日常

羊さん

2010-12-04 08:10:49 | 考え
■コミュニケーション

人と話していて、大した話をしていないはずなのに、異常に疲労してしまうという相手がいる。 

ほかの人も、その人に対して同じようにわけのわからない疲労を感じるという話を聞くと、個人の相性というものを超えて、いかに僕らがコトバ以外の領域で複雑に何かをやり取りしあっているものかと、改めて思う。

何かを抜き取られ、何かを挿入されたように、自分の中にわけのわからない疲労感として残る。どっと疲れる。


話し相手をそういう風に疲労させる人は、その人自身が何か巨大なものを隠しているような気がする。
話は、常に何かの周囲をグルグル回りながら、何か死角のような場所を常に避けるように話が展開しているような。
だからこそ、話はツルツルと上滑りするのだろう。 


蓋を閉めて隠してる気になっていても、そこから闇のようなものがこっそりとあふれ出て、漏れ出ているのだろう。 
そんな巨大で濃霧のような闇に、自分のエネルギーが際限なく奪い取られているかのようだ。


そういう相手と話すときは、その人の被膜としての表面ではなくて、中心にある点のようなもの(古来、「たましい」とか「spirit」とか「プネウマ」とか呼ばれてたものかもしれない)を見すえながら話さないと、自分の中にその「闇」が侵入してきて飲み込まれてしまう気がする。


話した後も、(その話はほんとうは終わったはずなのに)ずっと嫌な感情を引きずり永遠に自分の中では終わらない
そして、なぜだか自分もイライラしてくるような気がする(そして、無関係な他の人へと、そのイライラした状態が悪影響の輪を無意識に広げていく)。 

ふと冷静になると、その魔術的で呪術的な力に気づき、自分でも驚く。
呪術が日常的な原始社会では、こういうもの悪用していたんじゃないかとも思えてくる。



■「星を負った羊」

中国・モンゴルでは、<羊が体内に入ること>は、神の恩恵と考えられているらしい。
チンギス・ハンの体内に「星を負った白い羊」が入っていたという記録もあるそうだ。


「星を負った羊」は、その人の意志とは無関係にその人の運命を大きく変えていく。

あくまでも結果的に、「星を負った羊」は、肯定的な意味が与えられることもあるし、結果的に否定的な意味が与えられることもある。
それは、単なる正当化のときもあるし、あくまでも結果的な後付けのようなものだ。


そういう「星を負った羊」が体内に透けて見えるような人は、この現代社会にもいるような気がしてならない。

よくわからない羊に自分自身が乗っ取られている人もいれば、その羊をうまく乗りこなしている人もいるし、その羊とすでに一体化している人もいる。
そんな「羊さん」との関係性が、結果的に肯定的な意味になったり、否定的な意味になったりするのだろう。



話していて異常に疲れてしまう人も、そのひとの性格のせいだと考えるより、「どんな星を負った羊がこの人に住みついているんだろう」と思って丁寧に見てみれば、自分が闇におかされてイライラ状態になるのは避けられる気がする。




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村上春樹「羊をめぐる冒険」『羊は思念だけを残していくんだ。しかし羊なしにはその思念を放出する事はできない。これが『羊抜け』だ。』 
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『地獄だよ。思念のみが渦巻く地獄だ。一筋の光もなく、ひとすくいの水もない、地底の地獄だ。』
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『羊が父親を傷つけたんです。そして羊は父親を通して、私を傷つけてもいるんです。』
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9 コメント

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はじめまして (チカ)
2010-12-05 21:51:41
はじめてお邪魔いたします。
先週、竹内整一先生や田口ランディさんが主宰となられた研究会に参加しまして、この度、竹内先生のお名前で検索したところ偶然にブログを拝見しました。
奥行きのあるステキなブログ!これからゆっくりゆっくり読ませていただきます♪

確かに。。人と人とはコトバにならない何か(「思念」だとか「気」のようなものでしょうか…)で交流をしているように思います。

私たちは口にするコトバだけでなく自分の内面のコトバにも意識的に注意できれば、もっともっとお互いが安心感の中で気持ちよく交流ができるはずだとも思うのですが、大切なことに気付くにはそれにふさわしい時間が一人ひとりに用意されているようにも思うので、結局のところ、自分のコトバにしか責任は負えないんだなあ、と何だか切ないような気持ちにもなってきます。

