最近、「自己」というものを考えていた。
そうなると、ほぼ必然的に「他者」というものも考える。
その流れで、「他者との出会い」というものも必然的に考えるようになる。
■自己
まず、「自己」に関して少し。
Isくんが、『様式style、運動、織物textileとしての自我論』(2009年02月10日)というタイトルで、禅宗系のお坊さんである南直哉さんをNHKで見たことの感想を書いていた。
先日、わしも同じテレビの再放送と思われるものを偶然NHKで見た。
かなりよくて感じ入ることが多かった。
(→南直哉さんは色々本も出されている。)
その中で、Isくんも指摘しているけど、一番しっくりきたのは、
『自分というものはドーナツの穴のようなものである』
という例え。
これはどういうことかというと、
南さんも、自分というものを徹底的に考えて悩んだことがあったと。
自分という存在は何なんだ?
「本当の自分」とはあるのか?
悩み問い続け、自分探しをしたと。
南和尚が、禅の心身脱落のプロセスで到達したこと。
それが、
『自分というものはドーナツの穴のようなものである』
ということだった。
つまり、「本当の自分」というものがあると思って自分探しをしたりする。
でも、「本当の自分」というものは、何もない。
実態なんてないし、常に生々流転して変化してとらえることはできない。
だから、何も無い。穴のようにポッカリと何もない。
ただ、少し視点を引いてドーナツを見てみると、「穴」の部分には何にもないんだけど、「穴」としては認識・知覚できる。
「穴」自体には何もなくポッカリ空いているだけなんだけど、認識はできるのであるように思えてしまう。
ないんだけど、あるように錯覚する。
それは、ドーナツの身の部分を他者ととらえてみると、「他者」の存在があることで、その結果うっすら見えてくるのが、「穴」のような「自己」というものなのではないか。
そういうことを言っているのです。
だから、他者の複雑な縁があって、その結果として自分というものがおのづから浮き上がってくる。確固とした自我・自分というものはない。
Aという明確な個人、Bという明確な個人があって、AとBから縁や関係性が成立しているのではなく、初めに縁や関係性というものありきで、そこからA、Bという曖昧な輪郭ができて、それをA、Bと名づけているにすぎない。
関係性によってはじめて個人や自分が成立するという発想法。
自己や自意識を捨て、他者というものだけを考える。そしたら、勝手に自己があぶり出てくるということ。
これは、個人・個性というものや、自己と他者を考える上で、同じようだけど全く違う。すごく大事な発想法だと思った。視点を自己から他者に変えるだけで、世界は180度反転して見える。
まとめ。
自分とは、「ドーナツの穴」のような存在である。
本当の自分を探そうと思っても、そこはぽっかり「穴」があいていて何もない。
でも、視点を引いてみると、「穴」自体は認識できるし、そこにあるような気がしてしまう。
それは「他者」という輪郭があるからだ。
「他者」があるから、「自分」は結果的に存在しているに過ぎない。
確固とした固定した「自分」なんて、ない。
■他者との出会い
ここから自分の考えに入る。
では、「他者との出会い」とは何か。
以前、『私が私であること』(2009-02-19)で書いたことでもあるけれど、成長という名のもとに、過剰になりすぎた自意識というものがある。
その厚化粧を少しずつとりさって、自意識を無くしていくこと、そういう「私が私になる」プロセスこそが、生きるということなのではないか、というような内容を書いた覚えがある。
自分が自転車を運転して見える風景を想像してみる。
若い時は、とにかくスピードを出して、果てしない未来へやみくもに突っ走ることだけを考えている。
周りの美しい風景を見る余裕なんてない。
自意識過剰な時期は、未来を自分に都合がよくつくりあげることで、アクセル全開で走ること自体に不安を感じないようにしているとも思える。
そうして、感じたり、考えたりすることから避ける。
自分の目の前の風景を見ていると、横から、斜めから、色んなところから自分の道に合流してくる道のようなものがある。
その道は、太い道もあれば細い道もあれば、色んなものがある。
