(トップの写真は、ドイツの写真家Markus Reugelsの作品「LiquidArt」シリーズから)
Londonでは水が硬水だった。硬い水。
硬水と軟水の違いは、ミネラル(マグネシウムとカルシウムを合計した量)を数値化したもの(「Ca濃度(mg/ml)x2.5+Mg濃度(mg/ml)x4.1」)で分類されて、数値が100以下のものを軟水、300以上のものを硬水と言う。
日本のほとんどの地域の水は軟水。
軟水は一般的に料理に適しているので、日本料理も水を使って、素材そのものの味を生かす料理が発達した。
だしをとるのも軟水だからこそ。ご飯も、水を含ませて炊きあげる。
緑茶も茶道の発達も、軟水という物質を溶かす水の媒体が原因になる。
それに対して、London含めてヨーロッパの水はほとんどが硬水。
硬水はミネラル分が豊富にあるので、そのミネラルの作用でたんぱく質が固まって旨み成分が溶け出さない場合もある。
だからヨーロッパでは水をそのまま利用しないで料理をする工夫が生まれた。
野菜を蒸したり、オーブンで焼いたり、油脂を加えて煮込んだりする料理が発達した。
米は炒めたり蒸したり、水を使わずスープストックや牛乳で煮たりする。
肉も油で炒めたりローストしたりする。
煮物はシチューのような煮込み料理が多く、水で直接煮込まずにスープストックを使い、ワインや生クリームを加えて調理する。
だから、フランス料理のような料理文化が生まれたとも考えられる。
水のミネラル成分は、雨水や雪解け水が大地にしみこんで流れていく過程で違いが生まれる。
土地を形成している物質が地域によって違うから、水の成分も変わる。
風土に影響されて食文化も含めた文化は生まれているようだ。
水というのはほんとうに不思議だ。
体の6割が水でできているから、人体も水の状態にも大きな影響を受けているだろう。
水は奥が深い。
■
Cymatic Musicでは、水と音との共鳴の波紋の形を使いながら、それを芸術にしている。
この映像(『Non-newtonian fluid: IT'S ALIVE!』)もまるで生きているよう。水分子が、自由度を変えながら氷(固体)、水(液体)、水蒸気(気体)を行ったり来たりすること自体がそもそも不思議な性質で。
この実験も(『水に振動を加えると・・・見え方が変わる』)、水に音の振動を与えると水自体の挙動が変わる興味深い実験。
Cymaticsは、以前TEDでも講演されている(『エヴァン グラント:サイマティックスで音を可視化する』)。非常に興味深い分野だ。
いずれにしても、目に見えないものも、こうして可視化されることで僕らはイメージが可能となり、理解できる。
可視化やイメージ化、というのは、人間の理解にとってとても重要なことのようだ。
これは、意識の階層構造を考えた時に、表層意識の下にイマージュ領域が裏打ちしていることからも分かる。
■
井筒俊彦先生の「意識と本質」より
***********
深層意識はそれ自体多層構造を持っている。
現代の言語学は、表層世界の下に潜む「無意識的下部構造」の強力な働きを認める点でユングの分析心理学と一致しており、「深層意識は象徴を構造化する器官なのであって、粗大な物質的世界がここで神話と詩の象徴的世界に変成する」とする。
A:表層意識
M:「想像的」イマージュの場所。B領域で成立した元型はこのM領域で様々なイマージュとして生起し、経験的事物に象徴的意義を賦与したり、存在世界を一つの象徴的世界として体験させるといった独特の機能を発揮する。
B:言語アラヤ識領域。意味的「種子」(ビージャ)が「種子」特有の潜勢性において隠在する場所であり、ユングのいわゆる集団的無意識あるいは文化的無意識の領域に当たる。元型成立の場所。
C:B領域に近づくにつれて次第に意識化への胎動を見せる無意識領域。Bに近接する部分は宋代中国の「易」哲学的に言えば「無極にして太極」の「太極」的側面
Z:「意識のゼロ・ポイント」
*樫尾直樹さんの「文化と霊性」では、以下のように少し平易に説明されていた。
A領域:<表層意識>、心
M1領域:<実存的意味・マナ識>、魂、生きがい
