じいの徒然日記

内野聖陽さんにfall in loveしたじいのおバカな毎日を綴った日記

アンナ・カレーニナ

2011-02-07 23:51:24 | 観劇記
2月5日ソワレの観劇記です。

初演は2006年、1回きり、しかも最前列という極端な観劇 当時はあまり好きな演目じゃなくて……というのも、どっちつかずな身勝手としか思えないアンナという女性がとにかく大嫌いだったので(同じ自分勝手でも我を貫くシシィみたいな方がサッパリしてて好きなの~)それから5年……まだまだ全然足りないけど当時よりは一応 観劇の経験値が しているのか、初演では気づかなかった作品の魅力を味わえたような気がしました。なかなか良いかも~~この演目 ま、相変わらずアンナは嫌いだ~というところは変わらないんですけどね 以下、曇りない目で感じたままに。。。それと、このアンカレという作品は、文学的な位置づけ、歴史的背景(女性史とかロシアの農業社会とか農奴解放とか)、哲学、宗教、いろ~~んな角度から論じることが可能だと思うのですが、そういう面倒なことはこの際なので取っ払って、純粋に1つの舞台作品の感想としてフリーダムに語りたいと思いま~す

今回はクリエでの上演。音響の調整が悪いのかマイクを通した音(出演者&オケの両方)が人工的で何か耳障りで気になりました でもビッグナンバーが多いミュージカルというよりは音楽劇、いや音楽付きのストプレと言ってもいい演目なので、ハコ的にはクリエでも悪くないのかな~と。開演前から幕は開いたまま、舞台上は椅子やオットマン等が置かれたサロン風になっていたのですが、それを見た時に舞台の中身が完全にぶっ飛んでいて忘れているかも~という危機感がいきなり襲ってきて でもナマで観ていると覚えているものなんですね~~冒頭の駅のシーンを見てすぐに思い出しましたわ ビバ、自分の記憶力!それと、今回は13列目センターで全部を見渡せる観やすいお席だったので、照明効果を存分に堪能できてアンカレの世界観を楽しめて良かったですね~~特にラスト。アンナが汽車に向かって飛び込んでいく場面、かぶりつきで観ていると流れ的には自殺するって分かるんだけど目の前で何が起きているのか「……ん?」という感じだったので。

この話、どーしようもなく悲惨な話なんだけど、今回観ながらふと思ったんですよね~~もしブロンスキーがあの時アンナの危機を察して戻っていたら?もしカレーニンが素直にアンナに接していたら?もしアンナが周りの人たちの愛情に気づいていたら?様々なifが頭をグルグル ハハハ~~ifが全部叶っていたら物語が存在しないんだけど(笑)それに、特に終盤のアンナを見て思いましたが、自分で勝手にアレコレ考えて答えを出していることって結構あると思うんですよね~~そして、第三者的に見たら即それは杞憂だ!と分かることだったりするという。。。実際に面と向かって腹を割って話してみたら意外に良い結果を導き出せたりすることも多かったりするものだし でも、そういうボタンの掛け違いは決して珍しいことじゃない……それとどう折り合いをつけて生きていくのか?というのが人間の宿命なのかもしれないな~と思いました でもね~~やっぱりアンナは嫌いだぁ~~ 子供を置いていくことも不倫することも、じいは世の中が求めるような常識に沿って普通に生きることに美徳を感じていないので別に何とも思わないんだけど、それはそれなりの覚悟を持って行った上での話であって、自分が行ったことに対する報いを受け入れられなかったり、こっちがダメならあっちという感じでフラフラされるのは、ただただ気分が悪いだけ。こういう女性、一番嫌いなのよぉ~~ もうぅ~~最後、ブロンスキーからの手紙に絶望していきなり「セリョージャに会いに行かなくては!」……思いっきり引いちゃったぞ~~ やっぱり子供を置いていったことはどんな言い訳や理由を付けても許されることじゃない、置いていった事実がある以上はどんな状況になっても受け入れる覚悟と諦めがないと子供が一番可哀想。

でもね~~こういう風にしか生きられない宿命の女性というのがいるんだな~と思ったんですよね。先日ある読み応えのある感想に遭遇したのですが、そこに「幸せになり得ない人物」と評されていてなるほどな~と。2幕のアンナとキティのデュエット それぞれ好きな人ができて知った愛の存在を歌っているのですが、2人の愛の意味は正反対なんですよね~~キティが歌う愛は容易に想像するに足る の喜び。好きな人ができて希望の未来が待っていて。。。でもアンナが知った愛は違うんですよね。何か逆説的というか……カレーニンと恋愛が何たるかを知らずに結婚して、ブロンスキーと出会うことで人を好きになる、愛するというのはこういうことだ!というのを知ったけど、前向きな愛よりも恋愛に伴う不幸の方をより強く知ってしまった……この作品全体、二組の対照的なカップルを描いているんだけど、今回はこのデュエットでの歌詞のやりとりが凄くすご~~く印象に残りました。

