7月2日ソワレの観劇記です。
1週間ぶりの脳内劇場
今回は中ほど辺りの下手側から観劇。初日、2回目とは違う視界で全体を見渡せた分少し突き放して観ることができたのが良かったです。特にルネとソンが同じ程度で視界に入る構図は2人のシンクロ性とアシンクロナス性を感じるので目に心に突き刺さってくるものが半端なくて
やっぱり最終的には脳内劇場に取り込まれてはいたのですが(苦笑)作品の構造とか登場人物の心の方向性とかセリフの重なり合いとか……今まで入り込みすぎて逆に見えていなかったものを感じられたので充実した3時間半となりました
そして今回もまたルネとガリマールの物語を辿って新しい結末を探り出し……。
幕開きから内野ガリマールの目にやられました!!!幻想の中のバタフライに恋焦がれる目、完全に「いっちゃってる」目だったのですが、その後に自分のことを語り始めた時の普通に戻ったというか冷静さが逆に狂気を帯びていて怖くて
あとマダム・バタフライを演じているソンと初めて会った時の目、京劇姿のソンを見た時の衝撃を受けた目、語り部分と演じる部分で切り替わる目、男性に対する/女性に対する/幻想に対する……のその時々に入れ替わり立ち代わり湧いてくる気持ちが伝わる目……と行間を語る背中!!!空気感と存在感で伝わってくるものが凄すぎて頭と心のCPUが足りなくなるかと思いました
そういうやり取りをできるお人を好きでいられる幸せを噛みしめたわ~~ムフッ
遠目から突き放して観るとガリマールがソンに利用され掌で踊らされているのが手に取るように見えるんですよね。物語の背景や人物設定、結末を知っているからソンの一言一言をそういう前提で受け取ってしまっているのかもしれませんが、ガリマールが“ツボる”ようなことを選んで、そして狙って言っているのが分かるような気がしました。しかもそれにガリマール自身が気づいていないところが哀れというかアホというか……
しかも今回は岡本くん演じるソンを離れて見てみると男性が演じている女性なんだなぁ~と納得させられてしまう感じがあって(初日は初見で緊張感ありで単純に綺麗だなぁと思っていたのが良くも悪くも慣れてきて演じる上での隙ができているのかな?と危惧しているところもあったりするのですが
)……この作品で男だの女だの言っていることが無意味なのかもしれませんが、ガリマールが目の前で語っていることと実際に見えているものが少し違って見えたり感じ方が違うところに気づいて一種の「歪み」を楽しめた……適当な言葉かどうか迷うところですが、そういうのが味わえたところは良かったなぁと思いました。
劇中何度も語られる東洋と西洋。セリフに込められた東洋に対する偏見……「中国人は傲慢」「大変古い文明だけど古いというのは老化しているとも言える」「東は東、西は西、東西は交わらず」「イタリア語のオペラをどうやって勉強したのかしら?」まぁ聞いていて気持ちの良いものではありませんが、そういう(そうだった)んでしょうね~~実際には。ガリマール自身、不安定で境界線のあっちとこっちを浮遊している存在とはいえ、やっぱり根底には「西洋の鬼」「毛唐」の血が流れていて、いざ自分が“弱者”の中で強者になると背を向けていた男らしさを肯定するようになったわけだし
フランス大使トゥーロンの一言一言もこれまた強か。外交官はウィーン条約がある上での国営のスパイみたいなものなので当然の姿勢ではあるのですが、その言葉の裏の意味に気づいていないガリマール。中国で暮らしているのであって中国人と暮しているわけではない、内部事情に通じている君の意見を聞きたい、、、どうして気づかないかなぁ~ともどかしかったです。カプチーノとかタキシードとか言ってる場合じゃないだろうって
そんでもって西洋と東洋は自然な親近感があるって……ヲイヲイ
でもガリマールとソンの関係がある上で西洋人であるガリマールにこう言わせたのは作り手の企てがあったのかなかったのか???