人は「進む」ことと「待つ」ことが一体となって時間の上に立っているのかな、とふと思いました。
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時を待つ (いなば)
2010-12-06 14:54:58
>>>>チカさま

はじめまして。
竹内先生のこのブログがひっかかるのですねー。

たしかに竹内先生からは直接いろいろ教えてもらったこともあり、いろいろと影響を受けていて、本の感想もなんとなく書きたくなってくるもので、それで思わず感想書いているような気がします。
ランディさんにもかなり影響受けましたし。コトバで適切に表現していきつつ、その内奥の本質に迫っていくことを学んだと言いますか・・・。

ダイアログ研究会は、ランディさんから直接頼まれた縁もありまして、(大したことは何ひとつしてませんが)自分も運営の面でもなるべく協力できるようお手伝いしています。
ただ、なかなか仕事の関係で(自分の能力不足ということもあり)、通常の仕事が終わるのが20時過ぎで、それから本職?の研究業務もやらないといけない時間に追われる立場なもので、お手伝いできてるようで、できてないようなフワフワした感じです。
ただ、自分も『対話』というのは大事なテーマですので(日常の患者さんとの対話という意味でも)、いろいろ勉強していこうと思ってます。
現地でお会いしましたら、また直接お話しできれば。


ところで、チカさんは整体師の方なのですね。

僕らは自然科学をベースにした、西洋医学を本職にしている人間です。
当然と言えば当然ながら、その限界を日々、痛切に感じます。
ただ、プライドの高い職種なのか、なかなかそれを認めたがらない人も多くて。
認めたくないせいで、いろんな歪みはさらに拡大してひろがっていくような。そして、無用な争いが生まれるような。そんな影の面もすごく感じます。


整体も含め、西洋医学はお互いのあり方に対して、相補的で相乗的であるはずなのに、いまはそのあたりの連携がうまくとれてなくて、病院は病院で孤立しているような状態です。
今後の自分のテーマとしては、いかに今あるものを有機的につなげていくべきか、ないものねだりというよりも適切なバランスを見出していくというあたりに、自分の学問や仕事のテーマもあったりします。(ブログにも、「つなげる」っていうので、関連はないですが偶然書いてます)

そういうのも、大きく広い意味での対話のようなものでもあると思いますし。
相反する立場で争いあうよりも、違う立ち位置から、いかにその距離やバランスを見出していくかということは、大事ですよね。


・・・・・・
まあ話が脱線するのでこの辺で笑。
コメントのほうに。


そうですよね。
コトバはいろんなコミュニケーションのベースになる回路なので、とても大事なものではあります。
でも、そのことばかりに意識が向きがちで。その表面のことが全てだとなると、いろんな行き違いが生じがち。

表面に浮かび上がるコトバ以外にも、コトバには至らなかったものは無数にあって、自分の中での無意識の対話が、その裏には隠れているもので。そして、そんな自分の内的な心情が相手のコトバをゆがめて解釈することもありますしね。
そういうことをいろいろ考えてたら、またブログに書くテーマがポカリと浮かびました。(ありがとうございます)

「思念」だとか「気」のようなもの。
そういう実体(触ったり見たりできるもの)があるのかないのかとかは、僕にはわからないですが、そういうものを仮にでも想定してみたほうが、自分の中で腑に落ちることはすごく多いです。
ブログにも書いた中国の『羊』の概念もそうでしょうし。
それは春樹さんも、知ってか知らずか、それを物語の中に溶け込ませて、僕らに素晴らしく壮大な物語を提供してくれるわけで。



>人は「進む」ことと「待つ」ことが一体となって時間の上に立っているのかな、とふと思いました。
そうですね。「進む」っていうような前のめりな未来志向の時間感覚は、意識に上りやすいですけど、同時に「待つ」というような、受け身で、一見すると無為のように見える状態ってすごく大事ですよね。
ぼくも、最近はチャンスを求めて突き進む!っていうのはなんだか性に合わなくて、時が満ちるのを「待つ」っていうのが自分にとってはしっくりくるなって思います。待つためにも、感覚を敏感にして、無意識の感度をあげてアンテナをはらないといけないものですけれどね。


