日常

福島智「ぼくの命は言葉とともにある」

2015-09-25 00:28:35 | 
福島智さんの「ぼくの命は言葉とともにある (9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと)」致知出版社 (2015/5/30)を読みました。


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<内容紹介(Amazonより)>
3歳で右目を、9歳で左目を失明、14歳で右耳を、18歳で左耳を失聴し、光と音の世界を喪失した福島智氏。
氏は当時のことをこう綴っている。
「私はいきなり自分が地球上から引きはがされ、この空間に投げ込まれたように感じた。
自分一人が空間のすべてを覆い尽くしてしまうような、狭くて暗く静かな『世界』。ここはどこだろう。
(中略)
私は限定のない暗黒の中で呻吟していた」

著者はまず他者とのコミュニケーションをいかに復活させ、言葉=情報を再び得ることができるようになったかを語る。
だがそれはプロローグにすぎず、自ら生きる意味を問い、幸せの在処を探し求める。
その深く鋭い思索の足跡は、 両親や友、師との交流に始まり、
フランクルや芥川龍之介、北方謙三といった人物たちの著書や谷川俊太郎、吉野弘の詩、 はたまた落語にまで及んでいく。
苦悩の末に著者が見出した生きる意味、幸福の形は読む者にもまた深い思索をもたらしてくれるであろう。
人間と人間が本当に繋がり合うとはどういうことか、仲間との信頼関係を築くためには何が大事かといったことが説得力を持って迫ってくる。

<著者について>
福島智(ふくしま・さとし)
1962年兵庫県生まれ。3歳で右目を、9歳で左目を失明。18歳で失聴し、全盲ろうとなる。
58年東京都立大学(現・首都大学東京)に合格し、盲ろう者として初の大学進学。
金沢大学助教授などを経て、2008年より東京大学教授。
盲ろう者として常勤の大学教員になったのは世界初。
社会福祉法人全国盲ろう者協会理事、世界盲ろう者連盟アジア地域代表などを務める。
著書に『生きるって人とつながることだ!』(素朴社)『盲ろう者として生きて』(明石書店)などがある。
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福島智さんは両目が失明し、そのうえ両耳も聞こえないという方なのですが、東大先端研の教授でもあります。
東京大学: 福島研究室 バリアフリープロジェクト


福島さんは生まれながら目と耳が聞こえないわけではありません。
だからこそ、少しずつ光や音を失われていく苦悩と、そこをどう受け止めて行ったのか、というプロセスが生々しく書かれていて、読んでいて自分の心がえぐられるような手ごたえがあります。
読み手は、自分が同じ立場になったら、果たしてどうなるのだろう、と自分と福島さんを重ね合わせながら、本書を読んでいくことになると思います。



目次は以下のような構成です。

●プロローグ 「盲ろう」の世界を生きるということ
●第一章 静かなる戦場で
●第二章 人間は自分たちが思っているほど強い存在ではない
●第三章 今この一瞬も戦闘状態、私の人生を支える命ある言葉
●第四章 生きる力と勇気の多くを、読書が与えてくれた
●第五章 再生を支えてくれた家族と友と、永遠なるものと
●第六章 盲ろう者の視点で考える幸福の姿

それぞれ心に深く残りました。



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プロローグ 「盲ろう」の世界を生きるということ
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2001年に助教授(准教授)、2008年に東大先端研の教授になられましたが、2001年当時の先端研ニュースにご自身が書かれていた文章が紹介されていました。少し長いですがそのまま引用します。



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福島智『ぼくの命は言葉とともにある』
「「音」には色彩があり、きらめきがある。そして、常に「時間」とともに音は流れる。
「光」が一瞬の認識につながる感覚だとすれば、「音」は生きた感情と共存する感覚なのかもしれない。

宇宙空間を実感したことがある。
それも、地球の「夜の側」の空間のような、ほとんど光のささない真空の世界を。
「光」と「音」を失った高校生のころ、私はいきなり自分が地球上から引きはがされ、この空間に投げ込まれたように感じた。
自分一人が空間の全てを覆いつくしてしまうような、狭くて暗く静かな「世界」。
ここはどこだろう。
(中略)
私は限定のない暗黒の真空の中で呻吟(しんぎん)していた。

美しい言葉に出会ったことがある。
全盲ろうの状態になって失意のうちに学友たちのもとに戻ったとき、一人の友人が私の掌に指先で書いてくれた。
「しさくは きみの ために ある」
私が直面した過酷な運命を目の当たりにして、私に残されたもの、そして新たなる意味を帯びて立ち現れたもの、すなわち「言葉と思索」の世界を、彼はさりげなく示してくれたのだった。

