「夜の林檎」所収。
僕が幼児期を過ごした家の門の脇には、一本の八手が植わっていた。大人の背丈にも満たない低いものであるが、子どもにはほどよい高さだった。
八手の葉でよく遊んだ。団扇のかわり、傘のかわり、皿のかわり。万葉集の有馬皇子の作品は、
・家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る・
だが、僕らには、「八手の葉に盛る」だった。もっとも盛るものは「泥団子」だったが。
15歳の時に転居したが、十数年後に訪ねたとき、八手の木はまだそこにあった。そして小さな花が。とりわけ美しいというものではないが、その八手の花が少年期の記憶を蘇えらした。「人にとって特定のものが、記憶のスイッチを入れる働きをするものになる場合もある」と、ある本にあったが、僕の場合はそれが「八手」の葉であるようだった。