P.S.
チカさんのブログのほうも、ちょこちょこ読ませてもらってます。

からだの声っていいですね。コトバと声。
このあたりも、すごく深めれそうなテーマです。

よい小説も、そこにはVoiceがあると思います。ただの記号の連なりではない、そんな声。そんなVoice。

松尾芭蕉「無能無才にしてこの一筋につながる」でブログがはじまるっていうのはいいですねー!
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ココロとカラダともう一つ (チカ)
2010-12-07 10:48:00
お返事ありがとうございます♪
ブログも見てくださって、そんな風におっしゃってくださって、とても嬉しく光栄です。

コトバと声。
コトバの定義が、私の中で感覚に頼りすぎていて、言葉を編んでお伝えするには荒くてゆるくて申し訳ないのですが、おっしゃってくださった通り、これから深めていきたいと思います。
コトバと声の問題は、頭と心とからだの動きの連帯であって、バランス良く使わないと衰えてしまうし、使うことで磨かれて、自分も自分の周りの人の居心地もよくなるのだと思っています。
(それが「気」の巡りが良くなることでもあり、「羊さん」と良い意味で同調できることにつながるような気がします。『羊』の概念は初めて知り、とてもおもしろかったです!目に見えるものだけ理解したり、判断しようとしては目に見えない心やカラダの中が息苦しくなることもあるように思います)

ちなみに、私は大学では言語文化学科という少しマニアックな学科で言語学の基礎を勉強した経験があります。ゼミでは方言の調査で山形県で合宿をしながら、高年層、中年層、若年層、のそれぞれの方にアクセントや語彙と意味との調査やらをしていました。
そうした世代間の言葉の使われ方の変化を調べながら感じたことは、個人が何気なく使っている言葉の中には世代を越えた歴史がある、ということです。
言葉にも根があり、それを使う一人ひとりの個人にも根があって、その意識されにくい(日常ではする必要もないとも言えそうな)土壌や根には、それまでの時間と歴史と人がつらなっているのだなあ、「お陰さま」で「ありがたい」ことだなあ、と実感しました。
(このことは、私もまたいずれブログに書きたいと思います。ここでお話しすることと重複することにもなると思いますがどうかお付き合いください☆)

と!いなばさんもダイアログ研究会にいらっしゃったんですね。
コメントを差し上げる時には、なんとなく「そうかな、そうかな」と思ってはいたのですが、お返事を拝見してからランディさんのブログでパンフレットを確認してみると、お名前を見つけて、なんだか恥ずかしいような嬉しいような気持ちになりました。
そして、会を支えてくださって、心から、ありがとうございます。
(ちなみに私はお恥ずかしながら、研究会の最後に竹内先生に質問をさせていただいた者です。はい!次回、ぜひお話しできると嬉しいです。)

西洋医学と東洋医学の今後のあり方。いなばさんのおっしゃる通りだと思います。
お互いに非をあげつらえて優越感を感じたり、自分のあり方を正当化するのではなく、どちらも幸せの道具として活かしてもらいた、というのは私もかねてからの願いです。
いなばさんのような目線を持たれた医師がいらっしゃるということは、私が言うのもおこがましいのですが、とても心強く、嬉しい限りです。
ぜひまたその点でも対話に参加させていただけましたら嬉しいです。

私の兄は医師をしていますが(しかもいなばさんと同じく循環器内科です!)、医療観の対話となると難しさを感じざるをえません。
医療観というのは、その土台にある本人の人間観や人生観の延長線上にあるようで、一概に良し悪しは言えないとは思うのですが…。

主張ではなく対話によって医療のあり方もより良いものになっていくことを信じてやみません。

今年も残すところあとわずかとなりましたね。
良い締めくくりとなりますことを心からお祈りしています♪

P.S.
宣伝するようでいやらしいのですが…整体院にはランディさんも受けに来てくださったこともあって、先日お会いしました折りには周りの方にも宣伝してくださってありがたくて、本当に嬉しかったです。
いなばさんも整体にご興味があったり、お疲れの際にはどうぞお気軽にお声かけください。
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神楽坂はいいとこ。 (いなば)
2010-12-08 00:43:12
>>>チカさん
(まず、こちらのブログよりそちらのブログの方から・・・)
ブログ、「ダイアローグ研究会 (2)きっかけは関係なくない」のとこが更新されてますね。