自意識過剰なときは、その合流してくる道に思いを馳せることはあまりない。
自分の前に存在していると思われる道を全速力で突っ走ることしか頭にないからだ。
つまり、自意識過剰である。
自分は、自分の道と交差してくる道が交わった部分、そういうものが「他者との出会い」なのではなかろうかと考えている。
では、今度は自意識から視点を変えてみる。
自分が、道と道との合流点になったつもりで、二つの道を見てみる。
その合流地点から二つの道をみると、30年の自分の人生の時間をかけ、遥か遠い彼方から、まるでこの合流地点の一点を目指し、迷いなく伸びてきているように見えるのだ。
それぞれの道で自転車をこいでいると、青空の日もある。豪雨もある。霧もある。大雪もある。交通事故もある。色んなことが起こる。
でも、合流地点から見るとそんなことはどうでもいいことである。
それぞれの道、つまり自己や自我なんていうものはどうでもいいことである。
寸分違わぬ正確さで伸びてきた二つの道は、合流地点という一点で、ある一瞬だけ奇跡的に交差する。
それが、「他者との出会い」である。
自転車で桜並木を走っていた時、こういう感じがふと降りてきて、何かしらの実感を伴って感じられた瞬間があった。
色んな道が複雑に交差している道路で、自転車を無心にこぎながら、ふと感じた。
道と道が交差した奇跡的な一点である「他者との出会い」を、どう捉えるのか。
自己から考えるのか、他者との関係性から考えるのか。
今まで交差することのなかった二人の他者は、その道と道とが交わる合流地点に向かって、時にはまっすぐに、時にはグニョグニョ曲がりながら、迷いなく正確にその一点に向かってくる。
長い歳月をかけて、遥か彼方から、出会いの一点に向けて、向かってくる。
そして一瞬だけ奇跡的に交差する。
自分の道から見ると、偶然。
交わった点から見ると、必然。
世界は反転する。
まとめ。
「ドーナツの穴」のように、「本当の自分」とは何もない。
自己とは、「他者との出会い」の連鎖により勝手に輪郭がつくられ、何かあるように錯覚してしまうものである。
自己というものは、そんな奇跡のような「他者との出会い」の連続・積み重ねにより、勝手に形成されるもの。
「他者との出会い」は、自意識から見ると偶然に見えるかもしれない。
自意識を外し、出会いそのものの視点から見ると、その二人は迷いなく出会う一点をめがけて、すべての人生を送ってきたように見える。
「他者との出会い」は必然とも言える。
「他者と出会う」ためには、自意識まみれた自己の観点から見るのではなく、自分を無くし、他者により自己ができているという風に「ドーナツの穴」として自己を考えた上で、そんな作法で他者に会いに行かないといけない。
そして、心の中には、奇跡に対する感謝の思いを持っておきたい。
禅において、『十牛図』という絵がある。
それは本当の自分を必死で模索していた人が、悟りのような心境へと至っていくプロセスを書いた絵なんですが、上に書いたようなことは、奇しくもこの絵のプロセスに似てるのかもしれないなーと思ってしまった。
そういう意味では、トゲトゲしい、若い時の自意識過剰なプロセスっていうのは、「自分が自分になる」ために大事なプロセスなんでしょう。
ま、そういうことをふと思いましたので、ふと書いてみました。
そうなると、ほぼ必然的に「他者」というものも考える。
その流れで、「他者との出会い」というものも必然的に考えるようになる。
■自己
まず、「自己」に関して少し。
Isくんが、『様式style、運動、織物textileとしての自我論』(2009年02月10日)というタイトルで、禅宗系のお坊さんである南直哉さんをNHKで見たことの感想を書いていた。
先日、わしも同じテレビの再放送と思われるものを偶然NHKで見た。
かなりよくて感じ入ることが多かった。
(→南直哉さんは色々本も出されている。)
その中で、Isくんも指摘しているけど、一番しっくりきたのは、
『自分というものはドーナツの穴のようなものである』
という例え。
これはどういうことかというと、
南さんも、自分というものを徹底的に考えて悩んだことがあったと。
自分という存在は何なんだ?
「本当の自分」とはあるのか?
