全否定されかねない状況にあったということである。
また「歌人の戦争責任」を問う動きも活発な時期もあったが、斎藤瀏など三人が公職追放になったものの、その他の歌人については、「責任を問う側も、多かれ少なかれ戦争に協力していたために、責任を問う一線を引けない状態でなしくずしに終わってしまう」など混乱を極めた。(品田悦一著「斎藤茂吉」)この時期の短歌をめぐる思想的混乱については、岡井隆著「私の戦後短歌史」の中でも述べられている。
そして「レッドパージとまったく対照的」に戦争責任者の追放が解除となった。(神田文人著「昭和の歴史8・占領と民主主義」)
歌壇の戦争責任については、「短歌研究・2010年8月号」に本格的な特集が組まれ、多方面から論じられている。しかし戦後65年を経てなお未決着な部分が多いと僕は思っている。