日常

映画「ヴィヨンの妻」

2009-10-26 09:33:09 | 映画
「ヴィヨンの妻」 の映画を見た。まだ原作は読んでいない。
大学生協で、買って読んでみようかと思っている。
原作は、新潮文庫で380円という安さである。

ちなみに、青空文庫のおかげでネット上で無料でも読める(→「ヴィヨンの妻」太宰治)。


この小説は、太宰が自殺する2年前に書かれた短編らしい。
破滅的へと向かう自分を客観視しつつ、そんな自分を受け入れて肯定しようとしている揺らぎが伝わってくる。


このヴィヨンの妻では浅野忠信が演じる大谷という男が主人公である。
大谷は太宰が自分自身をかぶせているので、太宰本人の情報と、映画での大谷の情報が混ざってしまうが、映画での大谷に関して感じたことを書いてみる。



大谷は、医者目線で言えば、慢性アルコール中毒、うつ病、不安神経症、離人症という感じであって、その負のスパイラルから逃げられない。ただ、作家という職業で、文章を書くことで、かろうじて安定を保っていたのだろうと思う。
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「仕事なんてものは、なんでもないんです。傑作も駄作もありやしません。人がいいと言えば、よくなるし、悪いと言えば、悪くなるんです。ちょうど吐くいきと、引くいきみたいなものなんです。おそろしいのはね、この世の中の、どこかに神がいる、という事なんです。いるんでしょうね?」
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大谷は、愛人へと逃げてもうまくいかず、酒に逃げてもうまくいかない。
酒から覚めると、うまくいかない現実は目の前にそのまま転がっていて、当然何も変わっていない。


彼はそんなうまくいかない問題を、徹底的に自分の問題と考えていた。
安易に誰かのせいにすることは、ある意味自分の脳の防衛反応であるのかもしれない。
ただ、大谷は外に原因を見つけようとしない。とことん内省しつくして自分を追い詰め、自分の内側から自分自身を腐蝕させ、破滅させていく。


破滅は、周囲を巻き込む。
妻である佐知もどこかで捻れ始めてしまう。

人間、真面目にコツコツ生きていても、人生が捻れだすのはちょっとしたことである。それは、佐知が万引きをしてつかまった時の弁明の台詞からもよく伝わってくる。芸能人の覚醒剤事件が連日報道されているが、それを見ていてもふと思う。


ただ、そんな捻れてほつれてしまった糸をほどくのは自分であり、自分の身近にいる周囲の人だけである。
酒に溺れ、女性に溺れても、それは脳を錯覚でだましているだけで、現実は何も変わっていなくて、むしろその糸は更にからまってきて、自分一人ではほどけなくなってくる。


破滅に向かう大谷と、その大谷の捻れた糸にからまり、共にもつれていってしまう妻の佐知。

そうやって、捻れて、ほつれて、からまって、どうしようもならなくなった人は多いのだろうと思う。
その捻れた原因を安易に自分の外に求めず、自分の内に原因を求めて苦しむ人も多いだろう。


そんな人たちへ光を当てている映画のようにも思えました。
決して万人向けではない映画かもしれません。
僕は面白かったですが、賛否両論かもしれん。(映画館も周りで寝てる人結構いたし。)

新宿で、同じく太宰治原作の「パンドラの匣」もやっている。作家の川上未映子さんが出てる。
いつかこちらも観にいきたい。

2 コメント

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絵。 (la strada)
2009-10-26 09:59:15
この絵、すごくいいですね。
面白い。斬新。新鮮。素敵。
作品が、見ている側の心で自由に動く。
絵でも映画でもなんでも、私の昔から思っているホンモノの持つ「スキマ」感を感じます。
絵を見てると、新鮮な風が吹いてくる。つむじ風。


ヴィヨンの妻は、高校の授業で読んで、印象に残っています。…という記憶が蘇ってきました。好きにはなれなかったけど、記憶の網にひっかかってるもの。それは、何かきっと自分に時を越えて訴えてくるものなんだろうなと思います。だから、好きなものばかり読まず食べず見ず、いい意味で、貪欲に、色んなものを食べて吸収するのは、大切なんだろうなとも。