あれから二十年の時が流れた。私の手の上を、この間、実に多くの「言葉」が通り過ぎて行った。
指点字や手のひらへの文字で直接語りかけた人、通訳者を通して言葉を交わした相手・・・。
子どもたちがいた。若者がいた。女性がいて、男性がいた。障害を持つ人。
強くたくましい人、なのに、突然病に倒れた人がいた。さまざまな国の人、肌の色の人がいた。
そして、そのうちの少なからぬ人たちが、今はもうこの世にいない。

「光」が認識につながり、「音」が感情につながるとすれば、「言葉」は魂と結びつく働きをするのだと思う。
私が幽閉された「暗黒の真空」から私を解放してくれたものが「言葉」であり、私の魂に命を吹き込んでくれたものも「言葉」だった。
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福島さんは、音と光を失っていた時、ある友人に指で書かれた言葉
「しさくは きみの ために ある」
というメッセージに、一つの指針を得ます。
そして、「言葉(コトバ)」のもつ力や本質を深く探求するきっかけになります。



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福島智『ぼくの命は言葉とともにある』
(友人への手紙)
「この苦渋の日々が俺の人生の中で何か意義のある時間であり、俺の未来を光らせるための土台として、神があえて与えたもうたものであることを信じよう。
信仰なき今の俺にとってできることは、ただそれだけだ。
俺にもし使命というものが、生きる上での使命というものがあるとすれば、それは果たせねばならない。
そしてそれをなすことが必要ならば、この苦しみのときをくぐらねばならぬだろう。」
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苦悩の中で、福島さんは「これは神の試練である」と、自分に言い聞かせます。
(後に、このことは福島さんの中で「自分が生きる伸びるための自分への必死の説得だった」と語られるわけですが。。。)





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福島智『ぼくの命は言葉とともにある』
「盲ろうの世界は宇宙空間に一人だけで漂っているような状態だと言いました。
しかし、それは単に見えない聞こえないという状況を説明しているだけでなく、
自分の存在さえも見失い、認識できなくなるような状況で生きていることをも意味しています。
周囲の世界が徐々に遠のいていき、自分がこの世界から消えていってしまうように感じられるのです。

その真空に浮かんだ私をつなぎとめ、確かに存在していると実感させてくれるのが他者の存在であり、他者とのコミュニケーションです。
つまり、他者に対して照射され、そこから反射して戻ってくる「コミュニケーションという光」を受け止めることによって初めて、自分の存在を実感することができる。
他者とのかかわりが自分の存在を確かめる唯一の方法だ、ということです。」
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精神の危機的状況を乗り越えた福島さんは、そこで「自分」という存在と向き合う事になります。
そして、「自分」を深く「しさく(思索)」した時に、「他者」という存在に改めて気付きました。

他者の存在や他者とのコミュニケーションという光によって照らされるのが「自分」という存在なのだ、と。

仏教でいう<縁起>、ティックナットハンの<inter-being(相互依存的存在)>、日本人の<おかげさま>。
という発想も、自分を考えながら同時に自分以外の他者を重ね合わせて思うということだと思う。
他者とのコミュニケーションや対話により、はじめて自分という存在は立ち現れるのだと思います。


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ティク・ナット・ハン「禅への鍵」(2012-12-23)
たとえば、この机は時間的にも空間的にも、「机ではない要素」からのみ成立しています。
机が存在しているということは、すべての非机的要素が存在しているということ、言いかえれば全宇宙が存在している事を示しているのです。
華厳思想の中では、「重々無尽の縁起」と言う言葉で表現されます。
「一即多、多即一」ということです。
わたしはそれをinter-being(相互依存的存在)と呼んでいます。
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福島智『ぼくの命は言葉とともにある』
「盲ろうとなって私がぶつかった第一の壁は、コミュニケーション手段の確保でした。
第二の壁は、そのコミュニケーション手段を実際に用いて、持続的に会話する相手をつくること。つまり、他者とのコミュニケーション関係を形成することです。
そして、第三の壁は、周囲の「コミュニケーション状況」に私が能動的に参加できるようにすること。いわば、「開かれたコミュニケーション空間」を私の周囲に生みだすことだったのです。
Mさんが始めたやり方は、指点字通訳の原則として、その後定着していきました。
そして、このように開かれたコミュニケーションが保障された時、私は盲ろうになって初めて、「自分は世界の中にいる」と実感できたのでした。こうして私の新たな人生が始まりました。」
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福島さんは、第1の壁<コミュニケーション手段の確保>、
第2の壁<他者とのコミュニケーション関係を形成すること>、
と進み、その先に<周囲の「コミュニケーション状況」に能動的に参加できないと他者とコミュニケーションしているとは言えない>というの第3の壁にもぶち当たりました。
そうでないと、特殊なコミュニケーション空間で交流していることになってしまう、と。