悩み問い続け、自分探しをしたと。
南和尚が、禅の心身脱落のプロセスで到達したこと。
それが、
『自分というものはドーナツの穴のようなものである』
ということだった。
つまり、「本当の自分」というものがあると思って自分探しをしたりする。
でも、「本当の自分」というものは、何もない。
実態なんてないし、常に生々流転して変化してとらえることはできない。
だから、何も無い。穴のようにポッカリと何もない。
ただ、少し視点を引いてドーナツを見てみると、「穴」の部分には何にもないんだけど、「穴」としては認識・知覚できる。
「穴」自体には何もなくポッカリ空いているだけなんだけど、認識はできるのであるように思えてしまう。
ないんだけど、あるように錯覚する。
それは、ドーナツの身の部分を他者ととらえてみると、「他者」の存在があることで、その結果うっすら見えてくるのが、「穴」のような「自己」というものなのではないか。
そういうことを言っているのです。
だから、他者の複雑な縁があって、その結果として自分というものがおのづから浮き上がってくる。確固とした自我・自分というものはない。
Aという明確な個人、Bという明確な個人があって、AとBから縁や関係性が成立しているのではなく、初めに縁や関係性というものありきで、そこからA、Bという曖昧な輪郭ができて、それをA、Bと名づけているにすぎない。
関係性によってはじめて個人や自分が成立するという発想法。
自己や自意識を捨て、他者というものだけを考える。そしたら、勝手に自己があぶり出てくるということ。
これは、個人・個性というものや、自己と他者を考える上で、同じようだけど全く違う。すごく大事な発想法だと思った。視点を自己から他者に変えるだけで、世界は180度反転して見える。
まとめ。
自分とは、「ドーナツの穴」のような存在である。
本当の自分を探そうと思っても、そこはぽっかり「穴」があいていて何もない。
でも、視点を引いてみると、「穴」自体は認識できるし、そこにあるような気がしてしまう。
それは「他者」という輪郭があるからだ。
「他者」があるから、「自分」は結果的に存在しているに過ぎない。
確固とした固定した「自分」なんて、ない。
■他者との出会い
ここから自分の考えに入る。
では、「他者との出会い」とは何か。
以前、『私が私であること』(2009-02-19)で書いたことでもあるけれど、成長という名のもとに、過剰になりすぎた自意識というものがある。
その厚化粧を少しずつとりさって、自意識を無くしていくこと、そういう「私が私になる」プロセスこそが、生きるということなのではないか、というような内容を書いた覚えがある。
自分が自転車を運転して見える風景を想像してみる。
若い時は、とにかくスピードを出して、果てしない未来へやみくもに突っ走ることだけを考えている。
周りの美しい風景を見る余裕なんてない。
自意識過剰な時期は、未来を自分に都合がよくつくりあげることで、アクセル全開で走ること自体に不安を感じないようにしているとも思える。
そうして、感じたり、考えたりすることから避ける。
自分の目の前の風景を見ていると、横から、斜めから、色んなところから自分の道に合流してくる道のようなものがある。
その道は、太い道もあれば細い道もあれば、色んなものがある。
自意識過剰なときは、その合流してくる道に思いを馳せることはあまりない。
自分の前に存在していると思われる道を全速力で突っ走ることしか頭にないからだ。
つまり、自意識過剰である。
自分は、自分の道と交差してくる道が交わった部分、そういうものが「他者との出会い」なのではなかろうかと考えている。
では、今度は自意識から視点を変えてみる。
自分が、道と道との合流点になったつもりで、二つの道を見てみる。
その合流地点から二つの道をみると、30年の自分の人生の時間をかけ、遥か遠い彼方から、まるでこの合流地点の一点を目指し、迷いなく伸びてきているように見えるのだ。
それぞれの道で自転車をこいでいると、青空の日もある。豪雨もある。霧もある。大雪もある。交通事故もある。色んなことが起こる。
でも、合流地点から見るとそんなことはどうでもいいことである。
それぞれの道、つまり自己や自我なんていうものはどうでもいいことである。
寸分違わぬ正確さで伸びてきた二つの道は、合流地点という一点で、ある一瞬だけ奇跡的に交差する。
それが、「他者との出会い」である。
自転車で桜並木を走っていた時、こういう感じがふと降りてきて、何かしらの実感を伴って感じられた瞬間があった。
色んな道が複雑に交差している道路で、自転車を無心にこぎながら、ふと感じた。
道と道が交差した奇跡的な一点である「他者との出会い」を、どう捉えるのか。