いやはや、同じようなことを僕が考えていたので驚きました。
チカさんのブログにコメント欄がないので、こっちに書き込んじゃいます。


チカさんが参加されなかった第1回目で、まさしく僕は同じような発言をしたのです。
それを簡単に言うと、
「自分は、核という問題に全く関心がなかったし興味もなかった。
原爆も知っている、原子力エネルギーも知っている。物理学も好き。
でも、だからと言って核を考えているわけでもない。

原発が家の隣にあるひと、知り合いが原発事故でなくなったひと・・・
そのひとそれぞれで、語るべきことは全然違う。
つまり、これは「関係性」の問題なのではないか。
核と、自分との、関係性の問題。

そして、物事は常に関係性の問題であって、関係性を作っていく問題。
関係性をつくっていく基本は、やはり実際の知り合いとの関係性が基本になるし、
自分は、知り合いのランディさんが興味あるなら、自分にも興味があるはずだと思って、そこから自分なりの関係性が生まれた。
だから、それぞれの人が、それぞれとの関係性を考えながら、その上で語りあっていく問題になるのではないか。」

みたいなことを言ったのです。

だから、チカさんが書いておられるところと、正直な話、僕もすごく出発点が似てます。
無理やり関係性を作っても、そんなの長続きしないものだと思うのですよね。


・・・・・・・・・・・・・

上の部分は、チカさんのブログへのコメントなので、こっから下がほんとのコメントです。笑


言語文化学科というのは確かにマニアック!
でも、おもしろそう。
僕は熊本の人間で、いまだに方言が抜けません。
でも、方言というものは、なんとなくその土地の記憶があります。
それは、風土とか気質とか歴史とか、いろんな集合的な記憶です。

チカさんがフィールドワークで感じられたことと同じようなことを、僕も感じています。
方言は、なんとなく懐かしい感じがするのです。
それは、別の土地のヒトでも感じると思います。
たとえば、寺山修二の東北訛りとか、とても郷愁を感じるのが不思議です。


研究会の最後に竹内先生に質問した方なのですね。
すみません。どの方か記憶になくて・・・。

個人的に、「あまり対話すらしたくないときはどうすればいいのか」って女性が質問していて、それがすごく切実な叫びのようなものだったので、そのことをひとりずっと考えていたので、ほかの話をあまり聞いてなかったのかもしれない・・・。


西洋医学と東洋医学の問題、あと、代替医療との問題ですね。
この辺は、僕らの世代が取り組むべき問題だと感じています。
いまの教授たちの世代は、とりあえず西洋医学を確立することが大仕事だったわけで、次の僕らの世代は、医学を西洋だけに限らず、文化人類学的に医療を考えていく時代になるんだと思っています。
それは、まあ自然科学とかScienceそのものの在り方を考える分かれ目のような場所に立っていて、その一つなんだと思いますね。


整体院・・・興味深いですね。
場所を調べてみましたが、神楽坂ですね。
そこの近くに、Galonっていう帽子屋さんありますが、ご存知ですか?
そこのデザイナーのヨネダマキさんはお友達なので、何度も店に行ってるので、整体院のご近所には何度も行ってます。すれ違ってるかもしれませんね。


僕は、趣味でフリークライミングをやっていて、しょっちゅうオリジナルな柔軟運動をして、体をグニャグニャにしているので、むかし整体師のヒトにもんでもらった時も、なんか筋肉柔らかくて、全然凝ってないですね。って感心されました。
でも、最近は職場でPCを打つような、脊椎動物として異常な態勢で日々を過ごすことが多いので、筋肉も硬くなってなまってるかもしれません。
プロのひとに整体してもらうと、やっぱり違いそうですねー!
いづれ、お世話になると思います!
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ジュン換気 (チカ)
2010-12-10 11:13:02
記憶と細胞となつかしさ…。このキーワードはずうっと私の気持ちの底にチラついていて、そのキーワード同士のつながりが見えないまま気になり続けていた存在でした。
いなばさんのブログの他の記事も拝見しまして、それからいただいたコメントを読み返しながら、よりはっきり姿が見えるようになったのに言葉にならない状態のもどかしさにいまだに漂っている状態です…。