そこで、「開かれたコミュニケーション空間」を周囲に生みだすことが、福島さんの生きる指針となり、学術的な研究のテーマにもなっていきます。
このことは、私たちの日常でも同じことが言えると思います。

対話は、自分と相手の二つの要素だけで構成しているわけではなく、ある場のなかにあるもの。
その場が開かれていればいるほど、対話の内容も開かれたものになっていくのだと思います。




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第一章 静かなる戦場で
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ここでは、強制収容所に強制連行されたフランクルという心理学者が、生や死の極限状態、人間の尊厳の極限状態を経て紡ぎだされる言葉が紹介されます。

フランクルの『死と愛』には、
生きる上で実現する価値には三つの段階が記されていました。

・創造価値 世界に何かを与える行為に伴う価値
・体験価値 想像できなくとも、美しい風景に感動する、といった行為に伴う価値
・態度価値 生命が大いなる苦悩に直面した時にも、その苦悩にどう対処するかで態度価値は実現される。

創造価値を経て、体験価値を経て、その上でどんな極限の苦悩にもどういう態度で生きることができるか、という態度価値が究極的には求められるのだ、ということです。



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フランクル『死と愛』
「人間が彼の生命の制限に対していかなる態度をとるかということの中に実現化されるような第三の重要な価値群が存在するのである。
その可能性の狭隘化に対して人間がいかなる態度をとるかというまさにそのことの中に、
新しい独自な価値の領域が開かれるのであり、それは確実に最高の価値にすら属するのである」
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フランクル『死と愛』
「強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人々について、いくらでも語れるのではないだろうか。
そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪う事ができるが、
たった一つ、与えられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。
実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。」
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フランクル『意味への遺志』
「絶望=苦悩マイナス意味。つまり、絶望とは意味なき苦脳である。」
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フランクルと言う極限の状態を生きた人の言葉をなぞりながら、福島さんはこのように語られます。

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福島智『ぼくの命は言葉とともにある』
「自分のしんどさには意味があるし、自分には果たすべき使命があるという考え方は、自己崩壊から逃れるための、苦悩の中での私なりのサバイバル戦略だったのだろうと思います。
つまり、いかに生き延びるかを探っていたのです。
道徳的・倫理的な発想から出たものではなく、また信仰者として特定の宗教の神にお願いするような感じでもなく、どうすれば自分が納得できるかを考えた結果です。

自分が納得すること、つまり自分の状態に「意味」を見出すことが救いになるのだと思います。
人にとって意味を持つと言う事は、生きていく上でとても重要なものなのです。」
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「人は無意味には死なないし、死のうとも思いません。
無意味に死ぬことを積極的に求める人は一人もいないはずです。
おそらく自殺する人であっても、その人なりの何かしらの意味を見出したのでしょう。

死であっても意味が必要なのですから、生きるうえでは絶対に意味が欠かせません。
また、生きる意味を見いだせれば、生きるという行為は間違いなく輝くはずです。
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フランクルと状況は違えども、絶望、という状況からなんとか立ち直ろうとした心的プロセスは同じような道筋をたどると思います。

そして、そういう経験談は、僕らが何か突然の悲劇に遭遇した時に「これは自分だけではないのだ」と思うだけでも大きな力になります。

人間は全く同じ経験をすることはできません。
ただ、その深い本質において、違う経験同士でも共鳴・共感できるのではないかと思います。
体験の深さや体験の質や量により、共鳴・共感できる範囲は拡張されていきます。

深いところ、というのは、ある種の絶望であり、その絶望の深さから、希望へと立ち上がるプロセスには、共通性があるのだと思います。


自分も読んでいて、何か福島さんの絶望の時期から少しずつ立ち上がり起き上がるプロセスを追体験しているような不思議な感覚に陥りました。




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第二章 人間は自分たちが思っているほど強い存在ではない
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福島智『ぼくの命は言葉とともにある』
自分の中にある「生きる意味」とか「宝」といったものに気付ける人はどういう人なのでしょうか。
はっきりとは言えませんが、一つの条件は「自分の弱さをとことん知っている人」ではないかと思います。
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神谷美恵子『生きがいについて』
「人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。
野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場から見たら存在理由があるに違いない。
自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にも認められないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。
もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。
そもそも宇宙のなかで、人類の生存とはそれほど重大なものであろうか。」
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神谷美恵子さんの文章を紹介しながら、自分の存在の意味の発見は、他者の意味、そしてそれは人類の意味への考察にまでつながっているのだ、と。