キャスト感想 やっぱり一番オイシイ役はカレーニンよね~~初演の時は最初は酷い男だな~とムカついていたんだけど、今回は隠れた愛情度 だった感あり 登場シーンから言葉の端々にアンナへの愛情が溢れていてもどかしくて アンタはバカだよ~~と頭を叩きたくなっちゃった でもそれは演じられている山路さんが演じてこそ醸し出せているものだと思うんですよね その空気感が漂っていたからこそカレーニンの心が伝わってきたんだと思うのよね。なので、最後の最後で泣いちゃったの~~っていうか実は泣いたのは唯一ココだけだったんですけど(爆!) これ、初演の時の泣きツボと同じだわ(苦笑)スティーバがブロンスキーとの間にできた娘を引き取ったことを話した時にウルウル 幸せカップルの葛山レイヴィン&遠野キティは非常に微笑ましく……存分に笑わせていただきました 葛山さん、歌が上達していましたね~~遠野さんは星組公演のスカピン以来。スカピンの時は典型的な娘役らしからぬ娘役だったけど(妙に大人っぽかった)今回は声が高くてフワフワした感じでびっくり。周りの雰囲気が変わるとこうなるのかな???ハッピーな明るい場面、さすがに2幕後半はその“ぶっ飛び感”がしつこくてお腹いっぱいになってどーでもよくなった感はあったんだけど、それでも初演のキティに比べたら……ねぇ

伊礼ブロンスキー、、、今まで尽く見逃していたので今回やっとこさナマで観られました~~が!!!ゴメンナサイ 伊礼君に罪はないのです、じいの好みの問題だと思います、、、ダメでした ブロンスキーが出てくる度にイライラ感が 別にアンナに感情移入しているわけじゃないんですけどね~~それでも相手が自分の好みじゃないと許せませんでした。ホント申し訳ないっっっ ただね~~好みとは別問題で言いたいことはあるのよ~~1幕の冒頭は良かったと思うんです。社交界のアイドル、貴族の婦女子が騒ぐというのに説得力のある存在感を感じました。でもね~~どうせならそのまま軽薄な部分を持った男のまま貫いた方が良かったと思うんですよね。あるいは本気でアンナを愛し抜くことを表したいならもっともっと一直線にのめり込む熱さが欲しかった。軽薄なのか本気なのか曖昧すぎてブロンスキーの言動がブレてくるように感じてイマイチ話の中にのめり込めなかったです。それに熱さが足りないのよね~~緩急のついた激しい役どころだから上りつめて落ちていく様が凄く平面的&表面的。カレーニンと対峙する場面でも、カレーニンが嫉妬するほどの若さが織り成す眩さや熱さがあった方がいいと思ったんだけど……う~~ん あ、誤解なきように言いますがじいの愛人(笑)と比べているわけじゃないですよ~~5年前にそこまで彼が演じられたかどうかは?なので。それに思い出は美化されるものなのでねぇ

思い出が美化……か 実はそれを感じたのが一路アンナでした。初演の方が良かったと思うのよね。1幕よりは2幕の方が良かった……1幕の最初の方は今までのコンサートで感じた所帯じみた馴れ合いのように感じたところがあったので。でも話が進むにつれて休業前の感じが戻ってきたようでホッとしました スポットライトに負けない存在感、やっぱりそういうのが似合う人なんだな~と思ったし、歌詞を歌う役のセリフとして聴けるミュージカル女優、、、センターを張っている他のミュー女優@東宝ミュー限定だけど(爆!)他ににはいないと思うから。ただね~~どうにもしっくりこないところが多々。スポット的には良いんだけど、全体で見ると役のキャラクターが一貫していなくて不安定、途中でアンナの仮面が頻繁に剥がれるのがどうも気になるというか……アンナというキャラクター、常識の塊で誰もがあこがれる貞淑な貴婦人が恋する心を知ることによって落ちていく様が見所なのに!!!理性と本能の緩急と落差が曖昧すぎ、凄く振り幅が小さいんです。貞淑な貴婦人、それにしてはセリョージャとのやり取りは庶民的だしスティーバやキティの前で可愛くはしゃぐところがうーん???その可愛さ→後に目覚める女性“性”の部分かと言えばこれまたうーん???1幕でブロンスキーに誘われる度に、惹かれているのに理性が止めるから拒む、、、拒むところは良いにしてもその裏に隠された本音の部分が全く感じられないんですわ。だから激しい力に我が身を掠め取られた後にズドーンと落ちていくところが観ていて物凄く居心地が悪かったという。。。2幕ラスト、最大の見せ場、「セリョージャ」を歌いながら汽車に飛び込んでいくところも初演での涙と鼻水にまみれての熱演を観ているだけに 今回は舞台から少し引いて観たことでアンナにスポットが当たった瞬間の存在の意味 みたいなものを考えることができたんですわ。普通に考えたらどう見てもお前が悪いだろう~~な女性なんだけど、何もかも失って、あるいは自ら捨てた絶望の果てに、最後の最後で残り決して消えなかった母性→セリョージャの愛、これは誰にも否定や非難ができないような絶対的なもの。それを有無を言わさない感じで圧巻するほどのエネルギーで伝えてほしかったんだけど……ってか初演の時はマジ圧倒されたから。でも、今回はメーターが振り切れるほどの圧倒はされなかったかな~というのが今回の感想。何だかね~~ギリギリまで追い込んで演じるところが好きだっただけに、本当はそうじゃないんだろうけど「ここまで」という少し引いた部分に収まっているような演じ方が残念 過去の面影に拘ってはいけないのかもしれないけど、それならベテランとしての深みや余裕がそうさせているのか?うーーん、申し訳ないけそれも違うと思うな~~別の方向にのりしろが広がっているとは思えなかったから。。。
コメント (2)
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