岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

「短歌研究」4月号:「口語と文語、新仮名と旧仮名」

2011年03月30日 23時59分59秒 | 総合誌・雑誌の記事や特集から
「短歌研究」4月号。特集・「口語と文語、新仮名と旧仮名」を興味深く読んだ。20人の論者が、自分の体験をもとに論を展開している。そのなかで印象深いものを挙げてみる。

・定型の力(田村広志):「文語口語交じりの新仮名遣いで作歌する。使えない「ゐる」などは「坐る・いる」とルビをする。いくつかのカルチャーで作品をみているが、ほぼ文語口語ミックス形で、聞いてみると初めて歌を作ると言う人は口語派が多く、文語派は学校などで短歌を作った体験のある人で、定型を日常感覚で使う派と、その心得のある派だ。」

・短歌の文体(青木春枝):「私はこと短歌に関しては文語体で歴史的仮名遣いがよいと思う。ただ21世紀の現在、文語体や歴史的仮名遣を目にすることは稀になった。これから短歌を始める方は口語体の現代仮名遣でよいと思う。文体は自ずから短歌にふさわしい形へ納まってゆくはずだ。」(=納まるべきところに納まるのは僕の経験則からも言える。)

・「現代の文語体」を(大山敏夫):「仮名遣い表記を変えただけで、作品そのものの価値も動いてしまうという事はないし、・・・文語と口語のコラボは別段たいして問題でないと思う。」(=ことさら問題にする人もいるが、そういう人がいる限り短歌はサブカルチャーか高齢者の手慰みになり果てる。)

・ミックス文体の醍醐味(春日いづみ):「一行に口語と文語が混ざり合った時に古い言葉が鮮やかに蘇ったり、手擦れた会話体が不思議な雰囲気を醸したり。口語と文語の繋がり方ひとつで一行が無限に広がるかのような思わぬ作用が生じることがある。」(=けだし名言だ。)

・口語の甘み 文語の苦み(間ルリ):「急速に新語、俗語、外来語の流入する中で< すがたよく >歌を作っていくのは難しい。若手歌人は< ブログに書くように短歌を書く >と言うが、少し芸術性を考えてもよいと思う。」(=少しではなく大いに考えるべきだ。高瀬一誌が泣いている。)


 ちなみに僕は「ミックス文体」と呼ばずに、「混合文体」と呼ぶことにしている。「ミックス文体」では何だか「ミックスジュース」や「ミックスナッツ」のようにお手軽すぎると思うからである。


 最後に「特別論考」について。煩雑だと思った。評論ならもっと理論立てて書くべきだろう。「いちゃもん」「はあ」「やれやれ」といった俗語からは、論考の真面目さが感じられなかった。なぜなら泥試合になる可能性があるからである。読まずに飛ばした。



付記:< カテゴリー「総合誌・雑誌の特集や記事から」「短歌の周辺」「短歌史の考察」「口語と文語をめぐって」「新カナ・旧カナ」 >をクリックして、関連記事を参照してください。

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