神谷美恵子さんの文章は素敵ですよね。
自分も、5年前に神谷さんの本の感想を書いていたことをふと思い出しました。
⇒●神谷美恵子「本、そして人」(2010-10-24)


神谷美恵子さんの本を読み返すと、グッとつかまれるものがあります。
神谷さんの文章には、人生の切実さ、が感じられます。
その切実さ、において、福島さんは共鳴しているのかもしれません。



このように、本著作では色々な方の声がポリフォニーのように響き合います。
福島さんは一文字一文字刻むだけでも大変なのではないかと察するのですが、これだけの著作を読み込み、そして縦横無尽に引用される力には本当にほんとうに驚きました。



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立花隆『宇宙からの帰還』
「私の目の下では、ちょうど、第三次中東戦争が行われていた。
人間同士が殺し合うより前にもっとしなければならないことがある。」(アポロ9号、手話イカート)
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「はじめはその美しさ、生命感に目を奪われていたが、やがて、その弱弱しさ、もろさを感じるようになる。・・・・
宇宙の暗黒の中の小さな青い宝石。それが地球だ。
・・・・かくも無力で弱い存在が宇宙の中で生きているということ。これこそ神の恩寵だということが、何の説明もなしに実感できるのだ。」(アポロ15号、アーウィン)
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福島さんは病の体験によりものの見方が変わり、世界観の改変を余儀なくされました。
視点が変わる事で、世界は違って見えます。
そのことは、人間が宇宙からの視点、というものを得た瞬間と似た体験なのかもしれません。
地球を具体的に俯瞰的に見ることのできた宇宙飛行士の言葉。

僕らは生きているうちにできる経験は限られていますが、本という媒体を介して、無限に追体験できるということはすごいことです。だから読書はやめられません。



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第三章 今この一瞬も戦闘状態、私の人生を支える命ある言葉
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障害者は行動の自由やコミュニケーションの自由が奪われているという意味で、
言わば「目に見えない透明な壁に囲まれた刑務所」に「無実の罪」で収監されている存在だと持捉えることができると思います。
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私自身が盲ろう者になって強く感じたことがもう一つあります。
それは、コミュニケーションは独力では成立しないものだという事です。
他者の働きかけがあって、初めてコミュニケーションは成り立つのです。
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福島さんは、ひとり、孤高に「しさく(思索)」し続けます。
それは与えられた使命・天命のように。

その中で、コミュニケーションの本質へ至ります。
コミュニケーションの本質は、こちらが能動的に行うものばかりではなく、他者からの受け身の働きかけで<出会い>が起こり成立するものだ、ということです。
そうして、コミュニケーションの本質というものを「しさく(思索)」されていきます。
そのことが、東京大学での福島研究室が行っているバリアフリープロジェクトへともつながっています。


ドストエフスキーや、パウロ・フレイレ、マルティン・ブーバーの引用までも!

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ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
「実行的な愛は、空想の愛に比べてこわくなるほど峻烈なものですよ。」
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パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』
「対話とは出合いであり、対話者同士の省察と行動がそこでひとつに結びついて、変革し人間化すべき世界へと向かう」
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マルティン・ブーバー『我と汝・対話』
「<われ>とは<なんじ>と関係に入ることによって<われ>となる。<われ>となることによってわたしは、<なんじ>と語りかけるようになる。すべての真の生とは出合いである。」
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福島智『ぼくの命は言葉とともにある』
「コミュニケーションによる他者の認識が、自己の存在の実感につながる。」
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「光そのものには明るさはなく、光を反射する「何か」があって、初めて光は明るさを生みだす。」
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コミュニケーションは、「わたし」と「あなた」がいないと成立しない。
それは、こういうブログも同じです。
「わたし」が「わたし」に書き続けるものは日記です。閉じられたもの。
「わたし」が「あなた」を意識した瞬間、それは開かれたものとなり、目的や意味が変容します。




