「運河」誌上の<選歌余滴>(選者が注目した作品をとりあげる欄)についてはたびたび書いてきたが、この一首は二回目か三回目にとりあげられたものだった。
選評はたしか次の様なものだった。
「森に幾百の鳥が飛んでいる。何の鳥でもいいがとにかく飛んでいる。その躯を見たことがないという。言われてみればその通りであるから小気味いい。」(「運河」)
というものだったと思う。「何の鳥でもいい」が一首の大事なところ。「躯(むくろ)を見たことがない」というのが感動の中心だったので、鳥の名は捨象した。
「星座」の尾崎左永子主筆の言葉を借りれば「何が大事で何が大事でないかを判断」したのである。それが成功したのが嬉しかった。
この一首は家族の間での何気ない会話がもとになっている。僕の住んでいるマンションは郊外の森や林に囲まれているが、ある日次のような会話があった。
「この辺の林には鳥が多いけれど、鳥の死骸を見たことがないねぇ。」
「こんなに鳥がいるのにねぇ。」
「不思議だねぇ。」
一つの発見だった。そういう発見を詠み込むこと、中心でないこと(この場合は鳥の名)は「削ぎ落とす」こと。この大切さを心に刻むことになった印象深い一首である。
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