自己から考えるのか、他者との関係性から考えるのか。
今まで交差することのなかった二人の他者は、その道と道とが交わる合流地点に向かって、時にはまっすぐに、時にはグニョグニョ曲がりながら、迷いなく正確にその一点に向かってくる。
長い歳月をかけて、遥か彼方から、出会いの一点に向けて、向かってくる。
そして一瞬だけ奇跡的に交差する。
自分の道から見ると、偶然。
交わった点から見ると、必然。
世界は反転する。
まとめ。
「ドーナツの穴」のように、「本当の自分」とは何もない。
自己とは、「他者との出会い」の連鎖により勝手に輪郭がつくられ、何かあるように錯覚してしまうものである。
自己というものは、そんな奇跡のような「他者との出会い」の連続・積み重ねにより、勝手に形成されるもの。
「他者との出会い」は、自意識から見ると偶然に見えるかもしれない。
自意識を外し、出会いそのものの視点から見ると、その二人は迷いなく出会う一点をめがけて、すべての人生を送ってきたように見える。
「他者との出会い」は必然とも言える。
「他者と出会う」ためには、自意識まみれた自己の観点から見るのではなく、自分を無くし、他者により自己ができているという風に「ドーナツの穴」として自己を考えた上で、そんな作法で他者に会いに行かないといけない。
そして、心の中には、奇跡に対する感謝の思いを持っておきたい。
禅において、『十牛図』という絵がある。
それは本当の自分を必死で模索していた人が、悟りのような心境へと至っていくプロセスを書いた絵なんですが、上に書いたようなことは、奇しくもこの絵のプロセスに似てるのかもしれないなーと思ってしまった。
そういう意味では、トゲトゲしい、若い時の自意識過剰なプロセスっていうのは、「自分が自分になる」ために大事なプロセスなんでしょう。
ま、そういうことをふと思いましたので、ふと書いてみました。
>仏教では、初めに縁ありきで、そこからA、Bという曖昧な輪郭を持つ個人ができると考える。
関係性によってはじめて個人や自分が成立するという発想法。
…ほんと、この発想ってすごい。
「上司であり、母であり、妻であり、そして、一人の女である…」っていう三文脚本があるとして…これは仏教的な視点をあらわしてるわけですね。それらの役割の束として、多数の関係性から生じる残像のように〈私〉が立ち上がる。
こういうこと、もっと若いときに教わってたらな~。でも、それを受け入れるだけの土壌がなかったか?
>自分から見ると偶然。
交わった点から見ると必然。
…っていうのも、名台詞だな~。
同じく南さんので、「自我=ドーナツの穴論」とは別のアナロジーで、
「自我=左右論」みたいのもどこかの本でしていて、
つまり、「私」とは「左右」のようなもので、それは日常的に使ってるという意味では現実に存在するのだけど、いざ取り出してコレコレってなるとちょっと困る。
そこで重要なのは、
1、境界線
2、視点
であり、
つまり、ある時に”右”の場所も、境界線を引き直したり、はたまた視点を変えると、“左”になったりもする。
このことは、私とか他者にも全く同じで、幼い子供を抱える親や、あるいは会社やチームなんかも、その範囲の取り方次第で、自分以上に自分のことのように感じられる。言語社会学の鈴木孝夫さんなんかも、日本の親族関係は、一番弱い者の視点から呼び名の名称が決まると言ってる。
…なんか、その「他者との出会いが交わる道のようだ」っていう話を聞いていて、アニメの電脳コイルの最終話を思い出しました。
日刊youtubeで全部見れます。
http://yakuyakou.blog69.fc2.com/?mode=m&no=459&photo=true
(約9時間耐久レースで全26話!)
主人公のヤサコとイサコという二人の女の子、
「私たちって友達かな?」の質問に対して、
「…友達かはよく分からない。しかし、同じ道を目指した仲間だ。
…でも仲間なのは同じ道を目指してる時だけだ。
…また会おう、同じ道を迷ったとき。それまでは、さよならだ。」
っていう部分があって、結構クールなキャラのイサコが言うだけになんかグッと来ます。ぼくはベタベタしたの苦手で、前にもどこかに書いた糸井さんの、ベタベタでもパサパサでもないサラサラの人間関係とかって、結構的を得ている気がして、なんか、いいなと思いました。社会学のゲゼルシャフト(利益共同体=会社みたいなもの)とゲマインシャフト(=いわゆる、村社会とか親族)の中間のようなものをつくっていくのがテーマなのかなと思ってます。
…いや~、それにしても、このblogしかり、そこから派生するリンク先のblogしかり、面白い。お金出して買う雑誌や書籍で、このクオリティでてる方が少ないのかも?