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指先の宇宙 

ぼくが光と音を失ったとき、
そこには言葉がなかった。
そして世界がなかった。

ぼくは闇と静寂の中でただ一人、
言葉をなくして座っていた。
ぼくの指にきみの指がふれたとき、
そこに言葉が生まれた。

言葉は光をはなちメロディを取り戻した。
ぼくが指先を通してきみとコミュニケートするとき、
そこに新たな宇宙が生まれ、
ぼくは再び世界を発見した。

コミュニケーションはぼくの命。
ぼくの命はいつも言葉とともにある。
指先の宇宙で紡ぎ出された言葉とともに。
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福島さんの詩。
素敵です。
短い中に、闇や静寂へと光がさーっと差し込んだ瞬間が、映像として浮かぶようです。






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第四章 生きる力と勇気の多くを、読書が与えてくれた
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『クマのプーさん』が想像の世界にいざなってくれた、として、ファンタジーの深い効用を語られます。
同時に、<小松左京のSF的発想に生きる力をもらう。>とも。

福島さんは小松左京の「果てしなき流れの果てに」がお気に入りのようで、自分も大好きな著作です。
一度、書評を書こうとして挫折したような覚えがあります。それほど、この本は迷宮のようにとらえどころのない不思議な本です。

自分も、SFや小松左京さんは大好きです。
こういう時代こそ、SFは再発見されていいと思います。そこには精神の自由があります。
⇒●小松左京「ゴルディアスの結び目」(2013-06-04)



自由な発想とユーモアが、SFと落語に共通するエッセンスです。
そして、落語が「笑いが生きる力になる」ということを教え、アポロ13号とロビンソン・クルーソーに極限状況をいかに生きるかを学んだ、とも。



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SF的な発想あるいは落語的な発想、それは言ってみれば「発想の転換の発想」が好きなのです。
SF的発想とは、たとえば、今、自分の目の前にある現実を、唯一絶対的な固定的な現実とは見なさないということです。
(中略)
そして、落語的なユーモアの感覚、人生やものごとを面白がるというスタンスです。
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私が北方謙三作品から学んだことは、「筋を通した生き方」であり、「たとえ弱くても、力がなくても、ただ一人で、その場に立ち尽くすこと、立ち続けることの意味」だと思います。
また、死者が、生きているものの心の中で、いっそう強く生き続けるのだというメッセージです。
こうしたメッセージは、生きることの切なさと悲しさ、そして美しさを伴って私の心に染みました。
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第五章 再生を支えてくれた家族と友と、永遠なるものと
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カール・ヤスパース『哲学入門』
「人間が自己の挫折をどのように経験するかということが、その人間がいかなるものとなるかということを立証するのであります。」
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カール・ヤスパース『哲学入門』
「限界状況で暗号としての超越者の声を聞く。」
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カール・ヤスパースが『哲学入門』の中で、<哲学>の起こりとして書いていること。
これは、まさに私たちが絶望のように思える限界状況から、どれだけ深く内省して自分の中で思索し、そこから立ち上がる力を得るか、というプロセスのように感じられます。

そういうプロセスを経ている人は、すべて「生きた哲学」を体験しています。
あとは、その圧倒的な体験をいかに言葉でうまく表現できるか、ということが哲学へと昇華されていくかどうかの分かれ道なのでしょう。

ただ、言語化にできなくても、哲学の本質は誰もが生きている以上経験するものではないかと思うのです。


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第六章 盲ろう者の視点で考える幸福の姿
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吉本隆明『アエラ(2005年1月17日号)』
「わたしたちはまえを向いて生きているんですが、
幸福というのは、近い将来を見つめる視線にあるのではなく、
どこか現在自分が生きていることをうしろから見ている視線のなかに、ふくまれているような気がするんです。」
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最後に、吉本隆明さんの言葉が紹介されていました。

自分という存在は過去にも現在にも未来にも幅を持って存在しています。
前のめりになる自分を、そっと後ろから見守るもう一人の自分の存在。

そうして自分のいろんな体験や行動自体を、暖かく見守るような視線で包括的に俯瞰的にとらえることができるようになれば、
心が不安定に揺れ動くこともなくなり、安心は幸福へとつながるのかもしれません。



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この本は、福島さんの稀有な体験が数多く語られますが、福島さんもご自身だけで絶望から立ち上がったわけではありません。
様々な先人の本から、思索から、言葉から、多くの勇気を得て、その先人の愛の力によって引き上げられたような気がします。
それは読書という行為ならではの体験。

読書は、どんな偉人でも故人でも、マンツーマンの家庭教師のように自分に語りかけてくれるのです。
この本を読んでいるときも、福島さんの暖かな懐に包まれながら、何か深い場所でつながっているような感覚を感じながら、本を読み進めたのでした。
是非お読みください。