M2領域:<イマージュ・マナ識>、魂、夢
M3領域:<神霊的存在の顕現・マナ識>、魂、シャーマニズム、密教
B領域:<言語アラヤ識>、魂、集合的無意識、元型成立の場
C領域:<無・意識>、霊、流動状態のカオス
Z領域:<真如> 意識と存在のゼロポイント、絶対的無分節、悟り
***************
言語アラヤ識領域で生まれた「元型」イマージュがそのまま表層意識の領域に出てきて、そこで記号に結晶したものが「シンボル」である。
「シンボル」はM領域を本来の場所とし、そこは「創造的想像力」が充満する内部空間。
この「想像的」エネルギーを保持したまま、「シンボル」は経験的世界の只中にやってくる。
このエネルギーの照射を受けると、それまで平凡に見えていた日常的事物(たとえばただの花)が、たちまち象徴性を帯びる。われわれ仏教文化圏における蓮の花を思えばいい。(英語圏のキリスト教徒にとって蓮はただ泥沼に咲く花<lotus>であり、「浄土」を象徴する<蓮華>を意味することはない。はるか紀元前のギリシア神話ではまた少し事情が違うが。)
***************
言語アラヤ識の呪術的エネルギーによって生起したイマージュが織りなすマンダラは、「元型」的「本質」の描き出す深層意識的図柄であって、経験的事物そのものの構造体ではない。
表層意識の見る経験的事物は、そのままでは決してマンダラを描かない。
深層意識的事態と表層意識的事態との間には、きっぱり一線が劃されている。
***************
理性の捉える「本質」が、「それは・何であるか・ということ」であらわされる概念的一般者であるのに対して、元型的「本質」は「無」が「有」に向かって動き出す、その起動の第一段階に現成する根源的存在分節の形態であって、人間意識の深層構造そのものを根本的に規制する「文化の枠組」が濃密に反映している。キリスト教徒の瞑想意識の中に真言マンダラが決して現われないように。
ただどの文化においても、人間の深層意識は存在を必ず「元型」的に分節する。
そういう意味で「元型」は全人類に共通なのであり、根源的存在分節のありかたである。
***************
禅者の「正覚」意識の見るがままに、全存在世界の「元型」的「本質」構造を形象的に呈示する深秘の象徴体系、それがマンダラと呼ばれるものだ。
マンダラは、第一義的には、意識のM領域に顕現するすべての「元型」イマージュの相互連関システムである。
そしてマンダラのこの全体構造性は、一切の事物、事象を、縦横に伸びる相互連関の網目構造において見る仏教の存在観そのものに深く根ざしている。
因果、理事無礙、事事無礙、等々の語が示唆するように、ここではいかなるものも、いかなるレベルにおいても、孤立してそれ自体では存在しない。すべてのものの一つ一つが輻湊する存在連関の糸の集中点としてのみ存在する。
***************
■
井筒先生が好き過ぎて、最後はなぜか意識階層モデルの話しになってしまったが(→「伝播する井筒俊彦」(2014-11-08))、
もともとは「水」という存在の不可思議さを考えていたのだった。
今後も色々と考えてみよう。
この辺りに、ひとのからだの不思議さも関係していると思う。
■老子『道徳経 8章』
「上善は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。」
→
最上の善なるあり方は水のようなものだ。水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭(いや)だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ。)
■貴船神社 神水 説明書き
一.自ら活動して他を動かしむるは水なり
二.常に自ら進路を求めて止まらざるは水なり
三.自ら清くして他の汚水を洗い清
濁併せ容るるの量あるは水なり
四.障害に遭い激しくその勢力を百倍するは水なり
五.洋々として大洋を充たし、
発して蒸気となり雲となり雪と変し
霰と化し凝っては玲ろうたる鏡となる