いなばさんやお友だちの方のお考えや言葉によって自分の中に新しい種がまかれたり、耕されるということがなんだか本当に嬉しいです。

方言の持つ「土地の記憶」。ジーンとしました。。
なつかしさを呼び起こすものは、「人」の細胞の中にある記憶と「言葉」の音とニュアンスとがもつ土地の記憶との共鳴というか、響き合いといったものが関係していそうです。

ふと、人はからだという地球と頭の中という庭とを持っているようだ、と以前に感じたことを思い出しました。
そう感じたきっかけは、小林康夫先生の『知のオデュッセイア』を読んだ後に、言葉によって情報を吸収したというよりも、まるで小林先生の頭の中というお庭を気持ちよく散歩させていただいた後のような、静かで豊かな気持ちになったことにあります。
(その後に読んだ養老孟司さんの本の中で「人間は脳という都市と、身体という田舎を抱えている」という考えに触れて、納得しつつまた考えさせられていました。)

人が意識できる範囲の記憶というのは
自分の頭の中から見える庭を眺めているようなもので、
からだの中には意識できなくとも人類が地球とともに脈々と蓄積してきた記憶というものがあって、
人はからだという地球の土壌の一部で
庭を整備するように考えている、
とそんなことを考えていました。

自然やからだの中に「土地の記憶」。
根源的ななつかしさというものは、言葉では表し難い、からだを通して感じる「味わい」のようなものなんですね。

・・・・・・・・・
ブログ・茶句里(ちなみに、この名前はサクリという音がピンと浮かんで、当て字でつけた名前です)へのコメントも、とてもとてもありがとうございます!

コメント欄の設置は、フォローしきれない自分のキャパの狭さを知らしめてしまうようで控え中なのですが、コメントをいただけましてとても嬉しいです。
茶句里を読んでくださっている皆さんにもいなばさんのご意見を知っていただきたいとも思うのですが…取り急ぎとしまして、いなばさんのこちらのブログのリンクをはらせていただきたく思うのですがよろしいでしょうか?(♪)

対象となる問題と自分との間に具体的な関係がまずはあって、その「つながり」を土台に考えていく、ということが基本であって大切であると私も思います。
問題が切実になるほど、一般論に置き換えたり、問題と自分との関係を抽象的にぼかして考えてしまいがちですが、問題が切実であればこそ、一人ひとりが「自分」という具体的な立場から考えなくては「対話」になりえないんですね。
そのためには一般的に「知る」こと。そして、個人として「考える」こと。
そして、考えるうえではやはり(ブログにも書きましたが)「身をもって交わること」だと、もとの考えに立ち返ることになります。

いなばさんの10月のブログの中の、関係性と挨拶のお話をお読みしまして、ウンウンとうなずいていました。
挨拶というのは、からだの窓から流れる声と言う音の風による換気にも思えます。
今は声を使わなくてもメールやツイッターなどで言いたいことが届いてしまいますが、やはりからだの範囲では「声」と届けてお互いに換気し合うことが気持ちがいいなあ、と思います。

P.S.
Galonさん!お散歩でよく通ります。なのに、まだ一度もお邪魔したことがなかったので、近々ぜひおじゃましてみます♪
なんと、フリークライミングですか!私にとっては未知の世界ですが、それもまた、新しい「目線」が開ける開拓型スポーツのよう…!
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ゲニウス・ロキ(Genius Loci) (いなば)
2010-12-10 22:07:11
>>>>>チカさん
「土地の記憶」、ありますよね。よく、そのことに思いをはせます。特に、全く知らない土地にひとりでいるとき。その異邦人の感覚は、自分に対して土地の記憶をより強く印象付けてくるような。

ゲニウス・ロキ(Genius Loci)というコトバ、ご存知ですか?僕はこの言葉が結構好きです。
日本語では「土地の精霊」「地霊」と略されていますが、現代建築で「ある場所が持つ独特の雰囲気」を指すコトバです。ラテン語のgeniusは英語のspiritですが、その場が持つたましいのようなものだと勝手に思っています。「たましい」の概念は、別に生物に限ることなく、非生物にも使っていいと思っているし、想像していいと思うんですよね。
土地はたましいを持ち、記憶を持つ。 だからこそ、ひとは土地にこだわるのだと思うし、それは、人間が死んだら土地となり、地面(個体成分)や天空(液体成分)へと還っていくこととも通じるような気もしますね。
この土地は、かつて誰かが生きていて、その人の記憶は土地の記憶となるというか。
ひとがいなくても、そこに吹いた風の記憶や、温度の記憶、ミクロの微生物の記憶・・・が、その土地には複合的な記憶としてあるように思います。
もちろん、それは究極的には地球や宇宙の歴史であり、その記憶の欠片なのかもしれません。