記憶というのは、不思議なもんだなぁと感じる今日この頃です。振り返ってみると、辛かったことや苦しかったことは、なぜか小さく薄くなっていて、楽しいことや嬉しいことは、鮮明に思い出される。人間ってうまいことできているなぁと不思議で仕方がないです。フェリーニの「81/2」っていう映画は、そういう人間の記憶の糸や窓を、何とも不思議なタッチで描いていると思います。ストーリーは殆どあるようでないような感じだし、分かりにくいし、長いから、それこそ万人受けではないのかもですが。
でも、私はまたいつか観てみたいと思える作品。「リピートしたくなる。」というのも、ホンモノの要素ですね。

だらだらと書き込み失礼しました。
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認知、記憶 (いなば)
2009-10-27 23:54:53
>>>>>>>>>>la stradaさん

絵を誉めていただき有難うございます。誉められるようなものではないんで、至極恐縮です。

よく聞かれることではありますが、絵はブルグ内容に合わせて描いているわけではなくて、全く別の時に描いているんですよね。
もう1000枚弱くらいの、膨大な量のペイントで描いた絵のストックがたまってて、その中からブログの内容に近からず遠からずのものを選んでいます。

以前は、自宅で油絵を描いていましたが、油絵はキリがなくて果てしなく終わらないんですよね。狭い部屋だと汚れてにおいますしね。終わらないので、人に見せれる状況にならず、描いた油絵は全部捨てちゃいました。元々、誰かに見せようと思って描いてなくて、自分のためだけに果てしなく描いていたので。笑

ただ、ブログに載せている絵は、Windowsに元からついてるペイントで描いていますが、原始的なお絵かきソフトなので、技術的な制限が大きい。だからこそ「あきらめ」る事ができて、絵として終わることができる。
終わることができるので、描いた絵は膨大にあったりします。
意味とか考えずに適当に描いているので、何描いているかもほとんど覚えていなくて、自分で発見して自画自賛したりすることもあります。自分でも何が描いてあるのかよくわからないので、後で色々理屈付けして、自分で勝手に納得してたりします。よくわからんプロセスですが、一人精神分析みたいなもんです。ただ、絵から精神を分析できるわけないって思ってもいるので、書きながら大いなる矛盾を感じてます。笑


・・・・・・・・・
ヴィヨンの妻は、小説で買って読みましたけど、映画と全然違いましたー。

大谷の妻である佐知さんの、延々とした独白という語り口調でそれがすごく面白い。
大谷も、どうしようもない男としては書かれていなかったし。映画は誇張されてたなー。
すごく妙な余韻が残る小説でもありました。
酒屋の親父が長々とする独白は、大西巨人の「神聖喜劇」(漫画版しか読んだことないですけど)の世界のような、迷宮に入り込んでしまう世界でしたし。

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記憶って、確かに何かフィルターがかかってるって僕も思います。
しかも、年老いて認知症・痴呆という状況になると、短期記憶は障害されますが、長期記憶の一部は、異常にディテールまで鮮明に覚えているものなのですよね。そして、そこに何か大きい物語を自分で作り、その大きな物語の中へ入っていくような感じなのです。

短期記憶が障害されると、一見するとこの世では生きにくそうに見えますが、記憶のしがらみにとらわれず自由気ままで生きやすいのではないかとも、病院でそんな人たちと接していて感じたりします。


フェリーニの「8 1/2」、今度見てみたい!映画の紹介ありがとう!LaStradaさんは映画玄人だからすごく参考になる。僕は漫画くらいしか貢献でけません。

フェリーニって大人の映画なのかもしれませんね。大学生のとき見て、意味がよくわからなかった覚えだけは確かに残っています。
でも、「意味が分からない」ものはこの世に無数に溢れて忘却しているのに、「意味が分からない」という記憶で自分に残っているということは、何かが自分に刺さっているんでしょうな。
「意味がわからない」という記憶にさえ残っていない膨大なものがあるわけですからね。

僕らは記憶の世界からなかなか逃れられませんが、老いというのはそこから抜けて旅立っていくわけで、そこに何か深い意味があるのかもしれませんね。
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