2幕後半、ガリマールの裁判の中でソンがぶちまけたこと……男は自分の聞きたいと思っていることは必ず信じるからどんな酷い嘘をついても気づかない、西洋の男は東洋に触れるとすぐに頭はグチャグチャになって強姦者の目(口ではNOでも心はYESと言っている思考)を持つ。そしてガリマールとの関係について、彼は理想の女性に巡り会って本当に女性だと信じたかったこと、東洋人は完全に男であり得ないことを挙げる。ムシュウ・ソンの口から言わせたことが凄いなぁと毎回思っているのですが、、、この証言を導き出した裁判官=フランス人、ソンの理論で言うと西洋の男ということになるんだろうけど、「なぜ20年間も男だと気づかなかったのか?」の問いかけがソンの言う「自分の聞きたいと思っていることは必ず信じる」のドツボに嵌っているから本当に皮肉的。「だからあんたがたは東洋との付き合いに失敗するんだ」と言われても無理ないのかなと歴史的に見てもね……インドシナ戦争やベトナム戦争は典型的だと思う。。。
でもソンの中にも様々な考えがあったと思われ……ガリマールに言った「中国の男は私たちを抑えつけていて、新しい世界でも女は無知と言われるの」「西洋は進歩的な世界」「中国は昔世界を支配していたのかもしれないけど今の世界を支配している方が面白い」という言葉。ガリマールが気に入るように、その時演じていた女性ソンとしての「セリフ」という面はあるのかもしれませんが、どこかに本心が混じっているように感じていたのよね~~そして一種の偏見と憧れと屈辱も。東洋の陰の部分が垣間見えるのがスッキリしっくり来るのがこの作品だと思うのですが……ド田舎の忌々しい人民公社だの芸術は大衆の為にあれのスローガンで芸術家を貧乏にしているだの……凄っ
こういうのを見ているとソンも決して恵まれた立場ではないし進んでスパイ活動をしていたようにも思えず……しかも男性が好きとなると……ガリマールのことが本当は好きだったとか、それを利用してでも自由な世界→西洋に出たかった気持ちがあったのかなと思ったり……。
「時には同じ気持ち」、、、最初の方でソンがガリマールに言った言葉。単純に両想いと捉えていいのかもしれませんが、今回はずっとこの言葉が引っかかっていて観劇中ずっと頭をグルグル。同じ男だということを意味しているのか、男同士愛し合えることを意味しているのか……如何様にも考えられる意味深な言葉だと思います。前回でもヒリヒリ堪らなかった1幕と2幕で同じやり取りをする場面、、、「小さくてもくつろげるカフェがあったらいいのに。カプチーノ、タキシード、国籍不明のジャズ……」何だか今回は2幕の方のこのセリフが切なくて切なくて
ソンが真実の姿を曝け出したゆえにガリマールは現実と幻想の区別ができるようになって幻想を選んだ……とまぁガリマールの言い分ですが。「男が生み出した女を愛してしまった男。私が愛していたのは嘘の方だったのに」って……あ~あ、言っちゃった
ここの2人のやり取りを聞いているとオーバーラップするのが1幕の同じやり取り。全体を見渡せる位置から観て改めてよくできた場面でありちょっとお気に入りになってきている場面でもあります
幻想を選んだガリマールが「私はとうとう彼女を見つけました。パリ郊外の刑務所、私の名はルネ・ガリマール、またの名をマダム・バタフライ」と蝶々夫人の自害のシーンを演じるところ。ふと頭を過ったのがソンが初対面の時に言った「もし西洋の女が日本人ビジネスマンを好きになって、彼は帰国して別の女性を妻にする。女はケネディ家の息子の求婚を断って待っているが別の女性と結婚したことを知って自害する。それなら馬鹿な女ってことになるでしょ?」というたとえ話。悔しいけど目の前のガリマールを見た時にそういう感情が湧いたんですよね~~愚かというか哀れというか。マダム・バタフライなら成立しても逆は成立しない現実。ものすご~~く皮肉的な場面とも捉えられるのかなと。。。幕切れの場面、、、セットの上で「バタフライ、バタフライ」と呟き思いにふけるソン、下でソンとは逆方向に向いて幻想の中に生きて佇んでいるガリマール。思いは違っているけど同じでもあり……この作品を1枚の絵画で表したような印象的な構図でした
ガリマールが「最後には私を理解し、妬みすら感じるようになる」と言ったから……というわけではないのですが、この日は妙にマダム・バタフライの曲が耳について離れなかったので帰宅後にオペラの方をざっくり見直してみるという“暴挙”に
ガリマールのお気に入り、二重唱「かわいがって下さいね」は何度聴いても思うけど純粋に曲だけ聴けば美しいと思うし、テノールで甘く歌われればクラクラ~
と来ちゃうのも無理ないかも?!この種のイタリアの曲調は馴染みがあるというか楽器で弾きたくなってしまう衝動にも駆られるし!でも概して作品的にはやっぱりモヤるモヤる……こんなんの何が良いのかね?なーんて思ってしまうわけですが
そして愛の二重唱の双子な曲
Last Night of the Worldに突入。好きな人が歌っていたのを聴いても拭えませんでした
妬みどころの話ではなく……「ピンカートンを蹴飛ばしてやりたいと思いながら彼になれるのに結構ですという男はほとんどいない」というのもどうしてそうなるんだか……ねぇガリマールさん(苦笑)