「ふと、人はからだという地球と頭の中という庭とを持っているようだ」
そうですね。宇宙を考えるための脳がないので、そのための脳が人間だということと似ていますね。
人間の脳は、地球の脳であり、宇宙の脳である。ミクロコスモスとマクロコスモスを同居させることは、自分がいろんなものとのつながりを感じるうえで、すごく大事な気がします。巨大で畏怖すべきものに抱かれながら生きていくような感じです。

養老先生の「人間は脳という都市と、身体という田舎を抱えている」というのは面白いですよね。
僕も、養老先生の本は一時気浴びるほど読みました。もう体にしみこむように。
養老先生のおかげで、「自分の脳」というのを客観視できるようになったことです。そして、自分の脳の暴走を、阻止できるようになりました。笑  あ、これは脳が勝手に暴走してるなーみたいな感じで。

むかし、「無思想の発見」の感想も書きました。この本、いいですよね。
BookOffで100円で売ってあってかわいそうなので、購入して救済してあげました。100円コーナーにみじめに置いてあるくらいなら、ぼくが誰かにプレゼントしようかと思いまして。我が家の本棚でスヤスヤ眠っています。あと、養老先生の本では「解剖学教室へようこそ」(ちくま文庫)が、すごく好きです。あ、どんどん本の話しに脱線しちゃいました。

「からだの中には意識できなくとも人類が地球とともに脈々と蓄積してきた記憶というものがあって」
同感です。僕らは、宇宙や地球の歴史と同じだけの時間が流れていると思っています。
そこに転がっている石コロでさえ、そこには宇宙の時間が流れていて、数十億年の歴史があって、それだけの長い年月、この地球の歴史を静かに見守ってきた歴史があるわけで。


僕らは、生まれた年から数えて31歳などというわけですが、そこには数十億年の省略があるわけで。自分が生まれた年を基準にするのか、なにを基準にするのか、それだけで自分の年齢は変わりますよね。

「ブログ・茶句里」のほう、興味深い内容がおおくて、2010年3月までは逆流しながら読みました。
読書が好きとのことで。僕も好きです。
もともとは漫画がメインでしたが、最近は活字へとうつり、古典へとうつりつつあります。
古本屋にいくと、かならず数冊握りしめて家に帰りますので(別に万引きしているわけではありません)、我が家は床が抜けるのではないかという思いと、本棚にきれいに整理整頓できない現実に、いつも途方にくれます。さいきんは、100冊ほどは自分の大学の研究室に移動しましたが、結局は増えるばかりです。笑


ブログのコメント欄の設置は、確かにむずかしいところありますよね。
僕も、基本的には知ってる人にしかブログ教えてません(知ってる人でも、そんなにわざわざ自分から教えることはしないので、ほんとにごく一部だけ)。 でも、自分のブログは、チカさんのように何かのコトバを検索してみてくれている方もいるようで、そして自分のブログは異様に字が多いし、いつもクラクラするようなことを我ながら書いているので、このブログを読み続けてくれる方というのは、すでの何重にもセレクションかかっているような気がします。しかも、コメントまで書いてくれる人はマレですし。
でも、いつもコメント欄のほうがどんどん長くなっていって、本題より雑談のほうが盛り上がってきて、どっちがメインなのかよくわからなくなりますが、まあこうして時間が空いた時を見つけてコメント書いている次第です。
ブログのリンクは、もちろん全然かまいませんよ。このブログを読み続けることができる人は、それなりに強靭な人じゃないと無理な気がしますし。笑


「問題が切実であればこそ、一人ひとりが「自分」という具体的な立場から考えなくては「対話」になりえないんですね。」
ほんとそう思います。そこから自分を抜かせばいくらでもいえますしね。
結局、「対話」は、相手との対話でもあり、同時に自分の内面との「対話」でもあります。それは合わせ鏡のようなもので。