而もその性を失わざるは水なり
Londonでは水が硬水だった。硬い水。
硬水と軟水の違いは、ミネラル(マグネシウムとカルシウムを合計した量)を数値化したもの(「Ca濃度(mg/ml)x2.5+Mg濃度(mg/ml)x4.1」)で分類されて、数値が100以下のものを軟水、300以上のものを硬水と言う。
日本のほとんどの地域の水は軟水。
軟水は一般的に料理に適しているので、日本料理も水を使って、素材そのものの味を生かす料理が発達した。
だしをとるのも軟水だからこそ。ご飯も、水を含ませて炊きあげる。
緑茶も茶道の発達も、軟水という物質を溶かす水の媒体が原因になる。
それに対して、London含めてヨーロッパの水はほとんどが硬水。
硬水はミネラル分が豊富にあるので、そのミネラルの作用でたんぱく質が固まって旨み成分が溶け出さない場合もある。
だからヨーロッパでは水をそのまま利用しないで料理をする工夫が生まれた。
野菜を蒸したり、オーブンで焼いたり、油脂を加えて煮込んだりする料理が発達した。
米は炒めたり蒸したり、水を使わずスープストックや牛乳で煮たりする。
肉も油で炒めたりローストしたりする。
煮物はシチューのような煮込み料理が多く、水で直接煮込まずにスープストックを使い、ワインや生クリームを加えて調理する。
だから、フランス料理のような料理文化が生まれたとも考えられる。
水のミネラル成分は、雨水や雪解け水が大地にしみこんで流れていく過程で違いが生まれる。
土地を形成している物質が地域によって違うから、水の成分も変わる。
風土に影響されて食文化も含めた文化は生まれているようだ。
水というのはほんとうに不思議だ。
体の6割が水でできているから、人体も水の状態にも大きな影響を受けているだろう。
水は奥が深い。
■
Cymatic Musicでは、水と音との共鳴の波紋の形を使いながら、それを芸術にしている。
この映像(『Non-newtonian fluid: IT'S ALIVE!』)もまるで生きているよう。水分子が、自由度を変えながら氷(固体)、水(液体)、水蒸気(気体)を行ったり来たりすること自体がそもそも不思議な性質で。
この実験も(『水に振動を加えると・・・見え方が変わる』)、水に音の振動を与えると水自体の挙動が変わる興味深い実験。
Cymaticsは、以前TEDでも講演されている(『エヴァン グラント:サイマティックスで音を可視化する』)。非常に興味深い分野だ。
いずれにしても、目に見えないものも、こうして可視化されることで僕らはイメージが可能となり、理解できる。
可視化やイメージ化、というのは、人間の理解にとってとても重要なことのようだ。
これは、意識の階層構造を考えた時に、表層意識の下にイマージュ領域が裏打ちしていることからも分かる。
■
井筒俊彦先生の「意識と本質」より
***********
深層意識はそれ自体多層構造を持っている。
現代の言語学は、表層世界の下に潜む「無意識的下部構造」の強力な働きを認める点でユングの分析心理学と一致しており、「深層意識は象徴を構造化する器官なのであって、粗大な物質的世界がここで神話と詩の象徴的世界に変成する」とする。
A:表層意識
M:「想像的」イマージュの場所。B領域で成立した元型はこのM領域で様々なイマージュとして生起し、経験的事物に象徴的意義を賦与したり、存在世界を一つの象徴的世界として体験させるといった独特の機能を発揮する。
B:言語アラヤ識領域。意味的「種子」(ビージャ)が「種子」特有の潜勢性において隠在する場所であり、ユングのいわゆる集団的無意識あるいは文化的無意識の領域に当たる。元型成立の場所。
C:B領域に近づくにつれて次第に意識化への胎動を見せる無意識領域。Bに近接する部分は宋代中国の「易」哲学的に言えば「無極にして太極」の「太極」的側面
Z:「意識のゼロ・ポイント」
*樫尾直樹さんの「文化と霊性」では、以下のように少し平易に説明されていた。
A領域:<表層意識>、心
M1領域:<実存的意味・マナ識>、魂、生きがい
M2領域:<イマージュ・マナ識>、魂、夢
M3領域:<神霊的存在の顕現・マナ識>、魂、シャーマニズム、密教
