日常

渦と場

2016-08-03 23:34:04 | 芸術
(Leonardo da Vinciのスケッチにある「渦」)


7/30土曜に開かれた『MANSAI 解体新書 その弐拾六』「場」~音と時空のポテンシャル~ @世田谷パブリックシアター、本当にほんとうに面白い夢のように楽しい時間でした。
→○『MANSAI 解体新書 その弐拾六』(2016-05-26)

120分という時間があっという真の時間。時間が伸び縮みするのを感じました。
時間にも「質」というものがあるようです。
「質」の伴った時間は、何か別カウントになっているような気がします。

「音」と「場」というテーマ以外は全てが即興。

自分は「倍音」、芸能と医療の話、身体言語、音と場、音と水、木星のカルマン渦、クラドニ図形、武満徹さん、平家物語と看取りの体験談、・・・などを話した気はするのですが、萬斎さんや大友さんとただただ楽しく話した、という身体記憶が強く残っています。童心に帰ったような。

「渦」はダヴィンチも研究していたテーマ。
「音」という見えざる波動を可視化するものとして「水」や「渦」というのは様々な予感を与えてくれます。「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」(岩波文庫)にも、水に関する記述が60ページ近くあるのです。


カルマン渦 流体力学


木星にある地球と同じ大きさのカルマン渦




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自分が一番大切にしているのは「感覚」と「知覚」の違い。
わからない(=「知覚」できない。「頭」で合理化できない)からと言って、感じていないわけではないということ(=「感覚」は生きている)。
きっと、この自然界や宇宙で起きていることはすべて感じ取っているのだけど、その中で自分が無意識に取捨選択しているだけだということ。
だから、自分の感覚を深く強く信じて、その感度やレンジを深め続けて生きていくということ。
そうしてこの自然や宇宙の深層に近づいていくことができる。それは「成長」という感覚にも近い。

「わからない」というのは豊かな時間なのだ。
「感覚」は感じているけれど、「知覚」としては頭が合理化できない。
その狭間で振動している状態だからこそ、そこに可能性がある。




萬斎さん朗読の「子午線の祀り」は、本当に魂が震えるような体験だった。
萬斎さんの声は整数次倍音だけではなくて、その間を埋める無限の非整数次倍音が全員参加している。
音のシャワーを受けている感じになる。
声紋の中に微細で多彩な粒子が見えてくる。

そうした振動は、自分の中の眠れる細胞に「朝だよー!」と号令をかけられて、細胞全員がむくむくと起きだすような不思議な体験を伴う。
あまり普段意識しない細胞が「おはようございます」と挨拶しに来ているような身体感覚。

そんな超一級の萬斎さんの朗読を、スーパースター大友さんの即興演奏と共に傍で聞けたのはほんとうに役得でした。
うっとりしながらも、自分も二人の響きを邪魔しないようにシンギングリンの振動で密やかに共演させてもらったのでした。
(本当はプロお二人の前で自分は参加しないでおこうと思っていたのですが、大友さんから参加してくださいよ、という慈悲深いお言葉をいただき、流れを阻害しないような音響で参加させていただいたのでした。)



能楽や狂言などが持つ伝統的な身体言語の世界。
歴史や伝統を受け継ぎながら、次の世代へ受け渡していくこと。

時代共に受け渡されている「からだ」の適切な使い方を学ぶと、それは「からだ」の愛と調和の場を学ぶ場となる。
からだやいのちの本質を知ることは、おのずから平和活動になると、自分は思う。
だからこそ、体を学ぶことは平和活動なのだ。


人と人とが出会う、ということはすごいことだ。
それぞれの人物を構成している様々な要素が複雑に化学反応を起こすからだ。

結果的に医療、伝統芸能、音楽・・・などの異世界自体が化学反応を起こす事へもつながる。
僕らが気付かない深い深い層で化学反応が静かに閃光のように起きているのだが、それは必ずや次の世代へと手渡す重要なトーチとなり、聖火リレーのように次の世代へと手渡されていく。
出会いや対話と言うのは、そういう豊かで創造的な場のことを言う。



色々な予感が生まれた。
色々なインスピレーションが生まれた。

予感やインスピレーションは、同じ場に参加した人には「濡れない雨」のようにみなさんの脳の天蓋へと降り注いでいただろう。
意識しようともしまいとも、それは確実に身体に染み込んで行く。

世田谷パブリックシアターという場が、コクーン(繭)のような空間だった。
何か大切なものが孵化され、さなぎが成虫へと変容してていくような気がした。
場に入る前と出た後とでは、過去の自分とはすっかり変わってしまっている。


自分が祈りのように聞き続けている武満徹さんの文章や音楽。
武満徹さんが引き合わせてくれたような場だったような気もした。
→○武満徹エッセイ選―言葉の海へ(2016-07-14)
○武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」(2011-10-18)
○即興(improvisation)(2010-11-09)


「子午線の祀り」は、『平家物語』を題材とした木下順二さんの戯曲。その音楽を武満徹さんがつけていた。
萬斎さんによると、武満さんの音楽に沿って文章を読むと、その音の流れに背中を押されるように、朗読は極めて自然な流れと旋律で行われるとのことだった。
武満さんのいのちは、今ここにも生きている。



「好き」「愛する」というのは大事なことだ。
自分は「好き」で「愛する」ものがたくさんある。
本当に「好き」で「愛している」ことをこの世界に表現し続け表明し続ければ、願いは不思議な形で必ず叶うから。

本当に素晴らしい時と場を有難うございました。

萬斎さんや大友さんというスーパースターと共演で来たことは本当に光栄で、ワクワクが止まらない楽しい一日でした。
お越しいただいた方々も、本当にありがとうございました。
共同制作の場になったことと思います。



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武満徹
「音は私たちの感性の受容度に応じて、豊かにも貧しくもなる。
私は音を使って作曲をするのではない。私は音と協同するのだ」


武満徹「水」『音楽の余白から』
人間は、水棲動物から進化したものだ、という学説は、信憑性があるものなのだろうか?

私には、音と水は似たもののように感じられる。
水という無機質なものを、人間の心の動きは、それを有機的な生あるもののように感じ、また物理的な波長(言葉の神秘的な暗号)にすぎない音に対しても、私たちの想念は、そこに美や神秘や、さまざまな感情を聞き出そうとする。

私たちは、この水を、かりそめの形でしか知らない。
それらは仮に、雨と湖、河川、そして海と呼ばれたりしている。

音楽もまた河や海のようなものだ。
多くの性質の異なる潮流が大洋を波立たせているように、音楽は私たちの生を深め、つねに生を新しい様相として知らしめる。




武満徹「二つのもの‐作家の生活」『音楽を呼び覚ますもの』
夢・数・水

現在(いま)私が書いている音楽について考えてみると、
この数年「夢(ドリーム)」と「数(ナンバー)」、そして曖昧な「水(ウォーター)」というものに強く影響を受けていることに気づく。

それは半ば意識的でもあり、また半ば無意識的であるともいえる。
わたしは思考や表現を活き活きとしたものにするためにこうした対立概念を導くのだが、
「夢」という不定形への欲望と、「数」の定型を目指す意志との衝突が、思考を静的なものに止めない。

「水」は、「夢」と「数」の統合された貌(すがた)であり、その両者の異なる性質を同時に具えている。
身近な死の汀(みぎわ)から無限の死の涯までを満たしているもの。

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