「挨拶というのは、からだの窓から流れる声と言う音の風による換気にも思えます。」
僕も同じようなイメージを持っています。換気ですよね。空気を入れ替えるためのもの。

「声」を出すこと。そういう無目的なおしゃべりというのは、何物にも代えがたい時間だと思います。目的もなく、声を出し合い、話すこと。 それは、対話の基本ですね。 声によって、自分の閉じられた「観念」のようなものは、世界に向けて開かれて、外と交通し始める。それは、その人が奏でる、広い意味での音楽のようなものでしょうか。
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ゲニウス・ロキ… (チカ)
2010-12-12 01:25:26
いなばさん、ありがとうございます。
いなばさんのお書きなる言葉は、声が聞こえるようにココロに届いては響きます。文章もまた、からだの眼にとっては楽譜であって、ココロの眼にとっては楽器にもなりうるようです。
「声を出すことが大切」と自分で言っておきながら矛盾するようですが、その点は後から反省するとして、まずは率直な感想にて、です。
(リンクの件もありがとうございます。早速挑戦してみたのですがやり方に戸惑っていまして、解決を待っている次第です。)

文章は、その味わいやリズムによって量を飲みこみながら読み進められますよね。
養老先生の本はその点においても魅力的。…と言いつつも、実は私、養老先生の著書は学生の頃にブームに便乗して読んだ『バカの壁』と、最近本屋さんで遭遇した『まともな人』しか読んでいないんです。
あまりにお名前が先行していて、なぜか意地のようなもので本を手に取ることをためらっていました。。
『無思想の発見』と『解剖学教室へようこそ』も早速読んでみます。
(『無思想の発見』。。もし本棚から眼を覚まされた時に機会がありましたらat神楽坂へ。。循環を♪)

「ゲニウス・ロキ」という言葉も概念も、このたび教えていただいてはじめて知りました。興味津々。。!

>日本語では「土地の精霊」「地霊」と略されていますが、現代建築で「ある場所が持つ独特の雰囲気」を指すコトバです。
なるほどです。もともとが日本語ではない言葉ほどニュアンスで受け取りたいなあ、としみじみ。
わかりやすい言葉でおさめてしまうと、意味合いが限定されて、もとの言葉が表そうとしている豊かなニュアンスが感じ取れなくなってしまうことにもなりかねないですよね。
まずは今、ここから少しずつでも「ゲニウス・ロキ」を私の中でも育てて、深めていきたいなあ、と思うばかりです。

>「たましい」の概念は、別に生物に限ることなく、非生物にも使っていいと思っているし、想像していいと思うんですよね
同感です。「たましい」という言葉も、言葉でありながら色の名前のような一つの記号というか、やはり「たましい」という「ニュアンス」を、目で見るように、肌で感じるように感じ取ることに何か意味があるように思います。
うまく説明できないのですが、まずは生物にも非生物にも「色」はあるのと同じように、「たましい」もある、というような感じを抱いています。

ものの様子を表す時に「風合い」という言葉があるのもおもしろいことだな、と「土地の記憶」のお話をうかがいながら思い浮かべていました。
時間は風のように生物と非生物の上を流れ、記憶を刻み、そうした中で「風合い」も増していくのでしょうか。
「たましい」という色の名前の実体は、「風」に近いようにも思えてきます。
また、不意に遭遇した風の湿気や温度といった「匂い」に触れて、“あっ、なつかしい”と思う時。風が運んでくる時を超えた人や自然の「記憶」を思うことがあります。
記憶も循環していると考えてみるのも楽しいですよね。

・・・・・・・・・

茶句里も読んでくださってありがとうございます。
私は、書いた日には気にならなくとも、翌日の朝に読み返しては、内容の幼さに恥ずかしくなって消したくなってしまうので、いまだにほとんど読み返せないでいます。
文体も内容の傾向もバラバラになることを予想して(実際にその通りになったのですが)、色々な人が書いて寄せ集まってできた雑誌のような位置づけにしよう、ということで「月刊」とつけました。
私の場合(多くの人がそうなのではとも思うのですが、)書く時には、考えたことを書く、というよりも、書くこと自体が考えていることとイコールになっています。書くこと自体が考えることを促進してくれるような、ある意味での「対話」。いなばさんのおっしゃられた「自分の内面との対話」の一つのようです。
対話の場を共有してくださって、とても嬉しい限りです。可能性は無限ですね。
返信する
訂正です (チカ)
2010-12-12 01:31:40
>からだの眼にとっては楽譜であって、ココロの眼にとっては楽器にもなりうるようです