B領域:<言語アラヤ識>、魂、集合的無意識、元型成立の場
C領域:<無・意識>、霊、流動状態のカオス
Z領域:<真如> 意識と存在のゼロポイント、絶対的無分節、悟り
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言語アラヤ識領域で生まれた「元型」イマージュがそのまま表層意識の領域に出てきて、そこで記号に結晶したものが「シンボル」である。
「シンボル」はM領域を本来の場所とし、そこは「創造的想像力」が充満する内部空間。
この「想像的」エネルギーを保持したまま、「シンボル」は経験的世界の只中にやってくる。
このエネルギーの照射を受けると、それまで平凡に見えていた日常的事物(たとえばただの花)が、たちまち象徴性を帯びる。われわれ仏教文化圏における蓮の花を思えばいい。(英語圏のキリスト教徒にとって蓮はただ泥沼に咲く花<lotus>であり、「浄土」を象徴する<蓮華>を意味することはない。はるか紀元前のギリシア神話ではまた少し事情が違うが。)
***************
言語アラヤ識の呪術的エネルギーによって生起したイマージュが織りなすマンダラは、「元型」的「本質」の描き出す深層意識的図柄であって、経験的事物そのものの構造体ではない。
表層意識の見る経験的事物は、そのままでは決してマンダラを描かない。
深層意識的事態と表層意識的事態との間には、きっぱり一線が劃されている。
***************
理性の捉える「本質」が、「それは・何であるか・ということ」であらわされる概念的一般者であるのに対して、元型的「本質」は「無」が「有」に向かって動き出す、その起動の第一段階に現成する根源的存在分節の形態であって、人間意識の深層構造そのものを根本的に規制する「文化の枠組」が濃密に反映している。キリスト教徒の瞑想意識の中に真言マンダラが決して現われないように。
ただどの文化においても、人間の深層意識は存在を必ず「元型」的に分節する。
そういう意味で「元型」は全人類に共通なのであり、根源的存在分節のありかたである。
***************
禅者の「正覚」意識の見るがままに、全存在世界の「元型」的「本質」構造を形象的に呈示する深秘の象徴体系、それがマンダラと呼ばれるものだ。
マンダラは、第一義的には、意識のM領域に顕現するすべての「元型」イマージュの相互連関システムである。
そしてマンダラのこの全体構造性は、一切の事物、事象を、縦横に伸びる相互連関の網目構造において見る仏教の存在観そのものに深く根ざしている。
因果、理事無礙、事事無礙、等々の語が示唆するように、ここではいかなるものも、いかなるレベルにおいても、孤立してそれ自体では存在しない。すべてのものの一つ一つが輻湊する存在連関の糸の集中点としてのみ存在する。
***************
■
井筒先生が好き過ぎて、最後はなぜか意識階層モデルの話しになってしまったが(→「伝播する井筒俊彦」(2014-11-08))、
もともとは「水」という存在の不可思議さを考えていたのだった。
今後も色々と考えてみよう。
この辺りに、ひとのからだの不思議さも関係していると思う。
■老子『道徳経 8章』
「上善は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。」
→
最上の善なるあり方は水のようなものだ。水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭(いや)だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ。)
■貴船神社 神水 説明書き
一.自ら活動して他を動かしむるは水なり
二.常に自ら進路を求めて止まらざるは水なり
三.自ら清くして他の汚水を洗い清
濁併せ容るるの量あるは水なり
四.障害に遭い激しくその勢力を百倍するは水なり
五.洋々として大洋を充たし、
発して蒸気となり雲となり雪と変し
霰と化し凝っては玲ろうたる鏡となる
而もその性を失わざるは水なり