たまたま、RYM氏に教えてもらったこちらのblogでも
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080701
同じようなこと言ってて、今や、プロの物書きじゃないものの方が面白いのではないか?と言っていた。
この辺も、またビジネスや社会の変化として考え出すと…夜が明けちゃうので、今日はこの辺で、また今度会ったときにゆっくり話しましょう。
関係性・縁ありきで個人や自分が成立するという発想法、
最近、この発想法は自分でも板についてきました。笑
確か、「無宗教からの『歎異抄』読解」阿満利麿 (ちくま新書)
にもこの辺の縁起の考え方は書いてあったような気がする。
http://www.bossabooks.jp/product.html?asin=4480062378
自分の幸せ、自己実現、自分への見返り、自分が自分が・・・・・・
そんなのなーーーーんも求める必要ない。
ドーナツの穴なんだから、空っぽで、空で、無で臨めばいい。
自分の利益とかで自意識過剰になる前に、そんな暇があれば目の前の他者を考える。
自分は無私であり無我でいい。自分という境界線はあまり重要ではない。
他者が何に喜ぶか、何が嬉しいか。そこを考える。
自分の身近な好きなものや好きな人に、何の見返りもなく愛情を注ぐ。
キリスト教で言えばアガペー。無償の愛?
自分にある熱は、自分に還元するんじゃなく、ベクトルを他者へ向けてプレゼント。
水道の蛇口をひねるようにジャブジャブと、無償で愛情を注ぐ。
そんなプロセスの結果、いつのまにか自分の周りに他者の複雑な縁ができている。
その縁が初めにありきで、自分は結果としてドーナツの穴のように形成されるだけ。
結果的に自分が幸福になるか、不幸になるか、それは、単なる「短期的な」結果論。
短期的に幸福と思えても(自分に見返りが来たと思おうとも)、長期的には不幸かもしれない。
短期的に不幸と思えても(恩を仇で返されたという発想)、長期的には幸福かもしれない。
そんなの自分で判定できるわけないので、考えない。無私でいい。無我でいい。
こうやって、縁ありきで自分をとらえると、すごく楽になるし自由になりますね。
なーーーんも執着する必要もない。なーーーんも駆け引きする必要ない。
駆け引きの使う頭を、他者のために別ところで使おう。
すると、いつのまにか抱えてた荷物が自然に減る。
いやー、発想の転換だけどシンプルで面白い!
「出会いは、自分から見ると偶然。交わった点から見ると必然。」
これは、本当にそう思うのですよねー。
単に自意識中心で、自分中心の発想で他者を見るか、
縁や出会いというものありきで、個人個人を見るか。
その視点しだいで、偶然にも必然にもなる。
視点が変わるだけで、世界は宙返りして裏返る。これは面白い!
南さんの「自我=左右論」ってのも、「1、境界線、2、視点」という観点も興味深し。
『境界線』は、わしが書いた『開くこと、閉じること』(2009-04-09)にも通じるものがある気がしちゃう。
いかに自分が固定化され、閉じられた視点で世界を見ていたのかを痛感する。
視点を変えることは開くこと。
自分を開いて自由な感じを受けることがある。その自由に開かれた感覚を大事にしたい。
・・・・・・・・・・・
アニメの電脳コイル、噂には聞いてた有名アニメだけど、すごい量
9時間かー。笑 なかなか気合いないと見れないね。
・・・・・・・・・・・・
『ベタベタでもパサパサでもないサラサラの人間関係』
これは本当に面白い。発想の転換。
お互いが孤独を知って、独立独歩している者同士が、時に共鳴しあい呼応しあう関係。
そんなのがいい。ベタベタと依存しあう関係は、結果としてお互いの足を引っ張り合ったり、
束縛しあって閉じる関係性に陥りがち。
それは自分には合わないなー。
既成のものでイイ!と思えるものがあれば、「イイものをイイ!」と言っていく。
既成の人で面白い人がいれば、「イイ!」と言っていく。
既成のもので物足りないとき、既存のイイものを参考にしながら、
自分なりにイイものを、自分で創意工夫して創っていく。
これって、すごくシンプルなことだし、有言実行したいもんですねー。
簡単なことこそ大事で、それでいて継続するのが難しい。
でも、続けていきたい。
ブログ上のバーチャルももちろんだけど、リアル世界でも呼応していきましょー。
なんか、今は世界も新しいものを生み出そうとして必死でうごめいているように見えますねー。
壊れるべきものが壊れ、残るべきものは残る。
短期的な視点で生み出されたものは、やっぱり短期的に10年程度で壊れちゃう。
映画「ライムライト」で、チャールズ・チャップリンが言った
「時は偉大な作家だ。つねに完璧な結末を書く。」
というのと同じだー。
自意識から見ると偶然に思える。
でも、視点を時や時代に変えると、それは必然。
視点をどこに置くかの問題で、世界の有様は反転する。
世界や人間というもの、今後100年どこに向かうんでしょうね!
楽しみだなー。じっくり観察しながら、その舞台に参加したい。
続きはまた会う時に話しましょう!