投稿後に読み返して気付いたのですが、この「ココロの眼にとっては楽器」という点は、「ココロの眼にとっては音」の方がよさそうです…!
返信する
ブログはダイアローグ (いなば)
2010-12-13 23:52:38
>>>>チカさん
どうもどうも。長いコメントに付き合っていただき。
ちょうど最近は仕事が一波超えたので、こうして比較的早めに返事できています。
生活というものは、小さい流れ、大きい流れ、そういうのが何個か重なりながらできているもので。

養老先生、『バカの壁』は個人的に養老先生の本でワーストワンの本なのですよねー。
それは、きっと養老先生も分っているとは思うのです。ある程度売るために作った本だということを。
養老先生の真髄は、ときには論理が飛躍しますが、自分の頭で考え続けることの凄さです。
その姿勢に、とても尊敬しています。
『無思想の発見』、今度ダイアログ研究会ででもお会いする時にでもお贈りしますよ。我が家の本棚の肥やしになってもしょうがないのですし。
ブログの右のほうに「メッセージを送る」という項目があると思いますので、そちらからこちらへメアドなど送ってくださいませ。

『ものの様子を表す時に「風合い」という言葉があるのもおもしろい』
確かにそうですね。風ですね。
風って、昔は霊魂とか魂と同じと思われていますよね。

東洋医学とかで言われる「気」の概念も、たしかチベット医学では「風(ルン)」と表現したような覚えがあります。
気がからだの中を循環するように、風が体の中をめぐっているという考えだったような。
西洋医学はそうとう勉強したので、今後は土着的な医学もふくめて、いろんな形の医学を勉強してみようと思っています。
最終的にはそれは患者さんに還元できる形で応用できればとおもっているのですが、そういう意味で中国とかチベットとか、そういう違う地域の医学も面白いですよね。
いろんな地方で、人体をどういう風に捉えていたのかということは、とても興味深いです。


『不意に遭遇した風の湿気や温度といった「匂い」に触れて、“あっ、なつかしい”と思う時。風が運んでくる時を超えた人や自然の「記憶」を思うことがあります。』
においはそうですよね。爬虫類脳って言われる、爬虫類にも保存されている大脳辺縁系で感じていますから、とても原始的な感覚なのだと思います。
おそらく、ひとを直感的に好きになるか嫌いになるかとかも、じつは意識に上がらない「におい」とかもかかわっているような・・・。
「同じ匂いを感じる」って言い方ありますよね。ネット上でも、そんな匂いを感じるというメタファーを使うこと自体、とても面白いですよね。


『色々な人が書いて寄せ集まってできた雑誌のような位置づけにしよう、ということで「月刊」とつけました。』
なるほど。そういう思いがあったのですね。
自分は、なんとなく週に2回程度のペースで書いてます。
特に自分で決めたわけではないのですが、忙しい時でも最低週に1回は書きたいなって思ってます。
ある種の習慣のようなもので。


むかしは、もっとくだらないお笑い満載の内容のほうが多かったのですが、最近は思索系に偏ってます。
ま、これも生活の流れのようなものですかね。きっと、そういう時期なんでしょう。(ひとごと)


『書くこと自体が考えていることとイコールになっています。』
ぼくも正しくそうですね。
文字に起こしながら、同時に考える。そこはぼくも両輪になってます。
村上春樹さんのスプートニクの恋人のすみれも、そういう女性でした。(最近読み終わったばかりなので思わず。)


ぼくは、ブログはダイアローグと位置づけてます。
コメント欄で深めていくのが好きなのです。

それに対して、Twitterはモノローグだと思っています。
どんどん深く深く。
文字を書いて、その文字をこよりのように強い紐状にして、その紐をたよりに、深い森の下へと思考しながら潜っていく感じです。
Twitterは、あくまで、モノローグ。Twitter上で返事を書いても、結局何も深まっていかないことを何度も感じているので、自分としては、ブログはダイアローグの場として、お互いを深めるための場として、個人的に使っています。
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