・陸(くが)果つる海の光に草山は黄すげの花のかがやくあはれ・
「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」117ページ。
佐太郎の自註から。
「昭和36年、本州の北端竜飛崎に遊んだときの作。崎の黄菅(浜萱草)の花がたくさん咲いていた。その明るさを海の光と関係あるやうに言ったのは詩の方法である。この歌も歌碑になって崎に立ってゐる。」(「及辰園百首自註」)
「灯台のある崎の草山だが、季節だから黄菅(カンゾー)が咲いていた。< 海の光に ><黄すげの花のかがやく」のは、そんなに判然としているかどうか、わからないが、このように二つのものを関係があるように言うのが、詩の味わいである。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
地理的には津軽半島は「北の果て」ではない。下北半島の先端のほうが緯度が高いし、さらに北海道もある。しかし、それは地図を見ての知識であり、現地に立つと「北の果て」という感がする。それを「陸(くが)果つる」と端的に表現した。そこに黄すげの花が咲く。まるで海の光に照らされるように。
黄すげの花の群落は本州の高山でも見られるが実に見事な色だ。仮に霧が流れている曇り日でも、明るく輝く。この作品の場合、海の光が花の光となっているようだという作者の主観・捉え方が活きている。「陸(くが)果つる」の初句で、荒涼たる景が浮かぶ。曇天もしくは海が荒れているか風が強いか。いずれにせよ荒涼たる情景である。
青函トンネルの掘削開始は、1964年(昭和39年)8月で東京オリンピックの直前だから、この作品が作られた頃はまだ寂しい竜飛崎である。遠くに北海道がかすかに見える。それがさらに「北の果て」という情感を強める。
かつて茂吉は稚内の浜に干される昆布を次のように詠った。
・太々としたる昆布を干す浜にこころ虚しく足を延ばしぬ・(「石泉」)
1932年昭和7年のことだから、海の向こうにはサハリン(南半分は日露戦争後日本領だった)があった。それでも「北の果て」という印象が強い。
北の果ての荒涼として寒々とした景に情感を感じるのは、時代をこえた普遍的な捉え方だろうか。北国の自然は厳しい。茂吉・佐太郎という二人の詩人はその景にみずからを一体化させるような感情を抱いたのだろうか。
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